森に通う少年
少年はカメラを片手に森の中を散策していた。
季節は春の終わり。この時期が一番森を歩くのに適している。
若葉が多く夏ほど鬱蒼としておらず、かえって半袖半ズボンでも平気な位歩き易い。これが夏ならば下生えにヤマウルシの葉が広がり軍手と長ズボン必須、最悪レインコートまで着込んで汗びしょになりながら歩く羽目になる。それも嫌いではないが、あまり暑い日は海の方に遊びに行くことにしている。
下草を踏みしめる音。賑やかな鳥の囀り。木々がさわさわと葉を擦り合わせる音。自分が出す音も、自然が出す音も、とても心地良く彼の気を引き、無意識のうちに彼は笑顔になっていた。
昨日軽く雨が降ったからか、森はいつもよりも鮮やかで、まさに今から夏に向けて大きく成長しようとしていた。土は鼻を突く湿った匂いを発し、下草は踏みしめる度に噎せ返るような草いきれを放ち、木々からは幹の皮が裂け広がるかぐわしい香りと、若葉の爽やかなフィトンチッド。自分が鹿だったら喜び勇んで飛びついていただろう。
この音や匂いまで感じ取れるような写真を撮りたい。それが彼を森に向かわせる理由だ。
彼が歩を進めるたび、木漏れ日が狐色の髪を照らしては、黄色いシャツの背を流れ落ちていった。
どれ程歩いたのだろうか。
彼はそう簡単には疲れないので、余りそういうのを気にかけていないのだ。ただ木の幹に刺して目印にするピンは、もうほぼ無くなっている。
「…ん?」
ふと、森の中にキラリと輝く白いものが見えたような気がした。
一体何の光だろうか。少年はそちらへ歩き出した。
「な、なんだ…!?」
彼は自分の目を疑った!…それも当然である。なぜなら周囲とは明らかに違う桁外れに巨大な老樹がどっかりとそびえており、その木の又の部分には真っ白な剣が深々と突き刺さっていたからだ。突然見慣れた日常から切り取られたような、世界の狭間に放り出されたような異質な情景。
暫く少年は呆気に取られて離れたところからその老樹と白い剣を眺めていたが、瞬きを二十回ほどしたところでハッと我に返った。
慌ててカメラのシャッターを押す。
「…シオンに見せてやろ」
少年はカメラを握り締めながら、剣の方に近づいていった。
剣を見下ろす位置まで来ると、流石に触ってみたい欲が出てくる。
(ちょっとでも動くかなぁ?勇者のみが抜くことが出来る選定の剣…なんちゃって)
そう思いつつ柄を握り、力を入れる。すると…
キュ…スポッ…
「……。」
何とも呆気なかった。十五歳が軽く力を入れただけで剣が抜けたのだ。その余りの唐突さに、少年はただ呆然と剣を見ているだけであった。
と、急に辺りを静けさが包んだ。ついさっきまで聞こえていた、鳥の声や木々のざわめきも止んでいる。
訝しむ少年の頭上から、突然声が降ってきた。
『レオン…』
「サレイ母さん!?」
少年の名を呼ぶ懐かしい母の声。何年経とうとも聞き間違えようがない。
『グラ……を…てて…』
「え?」
『旅立っ…はる……て…』
「聞こえないよ!!」
『……』
声は沈黙してしまった。そうなると息を潜めて耳を澄ます彼に聞こえるのは、自分の鼓動と頭に血の流れる音だけだ。
「…ねぇ!」
彼は沈黙に耐え切れず呼びかけた。すると、全く異なる無機質な声が、今度は剣から返ってきた。
『…マダ…タリナイ…』
「は?」
『ナラバ…』
「何?待った!」
『シンジツ…ヲ…ミセヨウ……』
「無視するなぁ!真実って何だよ!?」
だが、声はもう聞こえなかった。
ドッ とレオン少年の耳に、今まで聞こえなかった森の合奏が戻ってくる。
「なんなんだよな…?」
レオンはそう言いながら辺りを見回し、もう一度剣を見た。
どこにも飾りは無く、片手でも余裕で振り回せそうなくらいに軽いが、両手で持てば柄の長さもまるで自分に合わせたようにぴったりしている。
剣を前に傾けてみた。太陽の光が剣に反射して、キラキラと輝き淡い金色の光を発している。
「わぁ…」
その神々しいまでに純白な剣に、彼は見とれてしまった。でも、さすがに町中をこの剣を持って歩くわけにはいかない。ここに置いて帰るしかなさそうだ。
老樹に立て掛けては写真を撮り、地面に寝かせては写真を撮る。確かにここにうつくしいものがあったのだと、証明するための行為だった。
森を出て、神社の境内へ。レオンが先程までいた森は、彼と兄が二人で暮らすアパートからほど近い、この寂れた神社の周囲に広がっている。レオンはこの森が大好きで、小さい頃からよくここへ来ていたのだ。
たまに今日のように森へ兄のカメラを持ち出しては、撮影した写真をSNSにアップする。最近は何故かそこそこ評判が良く、SNSのフォロワーは千人を超えている。グッズや展示の話などはまだ来たことがないが、ゆくゆくは写真で食べていけたらな、なんて考えたりもする。勿論、写真のために大学で勉強したい、なんて殊勝な考えには至らない彼なのだが。
