幸せのラテアート
「アラバス騎士団長様、レティシアと申します」
初めて彼女に会った時、妖精みたいだと思った。
その折れそうなほど細い身体、白魚のように艶やかな指。ふわりと広がった明るいプラチナブロンドの髪が控えめに上品さを醸し出していて良いなと思った。
四十年近く生きてきた男が何を夢見がちなことを言っているのだろうか。少々浮かれてしまっている部分があることは否定できない。
先の大戦で宰相閣下をお救いしたことがきっかけで、閣下の娘のレティシアと婚約することになったのだが……子爵家の私にとって公爵家のご令嬢と婚約、ましてや舞踏会の華と云われているレティシアが相手だなんて出来過ぎにもほどがある。
俺はお世辞にも女性に好かれるようなタイプの風貌ではないし、とっくに適齢期を過ぎている。こんな筋肉しか能がないような奴と並べばまさに美女と野獣そのもの。嬉しさよりも申し訳なさの方が上回ってしまうのだ。ましてや彼女と俺は親子といってもおかしくないほどの年齢差もある。
「アラバス様、これ、今王都で流行りのスイーツなんですよ」
レティシアは本当に良い子だ。二十も歳が離れたこのオッサン相手でも笑顔を絶やさず寄り添おうとしてくれる。この歳で自分の立場や役割をちゃんと果たそうとしているのがわかる。
「アラバス様、新しいカフェがオープンしたのです。一緒に行きませんか?」
レティシアに誘われて行ったカフェは、異国の流行を取り入れた新しいコンセプトの店らしい。
「ラテアートというものらしいです」
「ほう……これは興味深いな。飲んでしまえば消えてしまうものにここまでする意味があるのかはわからないが」
「ふふ、アラバス様、人だって死んでしまえばすべてを失ってしまうのです。だからこそ、今というこの一瞬を懸命に輝かせようとするのではありませんか。未来永劫にわたる平和などないからこそ、こうやって楽しむことで幸せを実感できるのです」
「……なるほど、レティシアの言う通りだな。私はずっと壊すことしかしてこなかったから」
「何をおっしゃいますか。アラバス様がこの国を守ってくださったからこその平和です。父も、そして私も深く感謝しているのですよ」
レティシアは本当に良い子だ。一生懸命話を合わせてくれる。勉強熱心な彼女は、戦争や歴史、騎士団のこと、政治や経済にも明るい。生まれて初めて女性と一緒に居て楽しいと思った。
戦いと鍛錬に明け暮れるだけの……この俺の荒んで冷え切った心に温もりを与えてくれた。
きっと私はレティシアを好きになれると思う。きっと生涯愛し続けることが出来るだろう。
彼女は私が守ってあげなければならない。心からそう思った。
「なんだって!? レティシアとの婚約を解消したい? 一体娘の何が不満なんだアラバス?」
「レティシアさまには互いに想い合っている方がいらっしゃいます」
「……もしかして伯爵家のパリスのことを言っているのか?」
「はい。お二人は幼馴染なのだと聞いております」
「そのことなら本人たちも納得してくれている。気にしなくてもいいんだよ」
「そう……ですね。きっとそうだと思います。レティシアさまも、パリス伯爵も聡明な方ですから」
きっと自分の想いよりも国のため、家のため、貴族としての責任を果たすことを優先するだろう。
「ならば……」
「ですが、私はレティシアさまに幸せになってもらいたいのです。本当に愛し合っている人と結ばれて欲しいのですよ。婚約は私に不義理があったということで、そちらから婚約破棄という形で構いません。ですから……どうかお願いします」
