Ep01-03-05
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試合場は入学式の円形ステージと遜色ない広さだが、周囲にあるのは客席ではなく壁。三階の二室だけが、一面ガラス風の仕様で、それぞれに芙実乃とルシエラが立つ。脳に演算補助を受けても倒れないよう、専用のオブジェクトに腕や脚を支えられている。ルシエラが同室での観覧を希望したが、こればかりはそうはいかない。対戦者のパートナーが公式の立場だ。
眼下には、芙実乃からだとクロムエルだけが見える。景虎はほぼ真下にいるのだろう。
試合開始時間。パートナー用の観覧室が、脳処理演算補助領域となり、芙実乃の知覚がおよそ十倍に加速された。問題ない。加速負荷の訓練は何度かこなしてきた。序盤に試合があった子たちの中には、気分が優れなくなる者もいたそうだが、これなら魔法だって使えそうだ。
景虎の後ろ姿が見えてくる。
刀は鞘。動きがスローに見えてわかりにくいが、やや走っている感じだ。剣を構え、蛇行しながら接近するクロムエルに対応するように、爪先の向きをその都度変えている。抜く。
足を止めるクロムエル。
景虎の刀が空を斬る。
両者が走ったままなら、切っ先が届いていたのだろうか。景虎が片手上段に構える。それはしかし一瞬というより、ただの通過点に過ぎなかった。ボールなら跳ね返る時にはたわむ瞬間がある。だが景虎は、それすらも省略したかのような、滑らかな切返しをしてみせた。
前進が急加速し、縦の斬撃をクロムエルに浴びせかける。
クロムエルは驚愕したように目を見開く。が、振りにいっていた横薙ぎを続行。ただし、低い体勢だったところを、膝を伸ばして斬撃を上にずらした。
接触。火花がクロムエルの胸、景虎の目の高さで散らされ続ける。
互いに中ほどでぶつかった剣と刀だが、振り抜こうとするクロムエルの力に圧されたのか、景虎の刀が剣の根元に向けて流されているかたちだ。このままでは、景虎の刀はクロムエルの身体から逸れる。一方のクロムエルの剣は、景虎の顔を捉えるだろう。
身長の差がここで出た。
とはいえ、景虎もそのくらいは織り込み済みなのかもしれない。地に足を着けないような体さばきで、圧されるがままクロムエルの剣が向かう先へ角度を調整。吸収した力を移動力に変換したかのようなステップを踏み、置き土産のように刀を振り抜いた。
瞬間、クロムエルの腕が、下方への力に耐えるように上下する。
クロムエルから離れてゆく景虎の刀は、反りの内側を下に向けていた。つまり、景虎はそもそも峯打ちを仕掛けていたことになる。持ち手を見ると、刀の頭を握っていた。
峯打ちだからこそ、刃でない側の切っ先が剣の根元に掛かり、クロムエルは腕を揺らされたのだ。縦対横、切っ先対根元という当たり方も、筋力差を覆した要因たりうる。
そうして後ろに退いた景虎だが、それも刀を振り切る距離を得るためでしかなかったのだろう。足が接地した途端、一息もつかずに、クロムエルとの距離を詰めはじめた。その間、切っ先を前に向けながら、持つ位置を根元に戻してもいた。刃の向きは不明。十倍遅く見えるとはいえ、手遊びのように揺らされる切っ先を見極める目を、芙実乃は持っていなかった。
それでも、景虎に手抜かりなどあろうはずもない、と芙実乃は信じきっている。バダバダル戦のように、一方的に攻撃を加えて勝つのだろうと、落ち着いてもいた。
だが、様相はそこから一変した。
上体が俯きかかっていたかに見えたクロムエルが、強引な攻勢に転じたのだ。
景虎はそれを捌き、捌き、捌きながら前に出る。対するクロムエルも、左右まちまちに後退するが、攻撃の手を緩めることはない。より近い間合いが景虎の望むところなのだろうが、広い試合場を存分に使われ、距離を詰め切れなかった。
芙実乃がひやりとする場面もちらほらある。もっとも、大抵の場合は、どこからともなく景虎が刀を滑り込ませ、事なきを得てしまうのだが。心臓に悪いことこの上なかった。
何せこのスローな世界。心理的な影響を身体に及ぼしてしまった場合、頭とは別に、その影響があとを引き続けてしまう。早鐘のようになった心臓が、締めつけられるなんて、不可思議な肉体的苦痛を十倍長く感じなければならない。
それは芙実乃の心に焦りを生んだ。なまなかな安堵では、苦痛をリセットするに至らない。信号を受けた身体が正常に戻る前に、新たな動揺を重ねてしまうのだ。
火花が舞った。
