未来都市と不死身の神
クリスに連れられ雲上の未来都市にやって来たレオン達は、喉に傷を負い声が出ないのをインプラントの会話モジュールを自作して克服した美しい少年技師リノと出会う。
「さて、そろそろアルコールは効いてきたか?ナノマシンの用意が出来たぞ。雷様によればこれがレオン用、サンリア用、セルシア用、だそうだ。お前ら煙草は出来るか?」
モルガンがカウンターの怪しげな機械から透明の袋に煙を詰めながらレオン達に声をかけた。
「俺、やったことない」
「私もないわ」
「ふむ、じゃあ少し咳込むかもしれないから、この袋を口に当てて、無理せず少しずつ中で息を吸ってくれ。吐くのは鼻からな。いけそうなら少し深呼吸してもいい。全部吸い終わったら終了だ」
レオンは言われた通りにしてみた。舌と喉の奥が少しチクチクし、少しして急に寒気が襲ってきた。寒いのに冷や汗がドッと出る。
「坊主、一旦ストップだ。袋縛るぞ。酒を飲め、楽になるから」
言われて酒を口に含む。噎せそうになるのをぐっと堪えて飲み下すと、胃の中から少しずつ正体を取り戻す心地がして安堵の溜息が出た。セルシアはもう全部吸い終わってケロリとしている。サンリアは慎重に、だが順調に少しずつ吸えている様だ。
「酒が薄いと難しいんだよな。人それぞれだから気にせず、楽になったら再開してくれ」
レオンは頷き、少し酔う兆しを感じるまで酒を飲んでから再開した。
先程の様な悪心はもう訪れず、煙のせいなのか酒のせいなのか、むしろくらりと良い気分で吸い終えた。
「これが煙草かぁ。大変だったな」
「煙草はもう一癖あるけどな。まあ近い体験だろう。肺からナノマシンがお前らの体に入った。抗ウイルスや血糖値記録なんかのボディメンテナンス用、医療用が殆どだが、怪しいものもある。雷様ご謹製とかな。後で解析してやろう」
『余計なことをするな、モルガン』
クリスの頬の模様が浮かび上がり、輝く蝶がひらひらと舞い出た。モルガンとリノが眉を顰める。
「…雷様かよ。こりゃ随分御大層な事で…うちの工房を使うなら、覚悟の上じゃないのかね」
『記憶を消されたいのか?俺の監理を嫌ってこのスラムを造り上げたのだから、お互い不干渉でいるべきだろう』
「そりゃあごもっともだ。まさか聞かれているとは思わなくてな」
『聞いていた訳ではない、聞こえてしまうのだよ。今は聞き捨てならないから反応しただけだ』
「そーでしたそーでした。で?何のナノマシンだったんだ?解析されたくないなら教えろ」
『翻訳デバイス無しで特定の言語を理解させるための写像関数装置。それから、魔力補助のナノマシンだよ』
「…魔力ゥ?」
店内に微妙な沈黙が降りた。蝶がひらひらとカウンターに留まる。モルガンは苦虫を噛み潰した顔でそれを睨んだ。
『モルガンは魔法を信じないのだな。まあそれは良い。ヒトの科学が追い付くまで、理解出来ない故に認識出来ないモノが増えるだけだ。理解出来ずとも信じれば、認識出来る。私の神の力と同じだ』
「俺は神の力とやらも信じてねーぞ。半人半モジュールなだけだ、お前は。この街の甘く烟る大気に満ち溢れているナノマシンもお前だ。その処理能力には舌を巻くが、それだってテメエの人の身でこなしてる訳じゃねえ。意識と思考を機械に託し、ほぼ人であることを放棄した最初の人間がお前だ、雷様」
『そういう面も多いにある』
神を否定されても、あっさりと雷様は受け容れた。
『だがそれだけではない。例えば私は生身でも、そして国外でも、神の力を操る事が出来る』
「そりゃあおめえ…ナノマシン持ち歩いてるんだろ」
『さてね。神を信じないならばそういう結論で永久に留まり認識を阻害されるだろう。私は構わない。ところで…その、リンスとは』
