Ep04-06-02
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バーナディルは景虎に「掠めるだけなら」という戦闘許可を与えた。
だがそれは別に、月一戦に準じた正式な訓練の許可を、自身の生徒に対して出したわけではない。あの時は芙実乃の危地に急ぎ駆けつけねばならぬ状況下だった。同行を認めるか認めないかの問答のさなかで交わされた、ささやかな個人間の決め事程度。
仮に抜き差しならない事態に陥っても掠める程度で済ます、という景虎の言を受け、一刻も早く芙実乃の元へ行かねばならないのと、景虎を無為に過ごさせるのもここいらが限界ではとクシニダからも後押しを受けての、なし崩しの了解がこのかたちになっただけだ。
だから、そんなものを律義に守ろうとする景虎の言動は、北条からすると理解不能としか言いようがないのだろう。それにおそらく、北条は痛みを覚えてからの五、六回しか、景虎の挙動をまだ攻撃として認識できていない。
何せ、景虎はここに来てまだ、一度たりとも刀を振ってもいないのだ。
景虎が北条に刀を掠めていた仕掛けを、バーナディルは見れても感じ取れてもなかったが、繰り返し目に焼きつけていれば想像で補えることもある。狙いどおりの攻撃を北条にさせて、息を合わせてそれを躱す。身体こそ遠ざかるものの、そこに身体を捻る動作が入ることで、刀の切っ先の向きが、刹那後ろから前に転じる。その時の切っ先の丸みがちょうど、刀を振る北条の腕の軌道上にあることで、北条は自ら景虎の刀に掠めさせられていた。接触時の触感がまるでないわけではないだろうが、全力で刀を振っている最中の北条だと、そもそも服の中で感じていなければならない、風と袖とのはためきに紛れさせられてしまうのだ。
それに、意識の盲点というのもありそうだ。景虎の専守防衛に見える構えで、刀の切っ先はやや後ろの上を向いてるし、刀を握る右腕が独立して動かされた気配すらない。掠められた、あるいは掠められるかも、と思うのも難しいだろう。掠める、とは普通だと、刃の中央寄りの部分から刃先へと抜けてゆく軌道を想定しがちになる。しかし、景虎はそれを逆に刃先から中央寄りへと、少しだけ丸みの強くなっている部分を、身体で躱して捻って離れていく挙動に紛れさせて、北条が刀を振る腕の軌道上に、掠める程度にはみ出させて残しているだけなのだ。
しかも、その時まさに刀を振っている最中の北条の視線は、己が腕により遮られてしまう。直後に振り向いた時は、すでに間を詰めに足を動かしている、攻撃前と同じ構えで刃は奧にあるようにしか見えない。痛みが無視できなくなるまで気づけなかったのも、何も起こるはずのない刹那との思い込みと、詰めた自分への対処にしか頭を使わせない試合運びの妙なのだ。
これが、身体評価が男子生徒中最下位でありながら、余裕で全勝を挙げる景虎の戦い。
手加減もまた、震えがくるほどの神業なのだと、バーナディルにだって理解ができた。
「掠めるだけだと! どこがだよ! 思う存分切りつけてるだろうが!」
「どう曲解すればそうなる。そもそも、掠めておるのも自身の仕業であろうに」
「俺のほうから掠めてるだと。そんなことをいつ――――っ!」
北条は息を詰めると、切れた袖と傷口を確かめた。確かめずにはいられなかったというのが正直なところなのだろうが、事ここに至ってもそんな仕草ができてしまうというのは、景虎がただひたすら暴虐に襲いかかかってくるとは想像だにしていないからだ。もし北条が当たり前の危機感を抱いていれば、戦闘中、敵を前にしてそんな真似をしていられるはずもなかった。
それほどまでに柿崎景虎という人間は、暴力性からはかけ離れた、優しげで穏やかな雰囲気しか纏わせていない。しかし、空に浮かぶ恒星は暖かなだけに見えながら、その実、人がその生涯において目にする中でも群を抜いて破壊兵器たりうるもの。北条は、まるでそのことにいままさに気づいた、と言わんばかりに傷口を見ていた目を見開くと、恐る恐るの感情が浮き彫りになった表情で、足を止めて待ってくれている景虎の美貌を窺った。
「同じ箇所を――。何度……、ぜ、全部、俺の振りの全部にそんな真似しやがったのか!?」
想像以上に傷が深かったのか、愕然とした顔の北条が問うた。が、景虎は首を傾げ、
