傷を付けた男
剣の仲間達が着る新生祭の衣装を着々と作り進めるインカー。ある日、売り言葉に買い言葉から始まったインカーとライサの喧嘩は修正不可能な亀裂を生み、ライサが訣別のために投げた短剣が、インカーの左腕を切り裂いた。
インカーの傷の手当をしに一階に降りると、銀細工を作っていたクリスが気付いて真っ青になった。
「なっ、どうしたインカーちゃん!?」
「インカー姉がライサと喧嘩になって、やられたんだ」
「ハァ!?あいつ見損なったぞ…!お前ら野郎二人もついてて何で止められなかったんだよ!」
「やめてくれ、スッス。全部私が悪いんだよ。あいつのことをちゃんと見ているつもりで、保護者気取りでさ。何も見えてなかったんだ…」
「だからって怪我させることないだろ!ちょっと待ってくれ、俺なら…」
クリスはナノマシンの丸薬をインカーに飲ませようとして、インカーが剣の仲間でないことに気付いた。これを飲ませるということは、剣の秘密を知ることに繋がるかもしれない。詳細を伏せたままでは、気味悪がられるかもしれない。しかし、傷口から、その赤から、目が離せない。
「…俺、なら、回復の魔法が使えるんだ。…まず、この丸薬を飲んでくれ。俺がそれに魔法をかけるから、そしたら、そんな傷なんて、傷痕も残らず綺麗に治るから…」
「そう、スッスは凄いんだな。傷痕も残らず、か。それは……嫌だな」
インカーは苦笑した。クリスは余裕なさげに顔を歪めた。
「何でだよ。傷なんか残ったって何も良いことないんだぞ。それを見る度に、傷がついた時のことを思い出すんだ。インカーちゃんの心から、あいつの付けた傷が消えなくなる。周りだってそうだ。自分が守れなかったこと、自分が傍にいられなかったことを思い出すんだ。そんなのは、俺、嫌だ…もう傷痕なんて見るのも嫌なんだよ…」
インカーは激しく動揺しているクリスに驚いたが、何か事情があるのだろうと察した。
「落ち着いてくれよ、スッス。私は自戒のために残したいだけだ。魔法を使わなくても放っておけばそれなりに回復する。自然のままでいいよ」
「俺が無理なんだよ…頼む、飲んで…」
クリスの鬼気迫る様子にインカーはたじろいだ。一瞬目が泳ぐ。その瞬間クリスの目が妖しく煌めき、躊躇なく丸薬をインカーの口にねじ込んだ。そのまま彼女を抱き寄せ、接吻する。舌で押し込み、唾液を流し込み、飲み込ませる。
「!?……!!?」
インカーは抵抗したが、物凄い腕力で頭と肩を固定されている上、足も床に着かない状態で大した力は入らなかった。
「クリス君はそんな手荒なことしない。君か、リノモジュール…」
セルシアが低い声で唸る。レオンとフィーネは状況が飲み込めず呆気に取られていた。
「これは治療行為だ。問題はない。…クリスは甘いからね」
漸くインカーを解放したクリスから、他人の様な言葉が出る。
「スッス…?じゃない、のか?」
右手で口を押さえ、顔を真っ赤にしながら床に崩れ落ちたインカーが声を掛ける。クリスの顔を持つ男は、無感動に彼女を見下ろしながら、口元だけ笑顔を作った。
「クリスより先にキスを奪ってしまって申し訳無い。僕はリノ。クリスの中に居候する人間。クリスと相思相愛にして、最初の傷を付けた男だよ」
「スッスは…?」
「クリスなら今、荒れてて使い物にならない。僕が飲ませてやるからと言ったら制御権を放り投げてきたのさ。多分後で謝られると思うけど、悪いのは僕だから許してやってね」
「…お断りだよ。お前の言うこと聞いたら、お前のせいになるだろ。私がキスしたのは、クリスだ。知らない男じゃない」
インカーが男を睨みつける。男は戯けたように肩を竦めた。
「おや、意外とポイント貯まってたみたいだね。構わないよ、こいつが持ち直したらゆっくりそこは話し合ってくれ」
そう言って踵を返そうとして、思い出したかのように笑顔でインカーの傍に屈み込む。インカーは警戒して上体を反らした。
「そうそう、治療…の魔法なんだけどさ。傷をどこまで治すかは君の自由意志で決められるからね。そろそろ治療薬が全身に回って傷を治し始める。今まだ君が傷痕を残したいと思っているなら、痕は残るよ。そのうち消したいなと思うことがあれば、クリスの傍に行けばまた魔法が活性化されて、簡単に消せるから。僕は傷痕を消せなんて言わない。お好きな濃さでどうぞ」
彼の言う通り、インカーの傷はみるみる塞がり、血管を繋ぎ、肉を埋めた。最終的に薄っすらと色が異なるだけの傷痕になったのを、インカーは驚きの目で見ていた。男は治療が終わったのを確認すると満足気に頷き、立ち去ろうとした。
「リノちゃん、どこへ行くんです?」
セルシアが声を掛ける。
「ちょっと走ってくるよ。今この場でクリスに制御権戻しても、多分こいつ発狂するから。落ち着いたら帰ってくるはずさ」
そう言って、彼は手を振りながら家を出ていった。
琴の音通りで捕まえたセルシアから金を無心して、一晩散財した。自暴自棄になっているのが自分でも分かる。遊んでいた女の子が部屋から出ていったので身支度をする。双剣に変えたプラズマイドを腰帯に挿す。プラズマイドを触ると、インカーとリノのことがまた頭を占め始める。リノのことが許せない。インカーに合わせる顔がない。体の制御権は無かったが、感覚は共有されていた。温かく柔らかい身体、強情な薄い唇、擽ったいザラつきのある舌、紅潮した顔、睨んでくる潤んだ目。
「きっつ……」
クリスは布団に倒れ込んだ。最低だ。それらを得たと喜ぶ本能に、自己嫌悪し吐きそうになる。いや、悪酔いしているだけかもしれない。リノが悪いんじゃない。全部丸投げした自分が最低なのだ。リノは合理主義だし斟酌なんかしないし、何より俺が好いた相手にどういう行動を取るか、予想してしかるべきだった。あんな、自己紹介が全部マウント攻撃になることある?いや、リノのことは別にいい、機嫌を取ってやる謂れも無い。客観的になれ、あいつも絶対悪い。それより、インカーだ。多少なりとも好意を持っていてくれていたらしい。それを踏み躙った。小さな芽を暴いて台無しにした。それは、彼女を傷付けたライサの行為と、何が違う?
