暗闇の病
セルシアはやはり音の剣の主だった。しかし、この世界の長は彼に音の剣を与えたサルレイではなくメイラエという名前の人物だった筈だとじーちゃんは不審がり、本人に問うのが一番じゃと城の方へ飛び去った。
「予定が狂ったみたいですね。どうも」
セルシアが惚けた顔で呟く。
「そうみたいね…。私は他の世界に知り合いがいる事自体吃驚なんだけど」
「まぁ顔が広いと…って、他の世界!?」
「そうよ」
いつか見た様な反応、しかしサンリアは特に突っ込まない。
不公平だぞ、とレオンは心の中で文句を言った。
「……ってことよ」
「…様々な別の世界と繋がっている一つの次元を救う、って訳ですね。成る程」
セルシアはレオンより格段物分かりが良かったが、きっとそれは単に彼の方が年上だからだろう、とレオンは自身の頭脳を楽観視した。
「でも、一体何故…と」
セルシアは言いかけてふと口をつぐんだ。
ティルーンに触れた後、見事に音を消してテントの入口に近づく。
ザッ と帆布を捲り上げると、表に立っていた人物は不意を衝かれた態で走り去った。
一瞬で印象に残ったのは黒髪。
(あれ…それに、あの横顔、何処かで…)
レオンは微かに胸のざわめきを感じたが、それ以上彼の脳裏をつついても尻尾は掴めなかった。
目元は涼しげであったものの、男だったのか女だったのか、今一つはっきりしない。
飛び出したセルシアの気合い空しく、立ち聞きしていたその人は逃げ失せた様だった。
「ファンなら外で待っていても良さそうなものを。
一体何者なんだろう?こそこそ立ち聞きなんて趣味が悪いですね」
文句を言いながら彼は元の座布団の上に座り直し、ティルーンに手を延ばして「音無」と呟いた。
「これで、僕達の会話は他の誰にも聞こえません。気配も無くなります……さて?」
セルシアに笑顔を向けられて、サンリアは少し眉を顰めた。
「何故って言われてもね…理由なんか武の、えぇと、敵の人達に聞かないと分かんないわよ」
「何も分からずに、旅を始めたのですか?」
「じーちゃんが、言ったから…世界を滅ぼされてはいけないって。
…何よ、その馬鹿にした様な目は。
大体、理由なんか要る!?やっちゃいけない事はやっちゃいけないのよ。あちらの都合でそう簡単に滅ぼして良いもんじゃない。それを教えてやるの、私達が」
「いや、馬鹿にしてなんかいませんよ?」
セルシアは慌てて両手を挙げた。
「僕だって、何も分かっちゃいないから聞いたんです。そうですね、おじいさんが帰ったら聞いてみますよ」
暫くして、テントの入口の裾がバサバサと揺れた。
灰色の羽根が舞い込む。セルシアが左手で裾を捲り上げた。
『参った。酷い事になっておる』
招き入れられたじーちゃんは、ホウと溜息を吐いてそう言った。
「えと、知り合いの人の所に行ったのよね?」
『そうじゃ。じゃが…奴は既に…』
「何かあったんですか?」
『あぁ、人間でなくなってしもうとった。恐らくイグラス、夜の民の者の仕業じゃ』
「人間じゃないって…?」
「夜の民って何者です?実はさっき…」
「それでじーちゃんはどうしたの?」
『えぇい、順番に話すから待っとれ!』
じーちゃんは語調とは裏腹に、憔悴した様子で力無く羽ばたいた。
『まず夜の民とは、森を操る奴等の事じゃ。
奴等はイグラスという都を拠点に、森を操り兵力を操り、様々な世界を征服ないし滅亡させておる。
その目論見は不明じゃ、国政かもしれんし、何か恐ろしい計画の端緒なのかもしれん。
しかしこの次元の神は遥か昔にそれを予測し、それを食い止める為に反対勢力を密かに造り出した。
それがこのワシやメイラエといった世界の担当者の一族、そしてその一族の中から生まれる、お前達剣の仲間じゃ』
「じーちゃんが長、私達が英ね」
『そうじゃ』
じーちゃんが言葉を切ったので、レオンは当然の疑問を口にした。
「…ちょっと待てよ、じゃあ俺の世界にも長が居たのか?
