Ep03-03-04
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冷静さを取り戻した芙実乃は、ばつの悪い思いをしながら、対岸で全員と合流した。
川に落ちたとあって、芙実乃だけがびしょ濡れだ。しかしそれなりに苦労して登った大岩から全員を引き返させ、あまつさえ川を渡らせたわけだから、恐縮するなと言うほうが難しかった。ただ、泳ぐには少々気が早い時期の落水とあって、一人を除く皆は気づかう言動しかしない。そして、その例外の一人であるルシエラとは、やはり言い合いになってしまう。
「だいたい、どうして貝なんかが怖いのよ」
「わたしは貝の怖さを言い伝えられて育ってるの。父方の誰かしらが貝に当たって苦しんだとか、死んだんだとか散々聞かされたんだから仕方ないでしょ。それに異世界の貝のまあ色味のおどろおどろしいこと。貝なんて寄生虫や病原菌の宝庫なんだからね」
「芙実乃ちゃん、泳ぐのも特に禁止されてない川にいる貝だから、その心配はしすぎだと思うよ。さすがにその場で生で食べないようにくらいの注意喚起はされてるかもだけど、食卓に並ぶこともある貝なんだから。でも、一斉に動きだしたのは確かに気持ち悪かったよね。わたしもうわって思っちゃってたもん」
ラミューンが仲裁に入ってくれたおかげで、ルシエラとは喧嘩にまでならなくて済んだ。それに、ルシエラが怒ったのは芙実乃が心配をかけたからで、単に苛立ちをぶつけられたとかではない。同じ苛立ちを返すのは間違っている。
「それより芙実乃ちゃん。すぐそこに休憩のリソース開放ポイントがあるみたい。ほら、あそこかな。そのつぎは頂上ってなってるから、ちょうどよかったよ。服乾かしちゃっとこう」
濡れたままの芙実乃を、ラミューンが気づかってくれる。
ラミューンが指差したのは、こちら側の岸の森との境だ。ごろごろとした石ばかりの岸の端に、ぽっかりと半畳に満たない石畳みたいなポイントが設置されていた。
芙実乃は再び、ルシエラとラミューンの両名に肩を借りてポイントに向かう。しかし、男性陣もぞろぞろと付いて来る気配を感じて、二人にこしょっと訴える。
「ううう。あんなところで裸になる間近に、男の人にいられるのは恥ずかしいです」
もちろん、シャワー室のようなモードにすれば、外から見られないようになるし、音漏れの心配だってないはずだ。ただ、あのポイントはちみっちゃい芙実乃がようやく体育座りできる程度のスペースしかなく、遮光だって紙一枚分の厚みでされるだけかと思うと、男子に並んで立ってられるのは心因的な抵抗感が半端ではなくあった。
景虎だけなら忌避感はないが、恥ずかしさでは倍増どころでなく、むしろ跳ね上がる。
「そうだね。わたしとルシエラちゃんも乾かさなきゃだし、男の子には待っててもらおっか」
びしょ濡れの芙実乃を抱えてるわけだから、ラミューンもルシエラも半身じとっと湿ってしまっている。デザインは違うが、ラミューンの制服も素材は変わらないのだろう。芙実乃たちの制服も、動きやすさや着心地が抜群で、撥水やその他機能もそれなり、アウトドアにも適している。が、それ以外の未来的なギミックなどは皆無だった。
と言うのも、人々の着衣は、対敵性体ということが考慮されたものになるからだ。
そう聞くと、非常に高い防御性能を持っていると思いがちだが、全然そんなことはない。むしろ逆で、その手の類いの性能を排除することに腐心がされていたりする。なぜなら、下手に防御力のある衣服などに敵性体の攻撃が当たると、攻撃対象である人間が死なずに、加えた分の攻撃力で敵性体が強化されてしまうことになってしまうからだ。
だから、薄い布に防弾と完全な衝撃吸収能力を持たせる科学力があっても、それをしないでいる。
蹲って敵性体の攻撃をしのごうなんて人間が続出したら、強化体というのに分類される敵性体を量産してしまうことに繋がりかねない。しかも、その部分で人々の命を優先させる服を供給したところで、顔さえ覆うダイビングスーツといった、ほとんど着ぐるみを着て過ごすしかなくなってしまう。露出している部分に攻撃されないなんて保証はないのだから、当然と言えば当然だが、それを採用して人々に服らしい服を諦めさせても、今度は強化分を見越した治安維持能力、つまりはより多数の異世界人戦士を呼び、教育する体制と期間を整えなくてはならなくなるのだ。
