Ep01-01-02
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自分の姿を見て、芙実乃は目を疑った。
わからなかったというほどの変貌を遂げていたわけではない。ただ、いかにも病人然とした容貌だった面影が欠片もなく、生まれてから一日たりともエステを欠かしたことがないというくらい、身体の隅々まで微に入り細を穿つがごとく整えられている。
投薬や寝たきり生活の影響でちぎれたり色が抜けがちだった髪の毛も、見事な栗色で均質化されて、内向きの優美なカールを描きながら、肩にかかる長さで切り揃えられていた。久々に五体を動かせた感動もなんのその。気後れしきりだった。
誰もいないとはいえ、全裸なのもその気持ちに拍車をかける。芙実乃は兎にも角にも隠してしまいたくなって、置かれている服に手を伸ばした。
軍服にもメイド服にも見えそうな制服だった。上着は白を基調に、黒、赤の順で多く差し色が入っている。下着は水着のワンピースそのものといった形状で、これの色は紺だった。ズボンやスカートは白と黒の比率が上着と逆。どちらを選ぶかにより上着のデザインも異なるが、見本らしき立体映像を見る限り、胸がふくらんでいるモデルはスカートを着用している。
その分け方で、芙実乃に異存はない。スカートを手に取る。
頭巾に仮面に手袋にマントなどもあって、好きに使えということらしい。制服もだったが、どれも芙実乃のサイズぴったりのようだ。立体映像が遅れて出現する鏡で見てみると、肉付きは健康体のそれだが、身長は低いまま、一四〇センチそこそこの自分が立っている。
無難に靴下と靴だけを履いて、体育館くらい広かった部屋をあとにした。
すると廊下を挟むこともなく、直接部屋に出る。ただしこちらは、部屋の呼称を裏切らない十畳ほどの広さ。壁面の大部分が浅いベンチのように見えはするが、おそらくコンピュータの類なのだろう。ディスプレイらしき光が、三つばかりそれらの上に浮いている。
中央に、そのうちの一つを眺めている白衣の女性。薄墨を垂らしたベージュみたいな髪色で、心もち褐色じみている肌。顔立ちはハーフかクォーターくらいのアジア系に近い。二十代半ばくらいの印象を受けるが、日本人の感覚でそれだから、実際には十代後半とかかもしれない。
こちらに視線を向けた彼女に、芙実乃は思わず声をかけていた。
「さ……さっきまでお話をしていた方でしょうか?」
「はい。わたしはバーナディル・クル・マニキナ。貴女の担任博士になります」
「その……菊井芙実乃と申します」
「呼ばれ方に希望は? わたしのことはナディ担任と呼ぶ癖をつければ、大抵の人に所属が察せられるようになって、便利だと思いますよ」
「ナディ担任、ですね。わたしは菊井と呼んでいただければ」
「わかりました、菊井さん。よろしくお願いします」
呼び捨てられても驚かなくて済むように名字呼びを希望したが、敬称がつくなら名前で呼ばれてもかまわなかった。気を悪くされなかっただろうか。
「貴女のパートナーの魂は無事保護できて、遺伝子をこちらの人間に合わせて調整している最中です。すぐに目覚めるでしょうが、そのあいだに、彼の身体能力でも確認しますか?」
ピンときていなかったが、芙実乃は頷いておく。
体力測定やらの方法を答えると、数値が推定された。百メートル走十二秒強、フルマラソン三時間半前後、走り幅跳び六メートル弱など、器具の詳細を知らずに説明できなかった競技以外の結果が示された。芙実乃には到底出せそうもない記録で、プロのスポーツ選手並みなのではと思った。同年代で最強の日本人を無事連れて来られたようだ。
