Ep01-01-06
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「あううー。景虎くーん」
芙実乃のあえぎ声が天井に吸い込まれる。ベッド用のオブジェクトしかない部屋で。もっと言えば、他に誰もいない部屋だ。そこで芙実乃は、人恋しさに身もだえしていた。
六畳間三部屋よりも微妙に広いくらいの長方形の部屋だ。窓も扉も無い。必要なら壁に作る仕様だ。三日前ナビに従って辿り着いた当初は、真っ白なからっぽの部屋に、病室に戻された気分にさせられたものだが、使用方法を覚えると使い勝手は上々だった。
ざっくり言ってしまうと、空間そのものがパソコンの中身みたいなのだ。カスタマイズ次第で、壁紙は本当の意味で部屋の壁紙として色を変える。バーナディルが浮く板で椅子を作ったように、それの好きな形状のものが、硬軟自在でどこにでもどんなふうにでも置ける。ショートカットに登録しておけば、細かな設定をしたそれらは消しても簡単に出せる。
やる予定はないが、部屋の六面を別々の絶景にしたりとか、床の全面積を浴槽そのものにする、なんてことも可能だろう。気をつけることがあるとすれば、排水関係が必要な設備を設置する場所に、右奥を含めておかなければならないことと、凝ったデザインや施設を使用すると、期間に応じた使用料がかかることくらいか。
芙実乃はデフォルトを変更し、出せるオブジェクトが桜色になるようにしておいた。また、宙に設置するそれらオブジェクトは、どうしても半透明になるため、ベッドだけは一日限定使用の課金をして試してみた。そちらの値段は月間使用料の二十分の一。一週間六日の一月三十六日だから、日割りでほぼ倍の値段になるが、様子を見る意味で月の契約にはしなかった。
もっとも、月に支給されるのが一万だから、ベッド塗りの百くらい切り詰めなくていいのかもしれない。が、芙実乃は月間契約を見送ることにした。半透明に慣れてもきたのだ。ベッドを木の色目に変え、掛け布団用のオブジェクトはそのまま桜色で登録した。デフォルトカラーの掛け布団をわざわざ登録するのは、柔らかさを調整するのを繰り返さないためだ。
水や食事には一日の上限となる使用量が決まっているが、芙実乃の基準だと、二回の入浴と六回くらいの食事をしても少し余る。上限内であれば、それに課金は発生しない。
ただ、この課金。厳密には社会に流通する通貨とは違うらしい。学校在学中のみ使えるポイントのようなものという話だ。Pに相当する何かの略の一文字もなく、数字らしき文字のみが四桁並び、見ると九九九五と頭の中でナビが残額を教えてくれる。
学生のうちだけ使えるこの額は、社会に出て稼ぐお金より割安に何かを得られる場合もあるらしく、芙実乃は無駄遣いを戒めた。もっとこの世界に溶け込んでから有効活用するべきだ。それに、成績やらの何かで増えたり、他人に譲渡したりもできるようだ。お礼とかに使ったりもできるかもしれない。
友達もできるだろうか。ほのかな期待が胸をくすぐる。
「入学式。セレモニーだっけ」
なんとそこで景虎が模範試合をするらしい。
芙実乃が虎のしっぽをイメージしてデザインしたあの刀が出来てから、事前説明だけでも膨大な入学案内を、データ受信ガイダンスで受けた。バーナディルも、口頭では話しきれなかったのだろう。だが、模範試合のことは、直接聞こえる声で説明してもらっていた。
生徒の代表二名が、芙実乃たち同学年全員の前でする、模範試合。口には出さないが、景虎もやる気になっているような気がする。その話を受けた時、景虎からふわっと花が綻ぶようないい匂いがしたから、というだけの、よく考えたら理由になってない理由だが。
「あううー。景虎くーん」
匂いの記憶が、いまここにいない実感をかきたてる。
無駄だと知りつつ、芙実乃は景虎の部屋に接する壁に耳を当てた。何も聞こえない。防音はいやというくらいに完璧なのだ。初日に動画の音量を上げ過ぎたことがあって、それを口実に謝りに行ったのだが、景虎は聞こえなかったらしい。景虎の部屋からも音や振動は皆無だ。刀を抜いたまま出て来ることがほとんどだから、部屋で稽古なりをしているはずなのに。
その時は稽古をはりきり過ぎて、ちょっと怪我までしてしまったようだ。制服の肩のところに血が染みていた。刀で耳をこすってしまったらしい。早世した日本人の中で一番強い、とってもすごい侍なのに、おっちょこちょいなところもあるんだと、芙実乃は可愛らしく感じた。