というわけで、この世界の衣服は、ほとんどが植物由来の自然素材でできていた。着心地が抜群なのも、糸の作り方や編み方に趣向が凝らされているだけ。日々のクリーニングで破れや毛羽立ちなどが補修され、いつまでも新品同様なのはさすがの科学力だったが。
それに、そんな科学力で極限の撥水力なんてものを衣服に備えさせたら、服の内側で汗が滴るとか、上着の外側まで染み出した汗を人様にお目にかける、なんてことにもなりかねない。
洗濯、乾燥、シャワー、ドライヤー、が終わる五分足らずの時間で制服について考えると、芙実乃は、追って来ていたらしいマチュピッチュのしっぽをルシエラから引き継ぎ、リソース開放ポイントを出る。入れ替わりで入るであろうルシエラ用に、同じコースを設定しておいたから、スタートに同意するだけでルシエラも手間取らずはじめられるだろう。
ラミューンと雑談しながら、ルシエラが出て来るのを待つ。
「マチュピッチュちゃんのしっぽって、わたしが触ったらだめなやつ?」
「だめというか、保護者権限の許可がいるみたいです。マチュピッチュちゃんの担任が許可するだけなんですけど、その連絡先はわたしは知らなくて、今日来た中ではマチュピッチュちゃんのパートナーのアーズさんしか知らないのかもしれません」
アーズの名を出したのを口実に、芙実乃は彼と一緒にいる景虎に目を向ける。
景虎は川を渡ったあたりに留まっているから、離れているのは二百メートル弱といったところだ。もちろん、先に自分がシャワーを済ませたからって、呼び寄せるなんてできないが。
約十分後、マチュピッチュのしっぽをルシエラに戻し、芙実乃は残る二人に肩を借り直す。
「終わったから、出発してるねー」
服の乾燥を最後に終えたラミューンが男性陣に向けて声を張った。
川を基準に考えると、リソース開放ポイントは、芙実乃が落ちたあたりよりも上流に位置していたため、芙実乃たちの足は登りながら自然に合流できるよう、斜めに川へと向かう。登山の意識でいたからか、さすがにちょっとだけ下って景虎と合流しようとか、合流場所を最短距離の真横にしようだとかではなく、登坂距離が短くなるよう自然とそう動いたのだ。
結果として、その判断が劇的に状況を悪くした。
合流まであと少しというところにまで進んだ時、後ろで大きめの水音がした。
「うーわっ、マジで泳いでるやつなんているんだ」
「女性のようなのに、こんな山を泳いで登るなんて、大したものですね」
「僕はこの山に来るのも実は初めてなんですが、たぶんとても珍しいことだと思いますよ」
声はアーズ、クロムエル、クワットルトの順だろう。珍しいと聞いたからか、ラミューンが振り向こうと足を止め、連なっている芙実乃とルシエラも同じ行動を取ることになる。手綱、もとい、しっぽを掴まれているマチュピッチュも、当然それ以上先へは進めなくなる。
全員で振り向くと、芙実乃が手前で落ちた大岩からやや上流まで登ったくらいに、川の真ん中に鎮座する比較的中規模な岩があって、そこの上に銀色の女性が頭と上半身を寝そべるように投げ出していた。女性の背が芙実乃より高いか、上流に来て川底が浅くなっているのかで、頭だけようやく出していられた芙実乃と違い、肩まではそもそも水に浸かってないようだ。そして彼女は、岩の上にへばりつかせている両手の握力と腕力を見せつけるかのように、水中で足を滑らせたりもせず、一挙動で岩の上に正座した。
それにしてもまあ銀色なこと。と思いかけるが、すぐにダイビングスーツかと思い直す。
しかし、生地の厚みがストッキング並で、身体のラインが出てしまっているどころか裸かと言いたくなる見栄えをしており、よく平気でいられるものだ、とその神経を疑った。見ているこっちが恥ずかしくなる。スーツで顔まで覆って隠せているつもりなのかもしれないが、そこにも生地がぴっちりと貼り付いていて、表情はともかく顔立ちならそこそこわかってしまうのに自覚がないのだろうか。髪の毛一本一本の溝までくっきり浮き彫りとなっているのに。
さすがに、そこからさらにさらさらと靡くわけではなく、ダイビングスーツに覆われているわけだが、中の髪型まで崩れてないところを見ると、フィット感はとても優しいに違いない。ストッキングを被るお笑い芸人のようには、鼻も目もどこも引っ張られた感じがなかった。
この時、芙実乃はまだ実感できていなかった。
この世界で普通の貝を異常に感じるのは、神経が鋭敏で繊細だからという誤解をしていた。