俺を放棄したあの碌でもねぇ一族の中に?」
『お前の父親じゃった』
あっさり返されたその言葉に、レオンの胸がつかえた。
不意に出かけた涙を堪える為に彼は口をつぐんだ。
「僕も…そのメイラエさんと親戚だった、と?顔も名前すらも知らなかったのですよ」
『メイラエは音の民の内では既に死んだ事にされていたからの。
遠縁じゃが、親戚じゃよ。ミリヤラの養父じゃ』
「なん…ですって…」
セルシアは目を見開いた。
「メーおじなら…ミリヤラのおやじさんなら昔何度もお世話になって…そんな、まだ生きてらしたなんて、しかもこの街で」
『生きていた。確かについこの間まではな。
しかし…今はもう人でなくなっとる…暗闇という名の毒に冒され、言葉も通じん。
人の心すら、もう持っておらんじゃろう。ただの、闇の獣じゃ』
「そんな…夜の民という輩が、それを?」
『かの国の技術が作り出した病であるからにはの』
セルシアの目に不穏な光が宿った。
『ワシの魔力ではあれには対処出来ん。かといってこの体では殺してやる事も出来ん。
じゃから尻尾巻いて帰ってきたという訳じゃ』
「強い魔力があれば治せるの?」
『判らん…あれはもう随分と食い荒らされとる。
病を祓う事は出来るが、あいつ自身、もう長くはないという気がする…』
じーちゃんは苦々し気に言って、レオンの方を見た。
暗闇病か、とレオンは考えた。それならば…
「俺、魔力なんか無いけどさ。これが光の剣だって言うなら、暗闇病?よく分かんねぇけど、祓えねぇかな?」
『可能じゃろうな…それは、無論』
「レオン君…」
セルシアが縋る様な目付きでレオンを見つめた。
「まだ会ってから全然時間が経っていないのに、僕達の事で迷惑だと思っていたら、すまない。でも、お願いだ、ミリヤラのおやじさんを、メイラエさんを救ってやってくれないだろうか。
僕は音の剣に出会って、サルレイさんの話はおとぎ話じゃなく、七神剣は本当に力を持っているんだと分かった。だから、剣の仲間である君に頼んでいる。この借りは、いつか返す。すまないが」
「長ぇよ!」
レオンは軽く笑ってセルシアの言葉を遮った。
「最初からやるつもりだっつの。貸し借りとか無しで」
「…有難う…そうか、有難う」
セルシアは少し脱力した様に、しかし徐々に嬉しそうに笑った。
それから、彼はミリヤラとメイラエ氏との旧い思い出を語った。
皆メーさんメーさんと呼ぶので本名こそ覚えていなかったものの、ミリヤラの笛が上手く楽団が人気なのは、楽器職人であるメイラエ氏の支えが大きかったと思わせる話だった。
旅先で亡くなったという一報が入った時、その一日だけは街が青く──この世界では喪の色に青を遣う──染まったという。
「楽器作りの腕は文句無しに最高だったけど、人望もそれに負けていなかった。皆口々に、メーさんならなんとかしてくれる…ってね。
彼が生きて帰るなら十全だけど、もしもう助からないとしても、邪な奴に操られて…というのだけは許せない」
セルシアは静かに、しかし目には明らかな怒りを隠さず言った。
「でも、どうして夜の民はメイラエさんを操る必要があったのかしら?」
『それは…む』
「…!」
じーちゃんが目を細めるのと、セルシアが素早く立ち上がるのとはほぼ同時だった。
即座に外に飛び出すも、またもや取り逃がしたらしい。
「しかし…音は消しておいた筈なのに、何故」
「また居たのか?」
『何じゃ、またとは?』
「さっきも黒髪の男が盗み聞きしてたんですよ」
セルシアが男、と決めつけたので、レオンはちょっと意外に思った。
『何とまぁ。彼の国からこんな果てにまで、金と黒、二人の刺客が送り込まれておるのか。
他にもおるやも…此方の動きは殆ど把握されているやもしれんな…』
「夜の民かどうかは分からないんですけどね。変わった服装だったものだから」
『ホウ?』
首を半回転させて話を聞いていたじーちゃんは、更に興味を示したのか首が疲れたのか、セルシアの方に向き直った。
「背後しか見ていませんが、上体は黒一色の体にぴったりしたシルエット。
下は薄紫のゆったりしたズボンを、足首より少し上で布を巻いて締めていました」
「俺の世界での格闘家みたいな格好だな」
「実際そうかもね。小柄だけど鍛え上げられた背中だったし…
あ、それから前掛けみたいな丈の飾り布を、腰の右側に巻いていました。藍色のグラデーションだった筈」
『飾り布、か。それはイグラスの将校に与えられる軍支給品かもしれんな…』
「では、やはり」
『この世界でそれが馴染みのない姿だったというならば、他の世界から来た事になる。
それだけでも十分イグラスの武の手の者たりえるが、更にその情報…
まず間違いなかろう、な』
「彼らが、メーおじを…」
『或いはどちらか片方が、じゃな』
黙って聞いていたサンリアが、うーん、と声を上げた。
「セルシアじゃないけど、〈でも、一体何故?〉なのよね、気になるのは」
『メイラエを操って…我らを撹乱させるか捕らえるかするつもりじゃったとか。
もしくは…世界を瓦解させる悪鬼にさせるつもりか。
なまじ魔力があるからの、彼奴は』
「だとしたら」
急がなくてはなりませんね、とセルシアは弦楽器ティルーンを抱え上げた。
懐から彼の身長より長い革の帯の様な物を取り出し、縦にティルーンをくるむ。
革の両端は楽器の首の上部に巻くために長くなっており、裏表から回してきた革を側面で、複雑なホックを用いて繋ぎ合わせる。
それを革の紐帯で斜めに背負うと、大きな剣か銃を保持する様な格好になる。
武装完了です、と言って淡い銀褐色の髪の青年はニコリとした。
『行こう、子供達。夜になる前にケリをつけねばの』
じーちゃんの一声と共に三人はテントから出た。
灰色のフクロウの姿を見失わない様に早足で石畳を歩く。
太陽は既に塔の先端に引っ掛かっていた。