Ep03-01-03
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第三戦で景虎と対戦した彼――アーズ・スクラットが景虎の部屋を訪れたのは、試合のすぐ翌日のことだった。連絡先を交換してはいなかったが、放課後に訪問したい、と昼休みに担任を介して打診を受けていたのだ。
本来の予定だと、芙実乃は芙実乃の部屋でルシエラと遊び、景虎とクロムエルは景虎の部屋で鍛錬、という定番の放課後だった。だが、アーズがパートナーの女子を連れて来ると聞きつけ、芙実乃はルシエラともども、景虎の部屋にしれっと一緒に入って居座ることにした。
理由はもちろん、女狐への対策だ。
アーズが一人で来るだけなら、別に放っておいてもかまわないのだが……。
しかし、迎えたアーズのパートナーを見るや否や芙実乃は青褪め、腸が煮えくり返るほどの強烈な不快感を覚えた。
その美貌に、ではない。空を映す湖のような透ける水色の髪に、でもない。ふくらみかけを卒業してる程よい大きさの胸に、でもなく、細身でスラリと見える一六〇センチ前後の均整の取れたスタイルに、でもなく、それでいてふっくら柔らかの肉付きが見受けられる肌の質感、でもなく、一六歳にしか見えない大人でも子供でもない正真正銘ド直球の真実の女の子という雰囲気に、でもなかった。
問題は首だ。
いや。未知の異世界人として、ろくろ首のように長くとぐろを巻いているだとか、デュラハンのように離れた首を抱えているだとかもない。そもそも、彼女が問題なのではなかった。
首に。彼女の首に、首輪と紐が括り付けられていることが問題なのだ。
そのあまりの仕打ちに芙実乃は、そばにいた景虎の服の裾をぎゅっと握って、彼女の首輪の紐を引くアーズに怒りの眼を向ける。ルシエラも同じく睨みつけていた。
景虎とクロムエルが、冷ややかな風を漂わせだした。
それに待ったをかけるように、アーズが気まずげに弁明をはじめた。
「いや、わかる。わかるよ。なんとなく、じゃなくて、よっくわかる。俺だってこんな光景を見たら、女の子を助けてやろうって思うさ。だから。だから、ちゃんとそう思える俺がこんな真似をしてるってことは? って疑って、話くらいは聞く気になってくれっての」
皆、無言だった。
しかし、それを無理矢理ポジティブに受け取ってみせたのが丸わかりという態度で、アーズが今度は女の子に話しかける。
「あー、うん、お前、お前さ、とりあえず自己紹介しない? わかる? うーん、そうか」
女の子はこれまでよほど酷い目に遭わされてきたのか、アーズに返事を返さなかった。
そのアーズは、自分の顔を指差して、もう一度女の子に話しかける。
「俺の名前はアーズ・スクラット。お前の名前はなんですか?」
アーズが女の子を指差すと、日頃の行いが祟ってか、女の子はふくれっ面になった。
「うん。俺はもう名乗られてるもんな。別に忘れてはないぜ。ほら、そっちにまだ名乗ってない人たちがいるだろ。だからそっちに自己紹介……うん、わかんないっと。じゃあ、見てな」
アーズは女の子の目を見るのが後ろめたいらしく、自分を指差しながらこっちを向いた。
「俺の名前はアーズ・スクラットです」
それを受けて、クロムエルが訊ねた。
「君は、何がしたいんだ?」
アーズは何か反論しかけたが、ぐっと堪えると、ひたすら自分とこちらと女の子を指差す。
やがて、女の子が得心がいったというように、こくこくと頷いて見せる。そして、こちらを眺め回すと、一番端にいたクロムエルの前に立ち、可愛らしい声で名乗りを上げた。
「マチュピッチュ・ピッチェ」
続けて、位置としてはクロムエルの横にいた芙実乃の前にずれて来てもう一度。
「マチュピッチュ・ピッチェ」
さらには芙実乃の隣にいる景虎の前に行き、はっとすると。
「マママチュチュッピピッピチュピチュピピッチェ」
最後には、直前に噛んだ気まずさから取りすましたようにルシエラに向けて。
「マチュピッチュ・ピッチェ」
と、全員に対して名乗りを終えて、元の場所に戻った。アーズがそのマチュピッチュ? を刺激しないためになのか、探り探りじみた声量で提案する。
「じゃあ、お前、どっから来たとかの、あれ、説明してみな」
何度か首を傾げてひらめいた、とばかりにマチュピッチュが笑顔になり、四人を見渡すと、なんちゃってパントマイム風の身振り手振りを交えながら、一所懸命に説明しだした。
「てくてく、てくてく、ざっざっざ、ずささっ、ずるー、じゃりじゃり、ぴょんっ、ととととと、がばっ、たぷん、じゃぶじゃぶ、ごしごし、じゃぶじゃぶ、ごしごし、ざばー、ざぼん」