レティシアのことは大切に思っている。自分の気持ちなどどうでも良いくらいには。知らなければ良かったと呪いたくなる気持ちも間違いなくあるが、今ならまだ間に合う、引き返せる。きっと……大丈夫だ。
「はあ……まったく、君という男は……だからこそ、私は娘を君に任せたかったんだがね……わかった。残念だが仕方がない。娘には上手く言っておくよ」
宰相がそんなに私のことを買ってくださっていたことに正直驚いたが、これで良い。後悔はしていない。
「だがなアラバス、娘とのことは諦めるが、それでは私個人の気が済まない。君は私の命の恩人なのだから」
職務として当然のことをしたのだと言っても頑として譲らない宰相閣下。困ったお人だ。
「でしたら、一つお願いがあるのですが……」
◇◇◇
「レティシア……まさか君と一緒になれるとは思っていなかったよ」
「パリス……私もよ」
二人の婚約披露のために親しい友人たちが集まったごく内輪のパーティ。
新しくできた人気のカフェを貸し切ってのものだ。
「こちらはオーナーからです」
「まあ……なんて素敵なラテアート」
うっとりとするレティシアや友人の令嬢たち。
運ばれてきたのはエスプレッソにスチームしたミルクで二人の名前とハートが描かれたラテアート。
婚約を祝う粋なサービスに二人は幸せいっぱい。パーティーの盛り上がりも最高潮となる。
「婚約おめでとう……レティシア」
幸せいっぱいの表情が見れて良かった。ちょっと……いや、思ったよりも自分自身落ち込んでいるのは予想外だったけれど。
「アラバス様、よろしいのですか?」
「良いんだよ。婚約破棄された男がのこのこ顔出せるわけ無いだろ? レティシアだって困るだろうし。これは俺の自己満足……だからな」
宰相閣下にこの店を借りたいってお願いしたら、なぜかオーナーになっていたんだよな。まったく宰相閣下も義理堅いというかなんというか……。
「でもわざわざラテアートを特訓する必要あったんですか? どうせ誰が入れたかなんてわからないのに」
「だから言ったろ? 自己満足だって。ほら、さっさと仕事に戻れ」
「すいません。余計なことでした」
◇◇◇
「さあて……今日は新しいラテアートに挑戦してみるか」
あれから数か月、俺はすっかりラテアートにハマり、その後も騎士団の仕事が非番の日には店でラテアートをすることが趣味となっていた。
「お、オーナー、VIP席のお客様がオーナーを呼べと」
VIP席? 完全個室で、高位貴族がお忍びで来るときに使う部屋か……誰だか知らないが失礼が無いようにしなければ。
「こんにちはアラバス」
優雅に景色を眺めていた女性がこちらに視線を向ける。
簡素な身なりをしているが、その高貴さと美貌は隠すことが出来ない。特徴的なアッシュグレーの長い髪からのぞく深紅の瞳は王族の証。
「あ、アリア王女殿下っ!?」
VIP席に居たのは、アリア第三王女殿下。王国一の美女と名高いが、相当な変わり者で男嫌いでもある。一体なぜこんなところに?
「ふふっ、なぜ私がここに居るのか、なぜ自分がここに居ることを知っているのかって顔しているわね? アラバス」
「は、はい、恐れながら」
この店のことは騎士団員にすら隠している。知っているのは、店の人間を除けば宰相くらいのはず。もっともバレているのなら今更誤魔化しても仕方ないが。
「ふふ、このお店ね、実は元々私がオーナーだったのよ。宰相が貸して欲しいってうるさいから理由を聞いたら、まさか貴方の名前が出て来るとは思わなかったわ」
おかしくてたまらないといった様子でころころ笑っている。
なんだと……まさか王女殿下の持ち物だったなんて……聞いてないんだが!?