それは、まったく違う。
芙実乃は、この世界で異常に当たるものが何か、判別する基準を持ってないだけなのだ。
身体の半分から震えを感じだした。
密着しているラミューンが震え、銀色を指差しているからだった。
「あ……あれ、あれ、て、敵性体ってやつなんじゃないかな――」
「はぁ……。えっ、敵性体って女の子みたいな背格好をしてるんですか? ダイビングスーツを着てる女の子じゃなくて」
「わわ、わたし、知らない。敵性体なんて見たことないもん。あんなダイビングスーツだって聞いたことないし、着る気になる女の子だっているとも思えないし」
この国における敵性体との遭遇確立は、日本の犯罪発生率よりは多いが、犯罪多発國の犯罪遭遇率よりは低い。銃社会なんて言葉を聞くと、至る所で銃撃戦に出くわしそうに思えるが、銃を人に突き付けている場面を実際に目撃する人のほうがそれでも稀なのだ。また、日本に生息するネズミの総数は、もしかすると人間の総数よりも多いのかもしれないのに、日本にいたころの芙実乃はネズミを直に目撃したことがない。
ラミューンが敵性体と無縁に生きてきたとしても、なんら不思議はなかった。
しかし、それでも芙実乃よりは、敵性体を敵性体と判別する感性が備わっていて当然。
芙実乃はようやく覚えた危機感に、身体を強張らせる。
そこに、景虎の声が飛んだ。
「クロムエル、アーズ、あいだに身体を割り込ませよ!」
川の真ん中にいる銀色と、川べりに近づきつつある芙実乃らのあいだ、という意味だろう。
景虎を含めた三人はすでに走りだしていたが、名前を出した二人よりも純粋なダッシュ力で劣る景虎は後塵を拝している。また、同等のダッシュ力を備えているであろう二人でも、石だらけの足場によりパワーロスしてしまうクロムエルが、アーズに半歩遅れる。
その、先行するアーズが、銀色の横の川べりを通り抜けようとした瞬間だ。
正座をしていた銀色が人差し指をアーズに向けると、その人差し指をびゅっと伸ばした。
見た目には蔓のようでしかないが、実際の軌道で見れば弾丸だ。
ただ、そのスピードはと言えば、芙実乃の目で捉えられる程度。プロ野球ピッチャーの投球よりもおそらく劣るのだろう。想定してなかったはずのアーズでも、身を反らせて伸びた指に反撃を加えられた。
まず利き手の右に握られた短剣で指を撥ね上げ、上に回しておいた左の短剣を振り下ろす。二本の短剣を鋏のように扱って、確実に切断しようというのだろう。
また、出遅れていたクロムエルがその距離を活かし、渾身の上段斬りをアーズの右の短剣の程近くに振り下ろしていた。
つまりこの時、伸びた指には三点同時に、下、上、下、向きで負荷がかかったことになる。
しかし、銀色の指は切断されなかった。
アーズの攻撃の、鋏のような負荷でも切断されない。そして切断されないにしろ、瞬間そう固定された程近くに振り下ろされたクロムエルの斬撃だって、伸びた指の先の先までを地面に叩きつけさせ、いくつもの石を飛び散らせるほどの威力があったというのに。指は、わずか数ミリさえ刃が食い込んだ様子もなく、彼らの攻撃した部分だけをなだらかに婉曲させているだけだった。折れぬ、曲がらぬ、隕石の衝突にさえへこまずに耐える武器を相手に、いったいどれだけの防御力があればそんなことが可能となるのか。
にわかには信じがたい光景だ。
いや。この場に防御力場が展開されているのなら話は別なのだが。たしかあれは、屋外で自在に展開できるようなものでもなかったはずだ。学校の校庭でも無理なのに、こんな山の中腹でそれはまず考えられない。あるいは、あの銀色は自分の体内だけで防御力場を生成できる、とかなのだろうか。
ただ、そこで思考停止した芙実乃と違って、男性陣はおそらく行動を切り替えていて、頭どころか身体さえ止めはしなかった。
アーズは上の短剣を後ろに戻し、逆手に持ち替えた下の短剣で銀色の指をさらに持ち上げ、その下を潜って景虎の指示を全うする。クロムエルは自らが叩き落していた指を踏みつけ、銀色の動きを制限しようとする。
景虎は、今度は芙実乃たち四人に指示を飛ばす。
「そなたらは、それから少しでも距離を開けるよう、動きを止めるな」
その言葉だけで、芙実乃とルシエラには、どうすればいいのかの迷いが振り払われた。
「ラミューンさん。とりあえずこの場を離れましょう」
「マチュはわたしから離れすぎないように前を走りなさいっ」