「むしろ幾度かだけそうしないでおく意味があるのか? 失敗した回数で言えば、想定以上に深く掠めたやも、と思わぬでもない感触が二度、掠めた総数は端から数えてはおらぬが」
と、わからない様子だ。バーナディルにだってわからない。北条とてそれは同じのはず。
だが、質問を質問で返され、その答えすら誰も浮かばないという、無意味な会話の応酬を経ただけなのに、北条の精神は一層粟立ったように見えた。目を逸らしたいから逸らしているかのように、北条はこちらをちらちら見ながら叫んでくる。
「バーナディル、テメェ、本気でコイツに俺を殺させるつもりか! 本当にコイツは掠めるだけなのかよっ!」
セットでの問いだとしたら、中々に相反した内容で、どうにも答えようがない。ただ、北条が喚き散らしたくなる気持ちも、バーナディルには理解できてしまう。悲しいかな、景虎と較べるなら、バーナディルは北条に近しい愚かさと卑小さを兼ね備えている。
もっとも、この場合理解は感情移入ではなく同族嫌悪に傾くし、北条の消える運命に心を痛めたりもそれほどにはない。召喚されて以来芙実乃にしてきた仕打ちを思えば、相応の末路とすら思ってしまう。とはいえ、それで景虎が掠めるだけ、と言いきってしまっていることに納得ができているかと言えば、話は別だ。
だって、その当の景虎こそが、北条を消さない限り、この世界から消えゆく運命にあるのだから……。
嘘をついて油断させているのかすらわからない。それゆえに明言もしかねるのだった。
バーナディルが無言でいると、時間の浪費とばかりに、北条へ向けて景虎が口を開く。
「敵の巧言などそもそも話半分で聞くもの。わたしが答えてもより質が悪かろうが、わたしから担任殿への言葉とでも思い、聞き耳を立てていよ」
景虎はそこで顔をバーナディルに向け直して話を続けた。北条が隙を衝こうと襲いかかってくるのを誘っているのだろうが、バーナディルに対してはかなり厳密に言葉を選んでいるきらいのある景虎だから、話は話で、いい加減なことは言わないに違いない。
「なれば担任殿、わたしはそなたが命じたとて、そやつを殺めはせぬな。刀も掠める程度で、わたしからそやつを傷つけるようには動かしもすまい。無論程度には認識の差こそあろうが、わたしの基準におけるその領分は違えぬ、取り繕わぬであればそなたと約そう」
「……? ご自身の手でけりをお着けにはならない、と仰られているわけですか?」
思わずしつこい確認をしてしまったバーナディルの問いに答えを返したのは、景虎ではなく北条だった。忌々しげに声を荒げだす。
「芙実乃か! あの光で直接、芙実乃に俺を殺させようって肚かよ!」
しかし景虎は、それにはいささか呆れたように北条を見やると、淡々と語った。
「そのようなこと、庇護した女子供にさせる手間ではなかろう。どうしても自分が直接手を下したい、と芙実乃が申すのであればそのような助力もしようが、そうでもなくばわたしが手ずから片してしまうほうが、よほど手っ取り早い」
「はあ。では本当に北条さんを、このまま生かすおつもりなのですね?」
バーナディルがそう訊くと、顔をこちらに向けた景虎が苦笑しつつも、さらりと言った。
「そやつを生かしておいていいはずがあるまい」
まるで死刑判決を言い渡されたかのように、北条は身を竦めて顔を強張らせる。
そんな北条を横目で見ながら、バーナディルは改めて景虎の方針を質すことにした。
「北条さんを生かしておけない既定路線には、わたしからもそうなのでしょうねとしか言うべき言葉が見つかりませんが、具体的にどのような手順で事をお運びになられるおつもりで?」
「……こちらのほうが無理に合わせておるだけというに、そなたほど正しきを尊ぶ御仁が、事態の非現実性に惑われ、ここの世の流儀、法に則るという精神を喪失されておるのか?」
「法の精神?」
景虎や芙実乃からしたら、ここは異世界であり、しかも唾棄すべきその並行世界に過ぎず、だからこそ芙実乃など、殺人すら禁忌とも思わなくなっていった。のだが、少なくとも自身の存在くらいは実存のものとされていた芙実乃でさえそんなだったのに、自身を架空の存在とされた当の景虎が、この世界の法に則るとはどういうことなのか。
「つまり北条さんを合法的に生かしておかない……。えっと、ありませんが、そんなのは」
この国には死刑制度すらないのだ。それを、景虎はあると思い込んでいるのだろうか?