それに何よりわかる単位で示されたのが嬉しい。距離や時間などの感覚は言語やらと一緒に登録されているのだそうだ。進数から何から瞬時に計算、翻訳され、伝わっているらしい。
「意識はまだですが、肉体のプリントは終わったようです。顔を見てはいけない習慣ではないのですよね? 先に顔を見ておきます?」
「それは……、寝顔を勝手に見るのは失礼なので……」
「では貴女と同じ対応で――失礼」
バーナディルは中断とでも言うように、芙実乃に手のひらを見せて後ろを向いた。手首の周りに帯状の緑の光が回りはじめる。通話中ということのようが、声はまったく聞こえない。
相手方はもちろん、目の前で喋っているはずのバーナディルの声までも遮断されている。剣呑な雰囲気で、声のトーンをいくらか荒げている感じなのに、だ。彼女が何かに耐えるようにこちらを向くまで芙実乃は手持ち無沙汰で、望まずとも観察しているしかなかった。
「お待たせしてすみません。パートナーのほうは……説明まで終えてしまっていますね。システムだけで最後まで進むなんてあまり聞きませんが、精神状態がよほど凪いでいるのでしょうか。どうします? 起こす前に会話をしておきますか?」
展開の早さに、芙実乃は面食らわずにいられない。
「待たせ過ぎると不審に思われますから、もう一度睡眠誘導します?」
通話に時間を取られ、放置した自覚があるのだろう。バーナディルも気が急いているようだ。芙実乃が起こしてあげるよう、内心での苦渋の決断を伝えると、すぐに作業に入られる。
同郷人がここに現れるのだ。芙実乃の胸が途端に苦しくなった。
「出られたようですね。ここからは着替えにかかる時間次第ですけど、待つしかありません」
着替えの様子は見られない。芙実乃の時もそうだったと信じたい。
ディスプレイらしきものに映っているのも、見知らぬ文字だけのようだ。だが、バーナディルが目を向けているのは、芙実乃が入って来た扉だ。向こうの部屋にベッドらしきものは一つきりだった。
「同じ機器から生まれるんですね……」
「わざわざ別の部屋でする意味は、あ、兄弟がどうとかの誤解をさせていますか?」
「……そんなふうには思ってもなかったです」
空っぽだった部屋に数分で一人を生み出すこの世界を、芙実乃は初めは恐ろしく思っていたのを思い出した。無意識にお腹をかばうような格好となり、服をきゅっと握り締めた。
本当は、本当にここはどこなのだろう。目がくらんできそうになった。
「立ったまま待つのもなんですから、座りましょうか」
バーナディルが手を動かすと、半透明の正方形が浮かぶ。それを三ヶ所作って、離れ気味の一つに腰を下ろした。促された芙実乃は、入って来るであろうパートナーが座りやすいように右側を空けかけたが、思い止まって自らが右に腰かけた。空気に座っている感触で心地いい。
立ったままなのもしばらくぶりだったから、頭に血が上らなくなっていたのかも。
「なぜそちらに?」
「部屋の奥まった場所ほど良い席だ、みたいな決まりがあったと思って」
「それならわたしも……問題はないようですね」
扉に一番近いのはバーナディルだ。二人はその扉を注視しながら、パートナーの入室を待った。芙実乃と同じ手順で着替えて出て来るのだから五分程度のことだろうが、明治維新以前の人だとするともう少しかかってもおかしくない。
やっぱり侍だろうか?