しかし、兄のシオンはこの森の良さを知らない様だった。神社の裏に雑木林はあるが、森と呼べるようなものでもないだろ、という印象らしい。すぐ近くなのに…、とレオンは不思議がったものだ。
レオンは昼食をとりに帰宅した。
「おう、お帰り」
玄関ではシオンが床掃除していた。丁寧に上から順番に掃除する彼なので、きっと仕上げの段階なのだろう。
「ただいま。昼飯なに?」
「お前なぁ、たまには手伝えよ…。昨日の残りのミネストローネと、サンドイッチと、鶏ハムがそろそろヤバいからチキンシーザーサラダ作っといた」
手伝う余地がない。流石万能の兄である。
「シオンは良い旦那さんになるな」
「任せろ。いつ彼女に婿養子に呼ばれても大丈夫だ。ま、手の掛かる〈弟〉がいなけりゃの話だがな」
「えーっ、俺のせい?」
レオンが努めて明るく抗議すると、兄は笑いながら掃除道具を片付けに風呂場に向かった。
(……まあ、俺のせい、だよな)
レオンは玄関の鏡に映る、所在なげにカメラを抱えた少年を軽く睨んでやった。
中卒無職のレオンと違い、ちゃんとした会社に勤め、ひそかに人望厚い賢い青年。レオンの前では歯に衣着せないが、シオンは血も繋がっていない弟をこの九年間一人で面倒見てくれている自慢の兄だ。血も繋がっていないというのも、二人の両親は再婚だからだ。彼らはレオン三歳、シオン九歳の時に結婚した。
それからの三年間は、まるで夢の様な毎日だった。両親とも二人の息子に分け隔てなく接し、兄もレオンの面倒をよく見てくれた。
毎週日曜日には決まって一家で遊びに出掛けた。レオンは海で泳ぐのと、森で虫捕りをするのが大好きだった。
そして、レオン六歳の時──。
家族が増えた。妹が出来たのだ。
その日、つまり母の出産予定日、父はいつになくそわそわしていた。
母が「お腹が痛い」と言い出すと、父は跳び上がって喜んだ後、すぐさま病院へ連れていった。子供達は寝る時間だった為に、家で待機。だが、お守り役に父の姉、つまり叔母が付いていてくれた。
次の日の未明だった。
一人の男が家までやって来て、無表情にこう告げた。
「報告します。カオン殿ご夫妻、…昨夜の火事にて焼死されました。…ご愁傷様でした」
…レオンは、ホーコクやらショーシやらゴシューショーやらの言葉の意味が分からず兄を見た。シオンは驚愕の表情をあらわにしていたが、弟が見ていると知ると唇をキュッと結び、
「カオンパパとママが死んじゃった。火事で死んだらしいよ…」
と教えてくれた。その口調には、茫然という言葉が最も似合っていた。
だが、幼いレオンはまだ「死ぬ」という言葉に実感がなかった。
「死んだらどうなるの?」
お守りの叔母に聞くと、
「どこか違う世界、遠いトコロへ行っちゃうの。もう、二度と会えないトコロへ…」
と言って、泣き崩れてしまった。
シオンも、隠してはいるが、肩が揺れ、床が透明な液体で浸みている。
レオンは訳が解らなかったが、二度と会えないと聞いて、急に淋しくなった。
「…やだ、パパ、サレイママ、置いてかないでよ…!やだ、僕も一緒に行きたいよ…!!」
その後何を言ったかを彼自身は覚えていない。
ただ、三人で大泣きしたこと、その間黒い男が棒きれの様に突っ立っていたことは妙に覚えている。
シオンとレオンは二人で暮らす事になった。
勿論レオンの父方の親戚が引き取るという話は上がったらしい。しかし二人の葬式の日、親戚の誰かが、
「あんな身元も判らない怪しい子連れと結婚するからだ」
と失言した為にシオンが怒りレオンが暴れ、その話は立ち消えになったのだ。
お守りをしてくれた叔母はシオンに通帳を渡し、
「シオン君は児童施設にその年から入るの嫌でしょ。二人ともうちの養子ってことにするから、何かあったらいつでもおいでね」
と言いながらも、
「お金は一杯あるから大丈夫よね」
と言って帰ってしまった。勿論本当にシオンを気遣ったのではなく、炊事場の会話で「本家筋から施設送りは外聞もあるし」と渋っていたのを二人は見ている。
他の親戚連中も、「元気でな」だの「頑張れ」だのと他人事の様に声を掛けてから皆いなくなった。
どうやら元々祝福された結婚ではなかったらしい。
今思えば、遺産を残してくれただけでも有情だったのかもしれない。
だが、その時から決定的に、二人は大人社会との絆を失くしてしまったのだった。
シオンは皆の前では気丈にも涙を堪えていたが、皆が帰った後、部屋に閉じこもり独りで泣いていた。
レオンは前に学校の先生が言っていた事を思い出した。レオンのお気に入りの鉛筆が失くなった時だ。
「大丈夫、きっとまた見つかるよ」
彼女はそう言ってレオンを慰めてくれた。
「大丈夫、シオン。きっとまた会えるよ」
先生の口調を真似して、彼は言った。すると、シオンの開かずの扉がカチャリと開き、中から目を腫らしながら微笑む兄の顔が出てきたので、レオンは安心した。
「お前は、良いよな」
兄は子狐のような小さい頭をくしゃくしゃと撫でた。
そうして、兄弟の共同生活が始まったのだ。