先の接触以来、クロムエルの剣と景虎の身体のあいだに必ずあった刀は、実は一度たりとも触れられてさえいなかった。身体を捻った景虎に、すべて避けられていたからだ。それが今回、クロムエルの剣は、初めて景虎に刀まで使わせるほど、身体に迫っていたことになる。
あれほど刀を大切にしていた景虎だ。本意では防御に使いたくなかったのではないか。
暗雲。この先への不安が身体に纏わりつくように、スローな身体にさらなる靄をかけた。身体からのフィードバックが、しばらく芙実乃の心にまで圧しかかるだろう。
だが――。
景虎が何をしたのかわからないが、唐突にクロムエルの体勢が崩れかけていた。その瞬間、彼の身体は目を瞠るくらいの躍動をし、真後ろに迷いなき後退を敢行していた。
景虎がそれを追撃する。ようやくの攻勢。なのに、両者の距離は詰まるどころか、広がっている。本気の度合いの差なのかもしれないが、生来の速度にも差があるからだろう。
ただ、その猶予はクロムエルに再度の攻撃権を与えるほどではなかった。
空になった鞘と並べるような位置に刀身を垂らし、いつでも振れる景虎。
最も無理のない斬撃は斜めへ切り上げることのはずだが、クロムエルはわざわざ腰を落としてまで、その軌道に自分の頭を持ってくる。おそらく、腰から下がかなり無防備だったのだろう。高い身長だと、守る部分も多くなるということかもしれない。
剣道用語で正眼とか呼称している構えで、隙なく攻撃に備えるつもりのようだ。
景虎は肘を前で上げ、いよいよ振る態勢に入る。が、そこでさらなる一歩を踏み込んだ。
まさかの肘打ちが、クロムエルの心臓目掛けて直進する。しかし、それに釘付けとなったクロムエルが対応するよりも先に、誰にも注目されていなかった景虎の左手が、クロムエルの右手首を押し除けていた。
十字に衝突するはずだった剣の脇を、刀がすり抜けてゆく。前面を押し開けただけでなく、肘と手首の角度も変えて、そんな真似を可能にしたのだ。真正面を固めていた相手の首を、真正面から一直線で狙う。ありえない隙を、こんなにも容易く作ってみせるとは。
クロムエルは咄嗟に剣から右手を離した。景虎に掴まれた右手に見切りをつけたのだろう。抗う一瞬すら惜しまれる攻防のさなかなのだ、と。凄まじい速度の判断と反射。利き手でない左での片手持ちだが、もはやなんの制限もない。
が、それさえもすでに時を逸している。
刀の鍔が剣の腹と重なる位置にいるのだ。いまさら横にずらしたところで、進行を遮ることなど不可能。芙実乃の演算補助された脳は、これまで辿った刀の軌道から未来を予測する。
景虎は腕を折りたたんで、刀の根元から切っ先までを使い、首を撫で切るつもりなのだ。届くまでの猶予は、もうクロムエルの腕の長さ以下しかない。それだけの距離を移動してしまえば、景虎の刀はクロムエルの頚動脈に達してしまう。
鮮血を吹き咲かせ、立ち尽くすのか。首を落とされてしまうのか。
放置すれば、きっとそのどちらかになる。
だが、芙実乃とルシエラには、それを止める手立てがあった。
試合の強制終了ボタンだ。意思を持ってボタンを出現させれば、それで試合を止められる。施設全体で瞬時に防御力場が展開するようになっている。力場展開をしてない試合で、適切使用されたと判断されれば、使用した観覧者にはポイントが加算される。
が、当然、それをした側のパートナーは敗北となる。
いま使用すれば、ルシエラなら、ポイント加算も問題なく認められ、クロムエルも死なせずに済む。けれど。
「騎士なんてみんなみんな死んでしまえ!」
それがルシエラの呼びかけだったそうだ。反応した魂の中には、怒り荒ぶる魂も多かったに違いない。そんな呼びかけで来たクロムエルだったが、心底ルシエラを案じ、心の安寧を願ってくれている。魔女狩りの時代を知らない、礼節や責務を尊ぶ騎士の鑑。
彼の死はルシエラに何をもたらすのか。
安堵。歓喜。達成感。たとえそういう気持ちになったとしても、それは一時的なものに過ぎない。クロムエルが蘇生されないはずがないからだ。その現実を目の当たりにして、ルシエラは何を思うのだろう。彼の死を見て、繰り返しそれを望むようになるルシエラを、芙実乃は想像したくなかった。純朴で、景虎に懐いていて、芙実乃に年上ぶるルシエラが、そんなふうに歪んでしまうのが恐ろしかった。
それに景虎のこともある。
景虎は孤高だ。一月近く通っているのに、クラスで景虎に近寄る男子はいない。