「ある。そなたが失念しておるだけだ」
「その、こう言ってはなんなんですが、何度死のうが生き返らせられる、というのがこの世界のやり口になってしまうと思うのですが」
「そうだな。ゆえに、その男がこの世界で生き返らせられようともしなくなる、というのを、できうる限りの到達点として考えておかねばならぬ」
理屈だと確かにそうなる。要は、芙実乃が最低限これだけは、というアプローチをかけたのに対し、景虎はここまでやってだめなら、というところまで思考を突き詰めていたのだろう。
「――っ! それで生き返らせなくなるように……」
言うのが恐ろしくて、バーナディルが濁した言葉を、景虎は優しく口にする。
「ああ。その男にこんな世界でなど生きていたくない、そう思い、自ら二度と目覚めなくなってもらうよりなかろう」
気力喪失死。ただ、それでもまだまだ自分の想定が足りてなかったのだと、バーナディルは続けられた言葉によって思い知らされることとなった。
「つまり、その男に直接引導を渡すのは誰でもない、ナディ担任、そなたの役目となるのだ」
あまりのことに、バーナディルの絶句した喉からきゅーっと音が鳴った。
そう。そうなる。法や手続きを真っ当に踏むとそうなってしまうのだ。
気力喪失と呼ばれる異世界人特有の昏睡状態は、親族、つまり妻子が経済負担を申し出なければ、延命処置は中止される。だが、それだと遺族や医療の事務方に安楽死のボタンを押させるも同然のため、社会適応した一般の異世界人なら、地域行政のトップが許諾ボタンをクリックすることで、暫定継続していた延命処置がストップするようになっているのだ。
しかしこれが学生の場合、在籍する学校には監督権を有する現地人、即ち担任が親族と行政を兼ねた決断と行為をしなければならなくなる。婚姻関係がなくても、学内規定によるパートナーが望めば、学校の負担で延命処置がなされるが、それも在学中に限られてしまう。
もし北条がそんなことになった場合、芙実乃は当然延命など望むはずもないのだから、バーナディルが然るべく、延命処置の終了ボタンをクリックしなければならなくなるのだ。この国に異世界人学校は七校あるが、全校合わせても、数十年に一度くらいはある事案だとも聞く。
そうである以上、確かに逃れようもない、バーナディルの役目になるのだった。
自分が殺めなくてはならないのか、という目で北条を窺うと、北条が狼狽えだす。
「なんでそんな目で俺を見んだよ。バーナディル、テメェの役目は、なんだかんだ、俺を守ることだろうがっ!」
やはりそういう認識でいたのか、と、バーナディルは片手で顔を覆った。おそらく、気力喪失死についても理解していない。このままでは芙実乃がそうなるのだと散々言い聞かせてきたのに、寝たままでも犯せるし孕ませられる、なんて放言まで吐いていた北条だ。自分から死にたくなどなるはずもないと思っているから他人事として耳から抜けてしまうし、景虎との会話だって、単にバーナディルがトドメを刺すことに承諾した、くらいにしか聞こえていない。
お互いの程度に差こそあれ、これまで芙実乃を苦しめてきたツケが回ってきたのだとバーナディルは感じずにいられない。それでも、北条がバーナディルを恨みがましく睨みつけているのはお門違い、ということを知らしめるかのように、景虎が北条の視線を自分に向けさせた。
「そなたがあれこれ考えることはない。そなたからすれば、単にわたしを殺せば万事片づいてしまうのだ。掠めるしかならぬとは申さぬゆえ、先にわたしを殺すようにだけ存分に尽くせ」
言って、北条のほうへとゆっくりと歩みだす景虎。
「く、来んな。お、おい、バーナディル、コイツを止めろ。それと、そ、そうだ、しきい、しきいを俺とコイツのあいだにも張りやがれ。あと、すぐに芙実乃を殴れなくなるやつ、あれもだ。とにかくコイツを来させるんじゃねえ。刀持ってんだぞ。殺さねえ、掠めるだけなんて話がでまかせだったらどうするつもりだよ。俺が死んじまうだろうが」
