Ep01-01-03
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「気を取り直して。ご説明をさせていただく前に、お互いの氏素性などを明らかにしておくと、誤解も生まれにくくなると思いますが」
二人の視線が芙実乃に集中する。
「そうか。わたしは柿崎――――景虎。長尾為景様に仕える者だ」
長尾というマイナーそうな人の、それも家臣ということだから、普通の武士だ。少なくとも平氏にあらずんば人にあらす、なんて言われる心配はない。芙実乃は一抹の安堵を覚えた。
ただ、景虎――というのはどことなく覚えのある名だった。とはいえ、それは同名の誰かを目にしたか耳にしただけのことである可能性が高い。芙実乃が思うその誰かが、こんなに若くして亡くなっているはずもない。
それと、気になったのは景虎の話す言葉は漢字までわかってしまうことだ。バーナディルとの会話において翻訳が働くのは当然として、実は景虎に対しても同じなのかもしれない。本で言うと、雅さを濃く残した、現代語訳版というところか。
「名乗るのをためらわれたのは、こちらの要求が強過ぎましたか?」
バーナディルが指摘するように、自分の名前にだけ言うのを迷ったような時間があった。主らしき人の名はすんなり言い切っていたのに。
「そういうことでもない。ごく近くに賜った名でな。慣れておらぬし、気に入ってもいない」
自嘲するような表情だ。芙実乃は思わずフォローに入った。
「景虎って、なんだか強そうで綺麗でかっこいいと思っちゃいますけど」
「短い音に意味。表意文字を使うのですね。どういった意味が?」
バーナディルの問いは、芙実乃のように文字まで伝わってないからだろうか?
問われたのは芙実乃だったし、説明する。
「虎はそのタイガー……いや、これじゃ同じ意味になるか――綺麗な模様の強い肉食獣です。それで景は景色とか風景みたいな感じで」
身振り手振りを交える芙実乃を見て微苦笑し、景虎は話してくれた。
「景は為景様の一字。虎は近隣を荒らしている武田信虎から、ではないそうだがな」
印象の悪い武将と同じ字を与えられる。皮肉な話だったのかもしれない。それにしても。
「武田……信虎。甲斐の武田ですか? 信玄公ではなく?」
「信玄は聞かぬが、甲斐の武田は合っているぞ。同じ世から来た者――か」
景虎は口許を綻ばせる。その様子を見て、バーナディルが言った。
「お互いの亡くなった年代などもわかるのでは?」
「わたしは享禄四年の如月だな」
「西暦二〇一九年の三月だと……」
桁の違う数字を景虎に驚かれ、芙実乃は平謝りした。西暦は元号でないと説明する。
「わたしは元号を聞いても、西暦の何年かはわかりません」
「代表的な歴史事件を挙げて、彼に計算してもらうといいですよ」
こういったケースの対処法、というやつなのだろう。バーナディルが教えてくれる。
一六〇〇に関ヶ原の戦い、一一九二に頼朝の将軍就任、七九四に平安京。時系列を逆に辿って、そのくらいしか思い出せない。それでも景虎は、それらから西暦を算出してくれた。
「一五三一年あたりであろう。正確とも言い切れんが」
しかし、おおよその見当はつけられた。関ヶ原の戦いの約七十年前。六十とか七十で秀吉が死んだとして、景虎は下手をすれば秀吉が生まれる前にここへ来たことになる。草履を懐で温めるエピソードなど知る由もなくて、当然なのだ。
芙実乃はそのエピソードの信憑性を微塵も疑わない。歴史上の事実、という認識だ。
「たぶん信長とか秀吉が生まれたころですね。そうなると、武田信玄や上杉謙信が同い年くらいになるのかなあ」
信玄の子供と信長が戦ったのだから、きっとそうだ。だとすると、信玄のライバルだった謙信も同年代のはず。ともかく、戦国時代の下克上真っ只中の人間には違いあるまい。
「信玄はさっきも言っていたな。その二人がわたしと同世代と。何をした者どもだ?」
「何をしたかだと何もしてません。信長とか秀吉が天下統一する前に、大きな勢力だったみたいなだけです。ただ、この二人は川中島で戦ってばかりいて、お互いそんなことしてなければ、天下統一してたのはどちらかだ、なんて話ですよ」
「川中島で武田と戦う上杉……。それは旗頭としてだけで――ないのだろうな。天下を狙えた上杉か。柿崎や長尾はどちらかに与したか、潰されたな」
景虎が苦々しい表情になる。
芙実乃は震え上がった。
「ひぃぃ……。すみません。上杉めまで敵だとは露知らず余計な話を」
「常なることだ。それに越後守護の上杉を裏切っていたのは柿崎だしな」
「んんん?」
芙実乃は首を傾げる。
「表向き、柿崎は上杉の配下だ。それを見限る密約を交わし、兄はわたしを長尾に送っていた。それで上杉が残ったのなら、兄は寝返らなかったのやもしれぬが、長尾は終わりだな。あの幼子も、長尾が残らぬならどのみち生きられなかったろう。我ながら無駄死にをしたものだ」
景虎はすでに割り切ったような涼しい顔だ。
「口を挟んですみません。差し支えなければ貴方の死因について、事情なども含めて詳しく教えていただけませんか? 確約はしかねますが、今後の貴方、貴方たちの役に立つデータになりうるのです」