同郷の人間と考えると心強く頼りたくもあるが、古い時代の人間であればあるほど、芙実乃がサポートしなければならなくなるのかもしれない。期待と不安で喉がからからな気がする。
待って。芙実乃の懇願をよそに、扉が開く。そこには、うら若きヴィーナスに鏡を見直させ、白雪姫の王妃と同じ気持ちで残りの生涯を送らせるであろう美少女が佇んでいた。
待ち人のあまりの美貌に、芙実乃は視覚以外の感覚を見失った。
眉を隠す高さで切り揃えられた前髪。胸元まで伸びた横髪の雰囲気から、いわゆるおかっぱを伸ばしただけで手を加えてないのが窺える。しかし艶やかで癖のない黒髪は、ほつれなど無縁であるかのように、一本一本が直下にしか垂れていない。さらにはその華の顔。血を薄めたような透明感のある色合いの、綻びかけた蕾を思わせる唇。クレオパトラや団子に喩えられることがないであろう、高過ぎず低過ぎずの優美な鼻筋。一等星が密集する夜空のように光を湛える黒目に、その多くを占められた切れ長の瞳。二重瞼の存在感を失わせる、花糸のような睫毛。小顔かつ鋭利な顎のラインには、可愛らしさに逃げない美しさがあった。
こちらに来て自分を見た芙実乃は、自分史上最高に仕立てられたと感じたものだが、目の前の人間は格別だと心底思う。芙実乃の知るどんな顔とも比較にならない。賛美しかなかった。
バーナディルが小声で訊ねてくる。
「確か、いざ尋常に勝負でしたね。実はいざ尋常が上手く伝わってません。貴女が意味を曖昧にしたまま使った慣用句と思いますが、どういう印象を持っていました?」
「それは勝負の前のかけ声みたいなもので、卑怯なことはしないで、みたいな……はず」
「――汚くない。それで美しさが競われた?」
バーナディルにもかの人は美しく見えるらしい。突飛な容姿をしているわけでもなし、美的感覚も近いのだろう。絶世の同郷人を前に、現地人である彼女のほうにシンパシーを感じる。
「独り言失礼しました。 わたしは貴方と、そちらの彼女をこの地にお招きした者で――」
バーナディルが思い出したように起立し、名乗った。芙実乃も慌ててそれに倣おうとしたが、芙実乃の緊張を煽る美貌の同郷人に、先に口を開かれる。
「戦に助勢を、とのことであったな」
容姿に違わない高めの玲瓏な声。抑揚には、静かでたおやいだ、笙の調べのような古式ゆかしき雰囲気があり、場の印象を厳かにも清涼にもしてしまう。
確認に頷く立場でもなし、芙実乃は立ち上がる機を失い、口を噤んで二人の会話を見守った。芙実乃の既知になっている事柄を、バーナディルが要領よく話し終える。
「そうして貴方の魂に届く言葉を持っていたのが彼女です」
視線を向けられ、芙実乃はようやく立ち上がれた。身体はふらふらで、頭はくらくらする。
「ききっ、菊井芙実乃ですっ」
「キクイ・フミノですよね?」
バーナディルが優しげに言い直してくれる。
「菊井……。それは武門の名であろうか?」
答えはわからないだが、それをどう答えればいいのかさえわからなくて、芙実乃はあたふたした。バーナディルに取り持たれわかったが、名字があるからには公家か武家であろうというだけの話だった。名字に聞き覚えがあるとかではなかった。
しかし、そういう連想をするのなら、芙実乃より昔の感覚且つ教養の持ち主であるのだろう。それこそ武家か公家か、そういう家柄の人に違いない。確か、武士には江戸時代の素浪人ですら無礼討ちなんてする権利があったはず。そのさらに上の上の上の上の、お目通りが幾重にも制限されている雲上人だなんて可能性は?