北条は喚きながら後じさりして壁際まで行くと、怪我のない左手を手当たり次第、手近な壁にペタペタと繰り返し貼り付かせる。
「くそ。なんで開きやがらねえ。バーナディル! これもテメェの仕業かよっ」
いや。芙実乃の仕業だ。北条をここで仕留めてやる、という芙実乃の執念がこの状況をもたらした。その一念で北条の逃亡を阻止し、景虎に利したに他ならない。
背を向ける北条の右腕の切れ目にするり、と景虎の刀が嵌め込まれる。と。
「ぎっ――。ぐぎゃああああああああああああああぁぁぁ!」
一拍を置いて、北条が絶叫した。かろうじて持っていたはずの刀を落とし、振り向いて壁に背を貼りつけるが、身体を反転させたことで、景虎の刀は抜けた。ただし、北条の右腕の下は早くもおびただしい血だまりになりかけている。
その血だまりを眺めながら、北条が猛然とがなり散らす。
「まるきり掠めるだけで済んでねえだろうがっ!」
「切れるのはそなたが動くからであろうに。わたしがしたのは、そなたが腕を動かすほうへ刃を先回りさせただけだ。わたしの基準では、掠める以下の真似なのだがな」
確かにそれなら、景虎が自ら切りに行ったとは言いにくい。北条に合わせて動かしていると言えなくもないが、景虎の刀は切れ目、謂わば溝に挟まったような状態にあったわけで、反射神経や動体視力を駆使しなくても、北条が動けばある程度は勝手に着いて行く。景虎ほどの技量の持ち主なら、引っ張られたのをきっかけに少し先回りしておく程度は造作もなさそうだ。
もちろん北条がそれで納得するはずもないが、景虎は、端から北条の納得や承諾などいらなかったようで、返事を待つでもなく再び北条の傷口に刀を嵌め込んでしまう。北条はわずかに呻きはしたものの、なけなしの意地を振り絞ったようで、忘我で動くことはしなかった。
「どうだ。俺が動かなければ、切り進めはしねえって言ったよなあ?」
「ああ。よくぞ気づいた。このままじっとされてしまうと、わたしには打つ手がなくなるな」
景虎は機転を利かせた子供に関心する母親のように返すと、続けざまに手首も翻した。当然ながら、北条の傷口に嵌まっていた刀の切っ先が角度を変え、傷口は押し広げられてしまう。
「ぎあっ――ぐっ、があああああぁぁぁ! ひぃあ! あ、あああああああっ!」
たまらず北条は、腕を振り回して逃れようとする。
無理もなかった。景虎が刀を捻って北条の傷口を広げた瞬間、生木を裂くがごとき痛みが、切れ目の境界を責め立てたはずだ。本能の反射に任せて暴れ、逃れようとするも、剣舞のような動きで景虎の刀には常に先回りされた。振り払おうと宙を彷徨う北条の右腕に合わせて移動しながらの、嵌めた傷口の刀を前後させる動きは弦楽器を弓弾くよう。だがそれで骨周りすべてに切れ込みを入れられたか、北条の右腕の袖が腕章のような輪っかになり飛んで行った。
「バーナディル、おい、切られた! 切られてんだぞ! 動いてねえのに、刺されちまってんだよっ! 見ろ! 腕に刀が刺さってんだろうがっ!」
北条がしゃがみ込み、流血する右腕を抱えながら、しきりに訴えている。だが動く前に北条は傷口を広げられはしたが、あれの実際のダメージはと言うと、いくつかの細胞の結合がちぎれただけで、掠める以上に切れていた可能性は極めて薄い。人が感じていられる極限の痛みに近いものだとは思うが、北条が訴えるような約束違反ではないのだ。そのあとにこれでもかというほど切れてしまったようだが、景虎の言うとおり、切るに足る力を加えたのは北条自身。刺さっているのも腕の二本の骨のあいだで、それも北条が自ら腕を振り回したせいだった。
バーナディルは北条の訴えを冷然と黙殺することにして、未だ鼻骨の修復に手間取っている芙実乃のほうへとそっと目を逸らすのだった。




