Ep02-05-03
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芙実乃たちが試合場に足を踏み入れると、すでに駆けつけていた対戦相手の妹――シュノアの金切り声が響いてきた。
「あ、貴方、何を、何をしたの! お兄様は未来を視て。視てるのに、何を、何をしたらこんな、こんな、こんな……」
シュノアは眩暈を起こしたように膝から崩れ、景虎を前にうなだれた。
景虎は彼女を一瞥だけすると、芙実乃たちを経由するように視線を動かし、彼女の兄――ピクスアで止めた。
「さて。そやつの心一つではないのか。わたしに何もしかなった者の意図がわかるはずもないであろう?」
「嘘よ。だって。だって、そんなはずないわ……」
シュノアは虚脱してゆく身体を持ち上げるようにして景虎に反論しかけるが、諦めたのか、その弱々しい視線を縋るように兄に向けた。
「お兄様……どうして……」
それは言外に、どうして勝利を放棄するような真似を、という文言が含まれるような問いかけだった。だが、確かにそうとしか思えないような結末になっていた。
景虎の斬撃は流麗ではあったものの、避けられないとか、防ぎようもなかったとかの、見逃してしまってもおかしくないというほどには、速くもなかったらしい。では、対戦相手に問題があるのかと言うと、そんなこともない。
今回の相手のピクスアは、前回の対戦相手のもっと速い斬撃を、すべて躱したり受け流したりができていたのだ。それが、それよりも遅い景虎の斬撃に際し、どうしてこうも無抵抗に受け入れざるを得なくなってしまったのか。
ピクスアの口から、その原因の一端が語られる。
「柿崎景虎。君は……君の動きは……、未来とは、未来視とはまるで一致していない。訊きたいのは僕のほうだよ。何故そんな、そんな真似ができるんだ……」
「…………」
景虎は答えなかった。そもそも景虎はピクスアの意図がわからないと言っていたし、それが本当なら、ピクスアの問いは同じ質問がもう一度返ってきたのと何も変わらない。
クロムエルが途切れた会話を繋ぐように、ピクスアに確認する。
「それは、貴方の未来視の中で、マスターが別の攻撃を仕掛けるよう見せ掛けていた、ということで合ってますか?」
「そう……だ」
「その未来視の中で、マスターはどういったことをするはずでしたか?」
「…………」
今度はピクスアが黙った。未来視で視た内容を喋るのは、未来視そのものの全容を知らしめてしまうことにもなりかねないと考えたのかもしれない。警戒するのは当然だった。
が――。
「なれば話は終いだ。他人の逡巡が終わるのを待つほど、無為な時の過ごし方はないからな」
景虎が兄妹に背を向けた。未来視の全容が知れないのは心残りではあるが、ここで切り上げても景虎の推測が聞けるのなら、芙実乃にはそれで充分だった。景虎ならもうすでに未来視の全容を見抜いているものと芙実乃は疑ってもいなかったのだ。おそらくそれはルシエラも一緒で、女子二人はごく自然に帰る気分に切り替わった。
兄妹への関心を失った。
残るはクロムエルだけだが、景虎の意向を汲むことにかけてなら、彼は芙実乃よりも遥かに優秀なのだ。芙実乃は景虎の背を追いはじめたからもう見ていないが、最後尾で警戒するなり会釈するなりして、万事上手く計らうのだろう。
景虎に遅れることなく、芙実乃もルシエラもその背に従う。
「ま……待って!」
後方からの四人を呼び止める声。それは妹の、シュノアのもの。混乱と現実逃避に溢れていた先程までとは違い、縋りつくようなニュアンスがその声には込められていた。芙実乃たちをこのまま去らせると、自分たちが不幸になる未来でも視えたのだろうか。
景虎が振り返り、三人もそれに倣う。