歩いて砂利道を上ったり下りたり滑ったりしながら、湿ったより歩きにくいところを跳んだり走ったりして川へ行き、桶に水を満たして洗濯をしていたのだが、水を捨てる際に誤って川に落ちた。おそらく、そんなところだろう。
マチュピッチュは、皆に注目され、それなりに話を理解されていることがわかったのか、もはやパントマイムではなく盆踊りかという躍動を見せながら、さらなる熱弁を揮いだした。
「どんぶらこっこ、どんぶらこ。ざっぱん、ぶくぶく、ぷはぁっ、じゃばぽん。
どんぶらこっこ、どんぶらこ。ざっぱん、ぶくぶく、ぷはぁっ、じゃばぽん。
どんぶらこっこ、どんぶらこ。ざっぱん、ぶくぶく、ぷはぁっ、じゃばぽん。
どんぶらこっこ、どんぶらこ。ざっぱん、ぶくぶく、ぷはぁっ、じゃばぽん」
川に転落したマチュピッチュは、桶を浮き輪代わりに流れて行ったが、跳ねた川の水が桶に溜まると、沈み、命からがら顔を上げ、桶から水を捨て設置し直さなければならなかった。
それも何度も何度も、ということを言っているらしい。
何しろ命を落とす場面の説明だ。皆、真摯に耳を傾けている。当然、芙実乃もそうだ。
これを見て失笑した人がそれを見られたら、不謹慎だとネットで叩かれるに違いない。
「どんぶらこっこ、どんぶらこ。ざっぱん、ぶくぶく、ぷはぁっ、じゃばぽん。
どんぶらこっこ、どんぶらこ。ざっぱん、ぶくぶく、ぷはぁっ、じゃばぽん。
どんぶらこっこ、どんぶらこ。ざっぱん、ぶくぶく、ぷはぁっ、じゃばぽん。
どんぶらこっこ、どんぶらこ。ざっぱん、ぶくぶく、ぷはぁっ、じゃばぽん」
……長い。
ただそれは、必死で抗った証。だからそれを、誰に止められようはずもなく、皆は一様に、マチュピッチュの生死を懸けたスペクタクル大巨編のクライマックスに引き込まれてゆく。
「どんぶらこっこ、どんぶらこ。ざっぱん、ぶくぶく、ぷはぁっ、じゃばぽん。
どんぶらこっこ、どんぶらこ。ざっぱん、ぶくぶく、ぷはぁっ、じゃばぽん。
どんぶらこっこ、どんぶらこ。ざっぱん、ぶくぶく、ぷはぁっ、じゃばぽん。
どんぶらこっこ、どんぶらこ。ざっぱん、ぶくぶく、ぶくぶく、ぶくぶくぶ」
沈む。芙実乃は咄嗟に声を上げた。
「ああっ、マチュピッチュちゃん、マチュピッチュちゃんがっ!」
「ぐすっ。あとちょっとなのに、あとちょっとだけがんばりなさいよ」
ルシエラも励ましている。
と、沈む形態模写を絶賛続行中のマチュピッチュを尻目に、アーズが話しだした。
「まあ、なんだ。ちょっとはわかってもらえたと思うが、こいつとはあんま話が通じねえ。そんでもって、転生とか異世界とかは全然理解してなくてな、ここをなんと言うか、川の下流だと思ってるらしい。たまに思い出したように家に帰ろうとして、川を探しに出ちまう」
「それで首輪を?」
クロムエルが訊ねると、アーズは首を振った。
「いや、普段からしてるわけじゃねえよ。ああいや、してるけど、紐出しで繋いだり連れ歩いてるわけじゃねえって意味だ。してるってのはこれ、この首輪、魔導受装ってやつだからさ、いちいち外すようなもんでもないだろ。紐はまあ、うちの担任が許可したやつにだけ、こいつの保護の義務が課せられるって感じのだな。そうじゃないやつには出せねえ」
担任の許可も下りているのなら、人道上の問題とかはないのだろう。
「入学前の準備期間中はさぁ、隔離寮ってのに即入れられて、便宜上俺もそこにいたんだけどよ、まあ、物心つかないガキみたいに所かまわず騒ぐわけじゃねえしってことで、入学を機に二月前からこっちで暮らしてる。座学は部屋で、実習や月一戦には紐出しで連れて来てるって感じだ。言うことは聞いてくれたりくれなかったりだな」
「聞いてくれることがあるだけでも――」
そこまで言ってからクロムエルは、しまった、とでも言いたげに口を噤んだ。ルシエラの相手より楽、という趣旨の発言をしかけたのだろう。皆から目を背けるように、なんとはなしにマチュピッチュのほうを見やっていた。
その視線の意味を、アーズは誤解したらしい。慌てた様子で、弁明をはじめた。
「いやいやいや、俺、手え出したりしてないぜ。見た目はそりゃ、女子一じゃねえ? なんて言われてるみたいだけどさ、中身馬鹿過ぎて、妹をあやしてたころの感覚に戻っちまうんだもんよ。さすがに萎えるっての」
アーズが自分を見ながらそれを言ったからか、マチュピッチュが抗議の声を上げた。全部は通じなくても、悪口を言われたくらいはわかるのだろう。
「マチュピッチュ」
ぴしゃりと名前を言ってくる。
「…………?」
「マチュピ、マチュ、マチュ」
さらには、アーズ以外の四人に順次顔を向けながら、訴えかけるようにそう言った。
芙実乃は面食らいはしたものの、不思議と、雰囲気くらいは伝わっている。いや、不思議ではないのか。多少なりとも、世界の違う者同士で喋れる翻訳の恩恵があってもおかしくない。