「それでね、悪いけど話全部聞いちゃったわ。本当に馬鹿よね、アラバスってば」
まいったな……これはどういう反応すれば良いのかまるでわからない。
「でね、可哀そうだから貴方にお店を譲ってあげることにしたの」
「お心遣い感謝いたします」
「良いのよ、でもね、条件付きなの」
「……え?」
何も聞いていないんだが。さてはあの人、わざと言わなかったな。ぐぬぬ。
「毎日貴方が私にラテアートのコーヒー入れてくれるっていう条件」
「……は?」
なんだそんなことかと一瞬思ったが、俺にも仕事があるから店に入れるのは週に一度か二度だ。それは難しい条件だな。どうしたものか。
「そういえばレティシアの婚約パーティーの時のアラバス素敵だったわよ。幸せになあれ、幸せになあれってブツブツ言いながら真剣にラテを作っている貴方の姿にキュンと来ちゃったもの」
「ま、まさか……?」
ああ……そういえば殿下もあのパーティ参加していたな。くぅ、まさか全部見られていたのか? し、死にたい。
「それで……出来そうなのかしら? 毎日ラテ」
「そのことなんですが、私にも仕事がありますので、非番の日以外は他の者が作ったラテでは駄目でしょうか?」
「駄目よ。別にお店でなくても私の家で良いじゃない」
何をおっしゃっているのかわからないんですが……
「……アリア王女殿下、とりあえずラテを飲んで落ち着きましょうか」
状況がわからず混乱してきた頭をなんとか落ち着かせる。
「わかったわ。それじゃあ、私とアラバスをハートで囲んだラテアートをお願いね」
全然わかっていないんですが、それじゃあまるで……
まいったな……オーダーを無視することなど出来るわけないし。
「まあ……なんてロマンチック。二人の未来を暗示しているようですわね」
全然ロマンチックだなんて思っていなそうな表情でラテを飲み干すアリア王女殿下。
「美味しかったわ。もしかして豆を変えた?」
「おおっ!! わかりますか。実は南国から良い豆が入るようになりまして……」
しまった……うっかりコーヒー豆の話題で盛り上がってしまった。アリア王女殿下もカフェを自ら作るほどのコーヒー好きだから話が合うのが罠だ。
「今日は楽しかったわ、アラバス。ところで私と一緒に暮らしてくれるのかしら?」
「あの……アリア王女殿下? まさか本気ではないですよね?」
警護のために住み込むのとは話が違う。一緒に住むならばそれは結婚が前提だということ。
「本気に決まっているじゃない。私の幸せのために応援してくれるわよね、アラバス?」
「で、ですが、私は子爵家……」
「その件なら宰相がお父様に働きかけて伯爵にすることに決まっているから問題ないわ」
なんということだ……外堀はとっくに埋まっていたとは。
「し、しかし年齢が……」
「私に向かって歳の話をするなんて良い度胸しているじゃない」
しまった……俺の話をしたつもりだったんだが、アリア様はもうすぐ三十歳だったな。全然そんな風には見えないから失念していた。
「ああもう、はっきりしなさいよ。もしかして私のことが嫌いなの? 迷惑だった?」
「いいえ、まさかそんなこと有り得ません」
「じゃあ……好き?」
俺は王女殿下をどう思っているんだろう。そういう対象だと考えたことなどなかったから正直分からない。
だが……あらためてよく見れば、彼女の手足は緊張に震え瞳は不安に揺れているじゃないか。
俺は一体何をやっているんだ。アリア王女殿下は勇気を出して全力でぶつかってきてくれているのに、俺は言い訳ばかり探して向き合おうとしていない。
「……好き……ですよ。その……毎日ラテを作ってあげたいと思うくらいには」
望まれている答えではないかもしれないけれど、これが今の素直な気持ちだ。
「まあ良いわ、今はそれで充分。さあお父様のところへ行きましょうか」
「……なぜ陛下のところへ?」
「結婚の報告に決まっているじゃない」
そうだな……もう覚悟を決めよう。
だってアリア王女殿下のこんなに嬉しそうな顔を見てしまったら……仮面の下に隠れていた本当の素顔を知ってしまったら……
もっと幸せにしてあげたいと思ってしまったのだから。
ラテアート 菜乃ひめ可さま