だから刀をぶらぶらさせながら歩く景虎を見ても、怖いなんて感じることもなく、素直に洗濯してあげると言えた。水回りのことまで、気づいてなかったそうだ。任せて。
なんて芙実乃は口に出さず思っていた。
そのあとは、結局理由がなければ訪ねられない毎日だったが。
「晩ごはんまだかなー」
おなかがすいたのではない。ご飯の時だけは隣の景虎を訪ねられる。芙実乃の唯一の大義名分だ。こちらの食事に慣れるため、メニューを一緒に探してはどうか、とバーナディルの勧めでそうなった。
メニューは豊富というより過多。こちら由来のものから、異世界人たちのイメージを再現したものまで、数えきれないほどある。人気ランキングや味の傾向などから検索し、試していた。興味はあるが見た目が合わないものなどの、色や形を変えられるオプションもある。
カロリーや栄養などを気にする必要はない。一日の食事回数を設定しておけば、食べる量にかかわらす、医療データから最適な摂取量が等分に配合されて出て来る。つまり、設定した回数食事した日の深夜に、制限量を使い切るくらいのプリンをゼロカロリーで出す、なんてことまで課金なしでできるわけだ。プリンをイメージで登録すれば、だが。
食事をイメージで登録するには本来一万かかるが、芙実乃たちにはそれぞれ、六食分まで登録する権利が与えられていた。バーナディルの提案は、それを行使する前に近い食べ物がないか探すといい、というものだった。同感だ。社会に出たら価格が跳ね上がるであろうこの権利は、卒業直前まで取っておいて、どうしても欲してしまうものを厳選したい。
おかげで、食事だけは一緒にできる。ただその回数は、一日二回に止まるのだ。景虎の習慣が二食で、芙実乃も単なる食事だけならそのくらいがいい。地球の感覚で午前十時と午後六時に一時間弱、くらいしか一緒に過ごせないのが物足りないだけだ。
前の日の夕食から朝食までが長いのも、空腹で辛くなったりはしない。
どうやら、こちらの一日は地球より短いらしい。だが、こちらでの身体は睡眠を大して必要としないらしく、四時間ほど眠れば快調も快調。一日中、だらだらと動画を見たりして過ごしても、寝落ちすらしない。それなのに、寝ようと思って目を閉じると、十分もすればすんなり眠れてしまう。
いっそ夕食まで寝てしまおうか。とも思いきれない。興味が持てそうなコンテンツも、膨大な中にはありそうなのだ。ふんふんふん、と芙実乃は鼻歌のような頷きを繰り返しながら、ストーリーものの動画の、イメージ静止画を回覧する。書籍の類は探さない。元は本好きだった芙実乃だが、ここの文字を読めない芙実乃がそれをしようとすると、ナビが、転生したてや入学案内で体験したデータ受信をはじめてしまう。字面の美しさが虚無に近しいそれだ。それがつまらない。抑揚が感じられない。感情が込められてない。
のもある。
しかし、それで真っ先に思い起こされるのは、元の世の宝石のような時間だった。
幼少期の朗読からはじまり、本を捲ってもらっていた三十分間で終わる、母との時間。何者にも汚されたくない記憶。暖かくて楽しみで嬉しくて、小さな怒りを覚えてしまった、届くことのない申し訳なさがいっぱいに詰まった宝の箱。
この箱の蓋を無造作に持ち上げられ、芙実乃の心は前後不覚になるほど引きちぎれた。感情のままに喚き、当り散らし、気づくと生爪が六本縦に持ち上がるほど剥がれかけていた。届かない声で母を呼び、激痛に吐きたいくらいの嗚咽をもらしながら、ふくらみかけの胸に押し当てて爪を戻し、眠りについた。起きると爪は完治していた。
今朝のことだ。
もう、思い出すのもこわい。
本を読もうだなんて、そんなとんでもないことは、考えようとするだけで間違いだった。人間がしていていいことではない。祈る。どうか弟だけはそんな酷い目にあいませんように。
あの子には、楽しいことをいっぱいあげてください。
お父さんとお母さんが、いっぱい愛してあげてください。
それはもうわたしにはいりません。
届かないそれを、送ってくれようとしないでください。
わたしはだいじょうぶです。
ひとりぼっちではありません。
すてきなひとがいます。きれいなひとがいます。
そのひとをみていると、いのることがはずかしくなくなります。
なでてくれるてがあたたかさをくれます。
そのてがひいてくれたら、あるくことができるきがします。
げんきになろうとおもえるのです。
うごかないかたまりではなくなりました。
だからしんぱいはいりません。
それもぜんぶぜんぶかずくんにあげてください。
わたしには、にほんいちのさむらいがついていてくれるのですから。