……おそらくだが、マチュピッチュの元いた周囲の言語体系では、感情を乗せて話すという口語表現が、意思疎通の主流なのだ。また、その感情を乗せるために声にしてる自分の名前やその省略形も、発言者を明確にするという主語と固有名詞の両立なのだとしたら、それなりに理に適っているとさえ言えるのかもしれない。
ルシエラが戸惑うようにつぶやいた。
「まるっきり子供なのね。喋り方もなんか、前に会った子供と似てるし」
「えっ、ちょっと待って、ルシエラ。前に会った子供ってパティ――ちゃんのことだよね。あの子ってなんか、ものすごく大人びたことを言ってなかった?」
「確かに生意気だったわね。でも、喋り方だけならこの子よりも子供っぽかったじゃないの」
ルシエラと認識が……違わないのか? よくよく思い返せば、芙実乃はパティの話す内容に寄せて彼女の精神年齢を推し量り、日常に支障を来すほど不得手そうな喋り方を、あえて無視するよう努めてさえいた。ルシエラは彼女のそんなところをハンデだなどと考える意識が薄いから、マチュピッチュともども子供と一括りにしてしまうのかもしれなかった。
そこでふと、芙実乃は思いつくことがあって、全員に訊ねてみた。
「さっき、マチュピッチュちゃんが溺れた時のことを話してましたよね。それって、皆さんにはどう聞こえてました? わたしには擬音を列挙しているように聞こえてたんですが」
すると、答えはやはり全員で微妙な差異が見られた。
マチュピッチュと同世界人であるはずのアーズは、あれは音の再現だと言う。クロムエルは意思を伝えようとする幼児くらいと言い、ルシエラも色々と別の言い方をしていたが、結局はクロムエルとほぼ同様だった。そして景虎も、ほんの一部芙実乃と共通した擬音に聞こえていたが、未熟で単純な言い回しをしている、と認識していた。
翻訳、と芙実乃は認識するが、この世界で別々の異世界人同士が言葉を交わす時、厳密には言葉の変換などは一切行われない。話し手の伝えようとする意志が、高次元に作られているという記憶領域にある脳のコピー、それの話し手聞き手両者のものを同期させ、聞き手側が逆にそれを伝えようとした時に発生するであろう言語中枢の脳内パルスを算出する。それを軽減させた微弱な脳内パルスをリアルタイムで受け取り続けていると、今度は本物の脳が、聞こうと意識を傾けている音声がそれを伝えようとしている、と錯誤するのだそうだ。
つまり、ある意味芙実乃は他世界人の言葉を、自力で自分の言葉に訳していることになる。
たとえばクックドゥードゥルドゥーは、芙実乃からすれば擬音ですらないが、アメリカ人にとっては鶏の声の音真似になる。アーズの解釈がおそらくこれだ。時代か地域かの違いで直接の会話はままならなくても、同世界人の二人には何かしら共通した音への感性があるのだ。
ルシエラとクロムエルが、結局のところ同様の印象を持ってしまうのも、二人が使う言語でマチュピッチュを理解しようとすると、誤差の範囲でしか違わなくなる、で間違いない。
それと較べると、景虎と芙実乃には、誤差以上の差異がある。
ただこれも、二人が元いた時代が、戦国初期と現代では致し方ないだろう。芙実乃の語彙には外国語由来のものもふんだんに盛り込まれている。言葉の激変が、下手すれば二、三度くらいはあった。直接の理解が可能なものの、景虎の雅た古語のような調べのほうが、出会った当初は耳慣れなかったくらいなのだ。それに、趣味が読書だった芙実乃だと擬音の蓄積も馬鹿にならない。一度しか目にしたことのない擬音や、一冊しか本を出してない作家の擬音だって、それなりに根付いてしまっているはずだ。
なんなら、その場のアドリブで創作された擬音で解されることだってあるかもしれない。
自分の言葉で人の言葉を解する、と、そういうことだって起こりうる。マチュピッチュが、どんぶらこっこ、なんて表現を使ったように聞こえたのは、芙実乃が解するに、それが一番適した表現だったからに過ぎない。
ではなぜ逆に、マチュピッチュがあまり翻訳の恩恵に与れないかというと、彼女自身の語彙がきっとかなり少ないからなのだろう。こちらの喋る言葉を、持っている語彙で再現しきれないのなら当然そうなる。だとすると、語彙によるところの概念形成や獲得にも至っておらず、精神年齢は十二、三歳であるはずなのに、幼子のような中身に勘違いされてしまう、と。
非常に姉心がくすぐられる女の子だ、と芙実乃は感じた。容姿だと、世界に突如として現れた超新星のスーパーヒロインみたいなのに、面倒とかを見てやりたくなってしまう。
芙実乃はこちらを見上げていたマチュピッチュに近寄って、頭を撫でてやった。