武家。公家。平家。将軍家。執権家。皇族。天皇、――帝。芙実乃ごときが不遜にも名字を名乗ったのは、まずかったのではないか? 芙実乃はがたがたと震えてきた。
「わたし、の時代は誰でもその、名字……があって」
「大抵の場合、魔法能力保持者が呼び出すのは過去の時代の者です。彼女は未来の時代に生きていて、その時代には貴方の時代とは変化している規則がある、ということなのでは?」
麗人が頷く。それにしても、バーナディルの言葉は男女がしっかり区別されている。麗人の情報を散々見ていた彼女が性別を誤るはずもないし、二人称を使い分けているとかだとすると、ズボンを履いていて貴方と呼ばれても否定しない麗人は、疑いなく男性ということなのだ。
しばらく女性と思っていたのを気取られていたりしたら……。
「あわわはわわわ……」
醜態を見せる芙実乃から視線を外させるように、バーナディルが咳払いをする。
「ともかく座って話しませんか。してほしいこと。されて困ること。お互いの擦り合わせなど交えながら、こちらの事情を説明させてください」
頷いて、彼が促された席に腰かける。バーナディルも座る。芙実乃は一人立ち続ける気まずさに耐えかねて、彼の隣の席におずおずと腰を下ろした。隣といっても、電車ならあいだに一人入れるくらいは離れている。しかし男性。それもこんな麗人と並んで座るなど、芙実乃の人生になかったことだ。もっと遠ざかるべきか、むしろその態度は失礼にあたるか。そんな内心の葛藤を知らぬ間に体現していたらしく、板のようでしかない席から転げ落ちた。
結果、彼の素足に頭を乗せるという失態を演じてしまった。
「ひぃぃぃ……、おみ足を、おみ足をばあああ!」
芙実乃はすぐさま平伏する。
「少し落ち着け。わたしはいま刀を持っていない」
それは無礼討ちをしたくてもできないという意味だろうか?
「ところで、そなたらは具足らしきものを履いておるが、ここは屋敷内であろう?」
バーナディルは何を問われたかわからなかったらしく、地に伏す芙実乃に目を向けていた。
「日本家屋は土足厳禁なのでありまする!」
芙実乃としては、彼が奇矯なことを言いだしたのではないと弁明したつもりだ。こんな畏れおおい人に恥をかかせては、今後の関係性まで破綻する。口調が変になったが、バーナディルは気にせず彼と話しだした。
「汚さぬよう配慮くださったのですね。ここでは履き物を強要したりはしませんが、こちらの生まれの者は大抵履いたままです。差し支えなければわたしが取って参りましょう。あちらには貴方に合う物が用意されていますから」
バーナディルの、文化の違う人間に対しての完璧な受け答えに、芙実乃は焦りを募らせる。同郷という甘美な郷愁に浸り、文化も身分も違うという想定が、芙実乃にはできてなかった。思えば、バーナディルと普通に話せていたのは、彼女が完璧だったからに過ぎない。
このままではいけない。
「お待ちを! 履き物はわたくしが! わたくしめがぁぁぁ!」
芙実乃は走った。数年ぶりなんて感慨はなく、靴と靴下を届けるため一心不乱だった。これまで芙実乃にとって頑張るとは、抑制する方向にだけ向かうものだったから、能動的な方向にかけるブレーキは、いつの間にか利かなくなっていたのかもしれない。向こうの部屋で二度転んだが、彼の見ている前で、その失態を演じなかったのが救いだ。
「へへへ陛下! 履き物はこれに!」
華麗に舞い戻り靴を捧げようとして、芙実乃ははっと間違いに気づいた。
「しょ……少々お待ちくださいませ。ただいまわたくしめが懐にてお草履めを人肌に、人肌にまで温めまするので」
芙実乃は恥ずかしさにぷるぷると身もだえしながら、スカートからシャツの裾を抜き出した。
「いや、悪意からでないのはわかるが、人肌の履き物は気持ち悪いな」
「そんな! 出世は間違いないはずだったのに!」
芙実乃の人生設計は音を立てて崩れ落ちた。女の子だから禿げた鼠よりはまし、なんてただの思い上がりだった。自分は気持ち悪いのだ。気落ちする芙実乃をよそに、彼はさっさと靴下と靴を履いてしまった。手伝いなど必要ない。足袋や具足は古来より存在したのだから。
テクノロジーや造形物にいちいち戸惑う彼を手助けする。芙実乃にはそうやって仲良くなっていこう、というもくろみもできつつあったのだが、それも望みは薄そうだ。むしろ前世と同様に、人の手を借りて椅子に座らせてもらう始末だった。
介助してくれるバーナディルは本当に優しげで、乱れた服まで整えてくれる。彼に取り入る女狐、なんてほんの少しだが思いかけていたことを反省した。