相当にデリカシーに欠ける質問だが、バーナディルが積み重ねた丁寧さが、功を奏したのかもしれない。景虎をあっさりと頷かせる。
「雪崩だ。為景様の子の居所を移す道中だった。岩陰でその幼子を肩の上に立たせ、地揺れが止まると腕を伸ばして上へやった。その手から重みがなくなったまでは覚えがあるから、息が続かなくなってか、意識を失ったまま凍えて、というところか」
「ありがとうございました」
バーナディルがぺこりとお辞儀し、芙実乃を見る。催促されているのだろう。芙実乃には苦痛を伴う話だったが、景虎が話したのだから、話さなかったり嘘で濁すのも心苦しい。
せめて暗くならないよう心がけることにした。
「わたしもその、窒息死ですかね。身体の全部の力が入らなくなる病気で、それで呼吸を無理矢理機械でしてたんですけど、その機械を弟に止められちゃいまして…………ああ! でもでも、弟は悪くないんです! わたしはずっと家族のお荷物で。ただ生きるだけのためにお金を浪費して。わたしが死ぬと家族は大助かりなんです。むしろ褒めてあげたいくらいですよ」
芙実乃はてへりと笑って、頭をかいた。そこにふわりと手が乗った。
景虎だった。表情に変化はないが、芙実乃の瞳を静かに見つめている。髪を柔く擦られたから、摩擦の熱がほんのり伝わってくるようだ。
「あ……わわ。これはとんだごほうびを……」
芙実乃が胸の中で裂けそうなほど膨らんでゆく塊を無視して空元気を続けていると、美しい景虎の顔が膨らみ歪んだ。唐突に溢れ零れた、涙のレンズの仕業だった。
「ごほうび……わたしもあげたかったな」
涙の一粒ごとに含まれている想いがあるのか、言葉も零れて止まらなくなる。
「こんなに嬉しく、わたし、あの子にしてやれてない。こんなふうに撫でて、安心させてあげたいのに、なんにも、届かない。いっぱい褒めてあげたいのに、言葉も何も。あ……あ……あの管を! 引きちぎらなくちゃいけ……なかった……のに」
気づくと身体を向け合っていた。芙実乃は前に座る景虎を真っ直ぐに見上げている。景虎も芙実乃の頭に手を置いたまま、膝を合わせ、真剣なまなざしで耳を傾けてくれている。
「動けないわたしは、罪を背負わせて。きっと、みんなが、みんなはあの子を罰してしまう。いい子なのに。悪くないのに」
涙をぽろぽろ落としながら、芙実乃は左右の手で景虎の親指と小指を握り締める。
「お花をくれるんです。たんぽぽがあったよ、あじさいがあったよって。お菓子をわけてくれるんです。いつも買ってもらえるわけじゃないのに、新しい味だよって。楽しいお話をしてくれるんです。こんなことがあったよって」
思い返せば、嬉しかったことしかない。喜ばせてもらったことしかない。
「なのになのになのに! みんながあの子を罰してしまう! 悪いのはわたしなのに。何もできなかったわたしなのに。いまだってもう……何もできない」
「なればせめて、祈っておくがよい」
「祈……る?」
それが何になるのか、と思わないわけではなかったが、景虎の口にするそれは、現代人にはない清廉な響きがあった。
「わたしも虎千代様を助けたと言ったが、本当はそう思いたかっただけだ」
でもきっと、景虎ならやり遂げていると芙実乃は思う。これは芙実乃を元気づけるために、万が一の悪い想像をしてくれようとしているのだ、と。
「あの雪崩とて、柿崎の真意を試すために為景様が己が子を使って企てたものだとか、兄は兄で、長尾を油断させるつもりでわたしを使い捨てたとか、いくらでも考えられることだ。それに長尾が近く断たれる定めであれば、あの場であの幼子が助かる意味などないのやもしれぬ。しかしたとえそうだとしても、あの雪の中からは助かっていてほしいとも思うのだ」
雪の上で、景虎を失った幼子は、きっと寒さ以上に凍えている。
「だから祈ってあげるんですか? 虎千代くんのために」
「虎千代くん……か。あれが男か女かすら実のところは知らぬのだがな。それでもあの場を生き残って、ついでに戦でも死なぬよう、毘沙門天にでも祈っておくか。加護やあれ、と」
「毘沙門天……」
芙実乃の記憶が確かなら、上杉謙信がそれの化身だとかいう話だ。上杉謙信は話の流れからすると敵だが、その敵が祈る神の化身ならば、虎千代を死なせないでくれているかもしれない。皮肉だが奇妙な符合だ。芙実乃はそれを言おうとは思わなかった。余計な話は景虎の祈りを曇らせかねない。景虎の祈りとは、芙実乃の知る嘲笑の込められたそれらとは違うのだから。
「わたしが祈っても、弟に届くでしょうか?」
「さてな。だが御霊が邂逅する時がいずれ訪れるのであれば、そなたのいまの想いは、弟御を抱き温めてやれるのであろうな。祈りは――その時に備えて想いを胸の内に留めておくため、くらいでよい。通ずるかどうかは天の配剤に委ねてしまえ」
無責任な発言とも取れる。だがそれは、叶わないからといって、何もできないからといって、想いまで捻じくれさせて正当化するような人間が多い時代で育ったからこその受け取り方だ。
わたしは弟を想おう。純粋にそれをしよう。誰かに無駄だと笑われるとかを考えなくていい。祈りが本当に通じるなんてことがあるとすればそういう彼方にある、なんて雑念がなくなるまで。いや、なくなっても。一生。
景虎のように。