「訊きたきことがあるなら答えてやらぬでもない。しかしそういったことは今回限りと約してもらおうか。そなたらに振り回されたことをこちらはまだ承服してはおらぬ。本来であれば、話を聞く時間を割くだけでも、厚意で目零すような間柄ではあるまい?」
景虎はいつもどおり優しげな口調ではあったが、今回のそれは寛容に寄っているというか、突き放そうという気持ちを隠そうとしていなかった。
シュノアが判断を仰ぐように兄を見上げる。ピクスアは束の間の逡巡を経て、決断した。
「わかった。柿崎景虎。君へ……いや、君たちへの借りとして、月一戦の残り時間を割いてほしい。お願いする」
ピクスアは臣下の礼というほどではなかったが、きちんと頭を下げて頼んだ。
「よかろう。それで、何を訊きたい」
「まずは、そう、君が未来と違う行動を取れた理由が知りたい」
「ふむ。しかしそなたとてすでに、それの察しをつけているのではないのか?」
「うん。だけどそれはあくまでも察しであって確信じゃない。君が僕の何に目をつけて違う未来に到達したのか、その詳細を知っておかないと、僕は未来視を使いこなせているとは言えなくなる。正直、未来視で視た負け方のほうの納得はできても、現実の負け方がその、信じられない気分なんだ」
景虎は件の腕組みをしながら、心もち首を傾げた。
「わたしからすると、そなたが何もせずに斬られようとしていた、としか思えぬ行動しか見せてもらえてないのだがな」
「貴方が何を視て何をしようとしたか、それに対しマスターがどう対処しようとしたか、を、順に照らし合わせるしかないのでは?」
クロムエルが会話の緩衝材役を買って出た。身も蓋もない言い方をすれば、天才と非才とのあいだにある齟齬を秀才が埋めようというところだろう。ただ、現状で一敗同士のクロムエルとピクスアだと、まだ月一戦の対戦相手になる可能性がある。ピクスアはそれを気にしているようで、クロムエルの同席への忌避感を訴えた。
「そういうことなら、わたしは外してもかまいませんが?」
クロムエルが景虎に許可を求める。景虎は微かに嘆息を零し、兄妹に言った。
「そなたらは、仮にここでこやつを外したとして、わたしの口から話の内容が伝わる、とは考えぬのか?」
それには妹が、シュノアが反応した。
「それは、だって、その、そんな公平じゃない真似をしていいはずが……」
「臣従する者と妙な企てを仕掛ける者とを分け隔てなく扱えと? どこの価値観だ、それは」
妹は絶望的な、兄は苦い顔になった。
「確かに。未来視を秘してさえいれば、君が仮に僕との戦い方を全学生に周知したとしても、なんの約束も取り交わしてない以上、こちらが非難できる筋合いにはならないね」
「まあ、そちらに関してなれば話す余地がないわけでもない」
「有利な戦い方のアドバイスも、クロムエル君以外にはしない約束がもらえると? 交渉ということでいいのだとすると、何を支払えば納得してもらえる?」
「それはその都度としか言えまい?」
その返答にシュノアはさっと顔色を悪くした。
「強請る気なの……?」
景虎は一瞬だけ不快げに黙り込むと、辛抱強く説明してやった。
「何も差し出さずとも済むやもしれぬ、という話でもある。その都度というのがどういう時を指すかなれば、そなたらの情報を買いたい、そうわたしが持ちかけられた場合などのことだ。そら、機会がなくば訪れもせぬであろう?」
シュノアが胸を撫で下ろす。それに対し、ピクスアは緩みなく景虎の顔色を窺っている。
「現状で支払えるすべてを差し出す、ではだめだろうか?」
「そう欲張ってくれるな。初めからそんな態度に出られると、損をしてやってもよいという気も失せる」
ピクスアが後ろめたそうに景虎から目を逸らした。
現状持つすべてを差し出す、でも欲張りになるのか、などと芙実乃が考えていたら一瞬、ちら、と、ルシエラともども景虎に目を合わされた。これは会話への参加を求められているということだ。直前に景虎がしていた発言を頭の中で反芻する。その中のワードを拾って会話に割り込んで行くのが堅実かもしれない。