雷様が言葉を切る。モルガンは蝶から目を逸らした。
『…今も円満に暮らしている』
「……そうかよ」
そう声を絞り出すと、彼は深く溜息を吐いた。
店を出て、再びゴンドラに乗った。リノは外まで見送りに来た。柔らかい笑顔だが無言でクリスに手を振り、鐘がカラカランと鳴った。
今や世界は情報に溢れていた。電子看板が至る所に張り出し、人の影身が歩き回っている。店の棚には商品が投影され、白く輝く電子猫まで闊歩している。ご丁寧にドブの臭いがしてきたのでレオンが眉を顰めると、カットするかどうかのウインドウが出たのでカットを選択した。すると綺麗さっぱり嫌な臭いはしなくなった。雰囲気作りのためだけの要素だったか、あるいは、彼の嗅覚に何らかの働きかけが為されているのかもしれない。
レオン、サンリア、セルシアは、名前と旅人という身分だけが公開情報に表示されていた。
「なあクリス、リンスって誰だったんだ?」
「あー…雷様の今の奥さんだよ。そんで、モルガンの叔父貴の妹だ。叔父貴は雷様を恨んでるんだ。終の伴侶を一人と定め、共に老いて死ぬ、そんな人間的な幸せを妹から奪ったってねー」
「ふーん…よく分からないな、神様って偉いんだろ?結婚したら裕福に暮らせるんじゃねーの?」
「モノには不自由しないと思うよー。でも…自分ばかりが年老いて、死んだら次の妻が娶られる。そういうのに耐えられる人はあんまりいなかった。
何人かの奥さんの話を見聞きしたけど…
皆最期には自殺したんだ」
「自殺、出来るんですか?このシステムの中で」
セルシアが首を傾げる。喉の傷を治すなどという話が出るくらい医療モジュールとやらは優秀なのだろう、それが体内に存在していてどうやって体を殺すことができるのだろうか、と彼は不思議に思ったのだった。
「ナノマシンを統括するモジュールを意図的に抑え込めばね。不意の事故なんかではほぼ死なないよー。でも死にたいと本人が思うなら、それに背くことは機械には出来ないんだ。勿論死ぬ途中で一瞬でも後悔したら即蘇生される。
だから実際死ぬには物凄い決意が必要なんだなー…」
「リノさんの、あの傷はもしかして…」
「…まあ、察するよね。うん…あれも、恨み、かなー」
暫く沈黙が続き、セルシアが背負っていたティルーンを胸に抱えてゴンドラの床に座った。
カバーを外してゆっくりと歌い始める。
幸せな国とは何だろう
事故や病気は無くなろう
それでも闇は残るだろう
雲の上でもまだ足りぬ
これより上は堪えられぬ
陽の眩しさに目が灼ける
夜の冷たさに手が凍る
求めるほどに逃げてゆく…
「セルシア。さん。んもー、やめよっか、それ。良くないよー。そういうの、良くないよ…」
クリスがめそめそと泣き出したので、セルシアは歌をやめてただ穏やかにティルーンを爪弾いた。これ以上クリスを虐めるつもりはなかった。
この世界は天の光彩に満ち溢れ美しく、光よりも忙しなく、地に蹲る民に寄り添うことはなかった。
「ふう。よし、そろそろ王宮に着くよー。カッコ悪いとこ見られたけど、俺はそれでもこの国が好きなんだ。大切な人がその才能を発揮して楽しく生きていられる、この国がね。
そして、この国がこう在るのは間違いなく雷様のお陰なんだ。モルガンの叔父貴も、そこは分かってるから理性では認めてはいるんだよねー。だから皆もこの国を好きになってくれると嬉しいなー」
クリスが口の端だけで笑い、前方に聳える水晶の宮殿を指差した。いくつもの塔を抱え、何千人もの人が中で働いているであろうその宮殿は、全てガラスなのか水晶なのか、青く透き通っている。午後の陽光を受け燦然と輝くその様は、ARで飾らずとも壮観だった。