理の司教と知恵の司教
夜明けの神が降臨なさってから一年後。
クリスはカミナと学園付属の王立図書室に籠っていた。
「カミナ、計算は出たか」
「ああ。概算だが、ヌィワがあの状態を保つ前提なら、将来的にあと海水面は約三メートル上昇する。そこで大気散逸量との釣り合いが取れる」
「三メートルか…。桟橋は沈むし、家もまた何軒か駄目になるな。学園は王宮跡に移設するとして…」
二人は夜明けの神の司教の一員として、政に携わる様になった。夜明けの神の司教達はその殆どが長命種だ。夜明けの神の思し召しだった。
二人はフチーの権能を夜明けの神から譲り受け、いつか再びこのイグラスにてナノマシン技術を発展させんと野望を抱きつつ、お抱えの科学者としてその知識量で様々な助言提言を行っている。ナノマシン技術などより前に、まずは被災支援と復興に注力せねばならないのだ。
「…ふぅ…疲れた。珈琲モドキでも飲むか」
「おっ、俺にも頼むよ。今日はリノが飲みたがってる」
「んじゃ、面倒くせぇ方だな」
カミナがニヤリと笑う。そういう笑顔はやっぱりリノに似ているな、とクリスは思う。そのうち、またトニトルス並の技術都市になったら、リノモジュールのアバターを作ってやろう。そうしたら、インカーと三人で…
『昼間っから何下らねー事考えてんだよこのドタマピンク野郎』
脳内でリノが口汚く罵る。
(何でだよ、やってみたくないのかよ)
『馬鹿じゃねーの?インカーがリノの体の僕になびく訳無いだろ。あいつにとっちゃ僕はクリスの一部なの。突然自分より華奢で小さいリノ人形お出しされてこいつで興奮しろって言われても無理だろうよ』
(…そういうもん?)
『っとに、お前もあいつも似た者夫婦だよな。自己評価どうなってんの?僕のことが好き過ぎて自分のこと顧みれなくなったワケ?』
(いや、俺は興奮するからインカーもてっきりそうかと…)
『無理。キモい。頭から珈琲被ってしまえ』
(珈琲粗末にすんなよ!試作段階の貴重品なんだぞ!)
大樹の枝や虚を借りた農作業の試みは、妻のインカーが主導している。そこで採れ始めた珈琲モドキを優先的に回してもらっているのは、夫の特権だった。
カミナがゴリゴリとハンドミルを挽きながら部屋に戻って来る。
「…そういえば、さっきの計算なんだけどな」
「ん?何だ、不安材料でも?」
「いや、あれは〈無〉から水が湧き出していると仮定した場合の値なんだ。だが、フチーはそうは考えていないらしい」
「ほう…?どういうことだってばよ」
「フチーは、あの座標がどこかの深海に繋がったのではないかと考えている。まあ、ほら、あれから流れ出ているのが海水だから、言いたいことは分からんでもない。で、その場合は海水面の上昇はもう起こらない。地域によって多少海水面高さの偏りは出るが、現状維持となるだろう」
「無から湧き出してるんじゃないならそうなるよな。どちらの仮定が正しいか判断するには…もう少し日数が必要か。でもフチーは、どうしてそう思ってるんだ?」
「ヌィワが、まだ海底の何処かに逃げ延びて、生きてると思ってる」
「……なるほどね」
ヌィワとフチーはどうやら親密な仲だったらしい。自身が人の子の中に逃げ込んだ様に、ヌィワも海の卵として、母なる深海へ生きて逃げ込んだ可能性を、捨てたくないのだろう。
「フチーはロマンチストなんだなー」
「ふふ、我々の守護神だぞ。ロマンチストでない訳が無いだろう」
「…そいつぁ尤もだ!」
科学者でありロマンチスト。愛に生きることで自身を見失わなかった者達。夢の実現のために、日々の積み重ねを怠らない者達よ。
其方等に幸あれ、とフチーは寿ぐのだった。