別に見当違いを言ったとしても景虎がなんとかしてくれるはずだから、気後れすることはない。ただこの場合、ルシエラに好きなように意見を言わせておいて、芙実乃がフォローするなり畳み掛けるなりしたほうが、きっと景虎の想定に近くなるはずだ。芙実乃はこそっとルシエラに肘を当てた。ルシエラは景虎の意も芙実乃の意も汲んで景虎に質問した。
「ねえねえ、景虎。景虎が損をしちゃうって、何? そいつらはまた、わたしにいやなことをしようとしてるの?」
「その懸念なればすまぬが安心はさせてやれぬ。ルシエラの世でも、二度あることは三度などの教訓があろう? こやつらの態度が改まったかを見定めるにも、相応に時がかかる。もっとも、こちらの益を先回りして潰そうと目論むくらいなれば、あまり期待はできぬか」
「益……つまり、景虎くんが得られるはずのものを、いまもだめにされかけてたってことですか?」
「然り」
「……どういうずるをされそうになったところだったんでしょう?」
「そうだな、それはたとえばこういうことだ。仮にどこぞの誰かが、そやつとどう戦えば良いか、について知る限りのことを買いたいという申し出を、わたしにしてきたとする。提示は一万やもしれぬし、十万にもなるやもしれぬ。情報とは時に千金にも値するものだからな。それを、だ。そやつはわかっておりながら、ただ一度きり、此度せいぜい五万を差し出すだけで、今後永続して売らないと約させようとした、ということだ」
せいぜい五万というのは、二人分二月分の基本支給額四万プラスアルファ、ということだろう。それに、あの兄妹がその額を丸々残しているかどうかも知れないのだから、実際にはその半値程度で情報保持の永続契約をさせられるところだったわけだ。
確かに悪辣、は言い過ぎでも、虫のいい申し入れではあった。
「えっと、それって口止め料ってことですよね。でも口止め料って普通なら、最低でも同額とか、倍とかを支払ってでも秘密を守ってほしい、みたいなことじゃありませんでしたっけ?」
「我らの感覚なればな。なれど、得体の知れぬ世界には、得体の知れぬ通念でもまかり通っておるのやもしれぬ。みだりに不誠実と取って良いものやら、難しいところだ」
景虎はいつもどおり穏やかに微笑んで、ピクスアを見やった。自分の卑小さを自覚させられたであろう彼は、恥じ入るように身を縮めた。
「まあ、そなたらの情報なれば、ひいてはそなたらの値打ちということだ。どこぞの他人が高値をつけようが、そなたら自身で安く見積もろうが、わたしにとやかく言うつもりもない。しかし、こちらが安きほうに靡くと考える愚者と噛み合う話ができるとも思えぬがな。よもや、そんな申し出を蹴られたと、逆恨みする性質なのか、そなたらは?」
「……申し訳なかった。君たちに口止めをお願いする立場でありながら、できるだけ安く済ませようと目論んでしまった」
「結構。それでいかがするつもりだ。我らを放置し、今後の月一戦に臨むか?」
「待ってくれ。口止めは……いくら払ってでもお願いしたい」
「それは重畳。だがこちらとしてもな、そなたらを追い込み過ぎては、またぞろ良からぬ企てを仕掛けて来ぬやもしれぬとの懸念を残すことにもなりかねぬ。ゆえにわたしは、この口止めに関する取り交わしに限り、こちらが損を被ってやろうと思っていた」
「「「えっ!」」」
女子三人が思わず声を上げる。声を上げはしなかったものの、ピクスアにも少なからず動揺が見られた。景虎を信奉するクロムエルでさえ、疑問を呈しかけた様子だった。
ピクスアが疑わしげに訊ねてくる。
「どういうことだろうか?」
「何。損と言っても、本来得られるはずの益を求めない、というだけのことだ。こちらはそなたと戦う際における知見の譲渡をいくらで求められても即応せず、その額をそなたらに伝達すると誓おう。そなたらは口止めをするもしないも、その都度決めて言ってくるがよい」