「インカーなら平気だよ。あいつ強いから」
入り口から声が掛かる。いつの間にかライサが入ってきていた。
「お前…何でここにいるんだ」
「銀竜バッジのライサは顔が広いのさ。他所モンのお前らは目立つしな。クリス…ちょっと顔貸せよ。話があるんだ。こんなとこでウロウロしててもインカーとそのうち鉢合わせるぞ。地下の地下まで一緒に来いよ」
ライサが連れてきたのは、いかにも治安の悪そうな一角だった。虚ろな目をした褐色肌の人間があちこちに倒れ込み、鼠がその服を食べている。ライサはフェイスベールを付けて、クリスにも同じものを渡した。
「この辺の連中がやってるこの臭いのはアブアっていう煙草な。匂いは染み付いてるけど、煙を直接吸わなきゃまあ大丈夫」
ライサは臆することなく進み、瓦礫の寄せ集めと大きな布でかろうじて形を保っているようなボロい建物に案内した。
「『耳のある奴は聞け』。明けの部屋のライサだ、ムファンのおっさん、開けろ」
ややあって、内側からくぐもった老人の声が聞こえてきた。
「…目のある奴は見ろ」
「文句のある奴は死ね」
ガチャン、と扉が開いた。ボロ布の扉に見えたのは、実は布を貼ってある鉄製の頑丈な二重扉であった。二人は中に入った。
「随分な合言葉だな…」
「身内用だよ。ようムファン、実入りは良いか?」
ライサは扉を元通りにしっかり閉めると、入り口の右側で店子をしている、気怠そうに白煙をふかしている短髪の老人に声を掛けた。左肘から先が無い。ムファンと呼ばれた男はチラとクリスを見、ライサにふうと煙を吹き掛けた。どこか甘い、怪しげな香りのする煙だった。
「ガキは元気が余っていると見える。もう二人目か」
ライサは嫌そうな視線をその店子に向けた。
「余計な口きくんじゃねェ。右腕も失くしたいのか」
「ふん…惜しい命じゃないが右が失くなると煙が吸えん。そいつぁ困る」
「なら黙っとけ。行こう、クリちゅ。このおっさんと喋ってっとそれだけでアブア中毒になりそうだ」
小柄なライサがクリスの腕に絡みつき、少女の様に笑う。すぐに目当ての部屋を見つけると、クリスを簡素なベッドに座らせ、自分もするりと中に入ってからそっと扉を閉めた。そして猫の様に音を立てずにクリスの膝の上に馬乗りになる。
「ライサ、お前…」
「なぁに?こんな所まで来て、何もないと思ってた訳?」
「話があるんじゃなかったのか」
「んー、まあ…あるには、ある…」
ライサは上の空で返事しながら、すっとクリスにしなだれかかり、その腰に両手を回す。クリスは目を細めた。何となくだがライサの狙いが読めたのだ。彼は誘いに乗るかのようにライサの肩を左手で抱き、右手で頭を撫でた。ライサの手が彼の背中をついと撫で上げ、肩に巻き付く。その左手が器用にクリスの上着を肩から払い落とした。
「クリス…、俺、クリスのこと、好きだよ。初めて会った時から」
「……」
「でもね、最近のクリちゅの行動、あれ、酷いよ。お蔭で俺の心はボロボロだぁ」
はあぁ、とライサはクリスの胸の上で溜息をついた。息の当たった部分がじんわりと温かくなる。彼はそこに猫の様に頭をすりつけた。
「だからねぇ…はっきりさせようと思ってさ。ねぇ、クリス…インカーのこと、好き?」
「好きだ」
「…そう…じゃあ、仕方ねェな」
ライサの右手の中でキラリと光ったものがあった。