勇気を振り絞り話しかけてくる女子には事欠かないが、景虎のほうから彼女らに話しかけるようなこともない。話しかけてもらえるのは、芙実乃やルシエラくらい。だが芙実乃は、ルシエラがいない時に、景虎とクロムエルが話しているのを見かけたことがあった。
芙実乃はその時の表情を覚えている。微笑ではなく、ごく自然な表情だった。芙実乃たちのように、労わってやる必要がない相手だったからに違いなかった。
礼節があり、景虎を尊敬している節もあるクロムエル。ルシエラのことがなければ、彼は景虎の友人になれる人なのかもしれない。いやむしろ、ルシエラのことがあるから、景虎は彼と友人のような付き合いをしないだけなのだろう。それを。
このまま斬らせてしまうことが、いったい誰の未来を明るくするというのか。
放置すれば、景虎は斬ってしまう。誰を彼をも斬ってしまう。それを要らぬ、という宣告のように取られたりはしないだろうか。きっと違う。違うのに。それなのに。斬って斬って斬って。一人佇む彼の姿が悲しく映る。
雪の上の寂しき幼子に重なる。
景虎の刀が、クロムエルの喉元に達しようとしていた。
ルシエラは止めない。ルシエラのナビと登録し合っている芙実乃なら、たとえ敵方同士の立場で脳処理演算補助を受けている現状でも、通信を送ることはできる。しかし、それをして、気持ちを話したとしても、ルシエラに試合を止める決断を迫るのは酷だろう。
自分がやるしかない。
芙実乃がそう思った瞬間、目の前でボタンが押されたエフェクトが起こり、加速状態から突如脱した。意識があると条件に合わないのか、身体を支えるオブジェクトも消失してしまう。ふらつく。眼前の窓から見える景虎たちは、脳の補助機能がなくなっているせいで拡大処理もされず、表情がわかるほどではない。その窓の手前に、この世界の文字が浮かび上がった。
敗者・柿崎景虎。
ありえない称号が聞こえる。あってはならない称号を言い立てられている。芙実乃の知るあらゆる声で、無感情に抑揚もなく、読めない文字が意味だけを伝えてくる。目を逸らさない限り、この声が止むことはない。
認識を拒絶すればするほど、声は大きくなる気がする。
膝から力が抜け、芙実乃はぶつかるような尻もちをついた。それでもまだ目は逸らせない。見上げながら、無自覚に泡を吹くような絶望を音にもらしていた。自分のせいだ。全部自分がしでかしたことだ。言葉ではない、擬音にすらならない音の羅列を絶叫する。
あるのは、汚してはならないものを汚した罪悪感。芙実乃にとって、柿崎景虎という名は、国宝や文化財より貴き価値があり、値のつけられないもの。たった一つ、元の世から変わらぬ姿で持って来れた、奇蹟でありよすがだった。それに。泥を塗った。
これ以上の罪過を芙実乃は思いつけない。
元の世の元の時代なら、どの国の政治家も、自国の国宝や文化財より、よその国の犯罪者の命が大事、などと信念を持って言うのだろう。だが、芙実乃はそんなふうに割り切れない。
国の宝を汚した。国の文化を損ねた。すべての過去と、未来永劫の故国に顔向けできないと、小さな身体を細かく震わす。それに何より、景虎に合わせる顔がない。どの面を下げて、景虎の前に出て行けというのか。
いっそ、狂ってしまいたいくらい胸が締めつけられている。痛い。苦しい。
絶叫でそれらを和らげながら、芙実乃は現実に踏み止まる。這って、手を貼り付け、窓越しに顔を覗かせた。振り向き見上げる景虎と目が合って、蹲り滂沱と涙を落とす。だが、こうしていれば迎えに来てくれるなんて甘えは、もう許されない。
芙実乃は倒れていたがる身体を起こし、観覧室を飛び出した。
あそこで泣いていたら、景虎は迎えに来てくれていたのかもしれない。手を引いてくれていたのかもしれない。だけど、そうなってしまったら、芙実乃が景虎の顔をまともに見ることは、金輪際なくなるのだろう。そしていつか、本当に愛想を尽かされた時に、立ち尽くすしかなくなるのだろう。芙実乃は手を引いてもらわなければ歩けないのだから。だから。
いまだけは走らなければならない。
目が回る。当たり前だ。天と地を自分でひっくり返しておいて、そうならずに済むわけがない。芙実乃は階段を踏み外し、壁にぶつかり、廊下に投げ出されながら、三階から試合場を目指した。経験したことのない痛みが、至る所を苛んでいるが、怪我がないことに気づく余裕もない。複雑骨折も斯くやという痛みの悲鳴から耳を塞ぎ、ひたすらに景虎の姿を追った。
柿崎景虎の名を汚した己が身を、その目の前に曝け出すために。