さらりと言う景虎に、シュノアが慌てたように口出しをしてくる。
「で、でも、それって毎度毎度、同額とか倍額とか払わなくちゃいけなくなるんじゃ……」
「いいや。払う額もそなたらが決めてよいものとする。この言葉は違えん。なれば、そなたらは何も払わぬでも、払えるものがない時でも、口止めの願いは叶えられることになろう」
シュノアはぽかんと口を開けた。ピクスアも信じても良いのか決めかねて、景虎に縋るような目を向けている。
「信じられぬか? 条件としては先程そなたが目論んだものを超えておるからな。しかし、この手続きを踏まなくば、そなたらがこちらにどれほどの損をさせているのか見せてやれぬ。それではここで払おうとした小金さえも惜しく思う日も来よう。こちらも、そなたらがそう思いだしたと気にしたくないのでな、自分たちがどれほどの得をしているか、常々感じてもらおうというわけだ。そういった取り決めとしておかねば、こちらとて損をしてやる義理はない」
兄妹は互いに顔を見合わせたあと、しっかりと頷いた。
「わかった。その約束がもらえるなら、こちらとしては願ったり叶ったりだ」
「言うまでもないが、そちらがこちらを陥れようとしたと知れただけでも、未来視の秘匿を含め、一切の約束を破棄しても、こちらだけが正当と見做されるとする。良いな?」
「もちろんだ。そもそも、こちらにはもう敵対する意志はない」
「なれば柿崎景虎の名において、先の条件を約そう。芙実乃もルシエラも、余人へ未来視を口外せぬよう気を配れ。よいな?」
「景虎が言うならいいわ」
「はい、わたしも……」
ルシエラに追従した芙実乃だったが、語尾を濁すくらいには首を傾げたい気持ちがあった。景虎の決めたことに異存などはこれっぽっちもないのだが、本当に、ただただ利益を放棄するような約束をしてあげる必要があるのかと訝しんだのだ。なんというか、最後に言ったこちらを陥れたらというのだって、交換条件として禁じたというのではなく、それをされたら約束を反故にするというだけでしかない。
制約を受けるのも、一方的にこちら側だけなのだ。
それが不公平な気がした。
だが、未来視を駆使した執拗な陥れをされなくなる、というのにはきっと、芙実乃が想像しきれていない計り知れないメリットがあるのだろう。そう思うことにした芙実乃の目の前で、シュノアがじわじわと満足げに表情を綻ばせてゆく。
「これでもう本当に、口止め料なしでも、誰も貴方みたいには戦ってこないのよね?」
そんなシュノアに、景虎は普段どおり優しく受け答える。
「二言ない。遠慮なく申し入れて来られよ」
シュノアが花を咲かせたような笑みを景虎に向けた。景虎も微笑みを返していた。シュノアはまた、こうして無自覚にも景虎からの譲歩や笑顔を不当に搾取している。芙実乃はいつか、景虎のその表情に幾許かの本気が混入しやしないか、妬心が顔を覗かせだす。が――、
「ただし、だ」
薄く笑みながら続けられた言葉を聞いて、そんなものはたちどころに消え失せてしまった。
景虎はシュノアからピクスアへと柔く撫でるよう視線を移してから、二人に釘を刺した。
「そのような態度を見せに来るそなたらを、わたしが快く受け入れているかなどと、いちいち訊ねてはくれるなよ」
言葉だけを聞けば、それは脅しだとすら言えないのかもしれない。だが。
きっと、きっと、きっと。この二人はこれから、自らの意志で景虎の顔色を窺うようになるのは、想像に難くない。自らの意志で、得した以上の働きを景虎に捧げずにはいられなくなってゆくのだろう。約束を強制されたのはこちらだけでありながら、それゆえに、彼らの取るべき行動を餌と恐怖で、心がけというかたちの枷に嵌めてしまった。
シュノアとピクスアは、まさしく震え上がるのだった。




