黒い怪物
『その剣!私の…返せ、よくも…あぁ!』
「返せと言うのなら、取りに来れば宜しかろう」
『私は…此処を動けないのだ、こんな所に縛り付けられて』
「そう。残念でしたね。それじゃ、僕はこの二人を連れて帰ります」
踵を返しかけたセルシアの腕を、レオンが掴んだ。
「待てよ、セルシア。
惑わされてって笑うなら笑え、でも俺は正直どっちが正しいのか分からねえ。
だから仲間だって言うなら、セルシアが正しいって言うんなら、あの子の所に連れて行ってくれ」
セルシアは一瞬呆気に取られた様な顔をし、それから苦笑した。
「……分かりました。それで信用を得られるのなら」
『見て!この男の迷いの無さ。
そいつはこの迷路に詳しいのよ、だから私を閉じ込められたんだわ。騙されないで二人とも!』
「囚われてるっていうのに、やけに元気ね?」
サンリアがぴしゃりと言うと、少女は押し黙ってしまった。
「あれ、そう言えば声聞こえる様になってるな」
「え、今更なの!?」
「レオン君が壁を壊した時点で、結界が崩れたんでしょう」
「知っててやったんだと思ってたわ…」
「まさか…でもラッキーだったな!」
「何がですか?」
「あの壁壊して天井が崩れて来なくて、さ」
「…そういえば…、マズい、急ぎましょう」
セルシアは駆け出した。
確かに迷い無さそうな速度だが、時たま急に立ち止まって剣先を振っている。
「セルシア、何やってるの?」
「音の反響を聞いてるんですよ、奥の出口に至る道を探してね」
「道知ってるんじゃないのか?」
「僕が此処を通ったのは一度だけですよ、サルレイ女史に連れられ迷路の入口に転送されたんです。
その一度で道を覚えられる様な天才じゃない。壁を叩きながら少しずつ進みました。
でもその時の音の記憶を、僕自身も殆ど忘れてしまった記憶をこの剣が引き出してくれるので、余り迷わずに済んでるんですよ。
ネタばらしをすると、ただそれだけのことです。…っと、こっちだ」
「それだけ…て、壁叩いて音で道分かるってだけでも凄いぞ…」
「僕は音の民だから。他の人には聞こえない小さな音や高い音も聞こえるしね」
「超能力って言って良いと思うわ」
「えぇ?照れるなぁ。でも僕らの身内では普通のことですよ」
セルシアはにこりと微笑み、また走り出した。
「さぁ急いで。宮殿中が軋んでる。崩れるのも時間の問題だ」
『や…めろ…こっちに来るな…私を見るな…』
「おやおや、さっきと言ってることが正反対ですよ?サルレイ女史」
『違…私の名前は…ヨナ、』
「その名前を、騙るな!」
不意にセルシアが激昂し、オルファリコンを振り払った。
ビイィィン、と弦を弾く音がしたかと思うと、前方の壁が次々に崩れていった。
その轟音にセルシアが眉を顰めた瞬間崩壊の音が聞こえなくなった。
音も無く崩れ去る迷路を、レオンとサンリアは呆気に取られて見ていた。
「ちょっとやり過ぎたかな…まあ方向は合ってるし、良いか。
何二人とも固まってるんですか?行きますよ」
「え、あ…うん」
「こんなに壊して大丈夫なの?」
「いや実はあんまり大丈夫じゃないです。ま、どうせ長居は無用ですから」
「意外と…我が道を行くタイプなのね」
「あはは、身内にはよく言われます」
「おい…あれ、見ろよ」
壁の崩壊に伴う膨大な砂塵が漸く収まると、三人の駆ける先に、何やら黒くて大きな塊が現れた。
その忌まわしい影は、見るからに禍々しい障気を纏っている。
『おのれ…私の城を…!』
塊が吼える。その声はかそけき少女から嗄れた老婆の様な声に変化していた。
「貴女の城?おかしいですね。貴女はイグラスの術士サルレイさんなのでは?
そして、この城はメイラエ小父さんの城なのでは?」
セルシアは前方の黒い塊から声が聞こえたのに驚いて、思わず立ち止まって問い掛けた。
と、塊の上を飛び越えて、一羽のフクロウが三人を目掛けて飛んできた。
『アニマじゃ、セルシア。女の声の正体は術士ではなくメイラエのアニマなのじゃ』
「おじいさん!アニマとは、何ですか!?」
『人間の中にいる別の人間、人の魂の裏側じゃ。大抵本人とは性別が逆転しておる。
アニマが出ているということは、メイラエの人格はもう完全に深みに沈んでいる様じゃ』
「…!では、このおぞましい黒い塊は」
『術を掛けられた、メイラエ本人じゃ』
「そんな…!」
「もうとてもじゃないけど人間だったとは思えないわ!」
「どうにか出来るのかよ、こんな…化け物!」
今や彼らの目前に迫るのは、影の塊の様な黒い四つ足の怪物だった。
それがのろのろと踏み出す度に、白い床にねとりとした赤黒い染みが付き、そこから禍々しげな蒸気を出す。
三人はそれを視認した瞬間、蒸気を吸い込むまいと顔にマントの端を押し当てた。
セルシアが起こした破壊のせいか、天井がピシピシと軋み始める。
しかし前方の怪物に行く手を阻まれ、三人はじりじりと後退りする以外に仕方なかった。
『レオン!』
呼ばれてレオンは正直勘弁してくれよ、と思った。迂闊に近付けやしないじゃないか。
「じーちゃん、こいつどうすりゃ良いんだよ」
『闇を追い払うのじゃ…こやつに剣を突き立てよ、そして光を解放すれば良い』
「良いのか!?死んじまわねぇか?」
『剣を刺すこと自体は、この膨れ上がった体には致命傷にはならん。大丈夫じゃ』
じーちゃんは自分に言い聞かせる様に言った。
「…、分かった」
レオンは切っ先を真っ直ぐ怪物に向けて柄を腰元に両手で構え、捨て身で正面から飛び込んだ。
ズブッという嫌な感触がした。
怪物が頭を左右に振り、レオンは堪らず壁に叩きつけられる。
「っぐ…!」
痛みと戦いながら、彼は今までの戦闘と違うものを感じていた。
記憶が飛ばない。
地に足が着いている感覚。
今戦っているのは紛れもなく、レオン自身だった。
(俺が、あの剣を使うんだ!)
怪物の頭に飛び付き、刺さったままの剣を掴む。川原で火をつける要領で、調光の時に知った脱力感を頼りに、限界まで光のイメージを剣先に集中させる。
脳内に女の絶叫が響き渡り、赤黒い液が体に掛かり焼ける様に痛かったが、何とか手は柄から放さなかった。
不意に、視界に光が溢れた。
驚く彼の目が捉えたのは、蒼い宝石。
(ああ、母さんの、形見…)
そう認識した後、彼の意識は深淵へと落ちていった。