Ep04-05-01
第五章 量子ビットの宇宙
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年度四月目第一週最終日の今日、タフィール・ポーラ・マルミニークは、訓練場に併設する休憩室の一角で人を待っていた。相手は他クラスの魔法担当官で、クシニダ・ハスターナという名の軍属の魔法少女。休日の補習に自クラスの生徒が参加する様子を見て回りがてら、このあと同道予定のあるクシニダの補習が終わるまで、ここで腰を落ち着けていたのだった。
クシニダとはまだ親密にまではなっていないから、補習終わりの彼女と話す機会を設けてもいいかな、と、意図的に巡回ルートを組み替えておいたのだ。もっとも、クシニダはそもそもが人との距離感を図るのが上手く、そんな場も必要ないくらい気まずくはなりにくい人だが、その奥底には冷酷な何かを潜ませている気がして、タフィールは少しだけ警戒を払っていた。
彼女はあろうことか、担任博士という、やや特殊な立場にある後輩のクラスの魔法担当官に収まってしまっている。しかも、彼女と組むバーナディルは忙しさにかまけてか、まだ一月そこらしか面識のないクシニダを、わりと信任してしまっているようなのだ。
年度初頭から何かとバーナディルの面倒を見るようになっていたタフィールとしては、クシニダに目を配らせないわけにもいかなくなっていた。
施設の退去時間が差し迫ると、タフィールは個室のしきいを内側からだけ透明化し、休憩室を見回した。入り口近くにあるここ以外に個室使用されているスペースはなく、生徒たちの姿も見当たらない。元々、居住区までの帰路の途中にあるわけでもなし、自クラスへの行き来か補習の中断時間くらいにしか生徒の立ち入らない休憩室だ。時間いっぱいまで補習に参加した生徒が寄ることはまずないし、タフィールが来た時からすでに誰もいなかった。
が、視線を戻した瞬間、しきいの外からこちらを窺う人影が突如現れたように見え、目を瞠るとともに、そんなにまで考え事に没頭していたのかと少々の焦りも生まれる。
背丈は自分と変わらないくらいだが、制服が魔法担当官のものとは違って生徒のもの。こちらを窺っている動機は、もしかすると、捜し人か何かがタフィールのいる個室スペースにいると思ってのことだろうか。信じ込んで待ち続けさせてしまうのもかわいそうだ、とタフィールは椅子とテーブルを残したまま、しきいのオブジェクトを全解除する。続いて声をかけようと視線を上げたところでようやく、立っていたのが見覚えのない人物であることに気づいた。
あり得ないことだ。
タフィールは脳加速補助を受けながらだが、在校生二万四千人ほどのプロフィールに、折に触れては目を通すようにしている。もちろん、その全員を記憶している、などとはとても言えたものではないが、見覚えもないなんて生徒に出くわした経験もいままではなかった。
それを、よりにもよってこんな生徒を覚えていないわけがない。
闇色なのに、純銀色のタフィールと同等の艶を纏う髪。目、鼻、唇、はそれぞれが極めて繊細な造形美を醸し出しているのに、対立せず見事に調和が取れている。種としての美を突き詰めた容姿ということで、性別は女性にしか見えない。男子生徒が主に着用するスラックスの制服姿ではあったが、そちらの制服を好んで着ている女生徒だっているにはいる。
学校が方針を変え、美を競わせる異世界人召喚に注力しても、目の前の人物がその頂に立つであろうことに疑いを挟む余地はなかった。
たぶん、プロフィールで顔を見かけただけでも、思わずすべての項目を丸暗記しなければ、気が済まなくなっているはずだ。したがって、この人物は少なくともこの学校に在籍している生徒ではない、という結論にタフィールは達した。
だとすれば侵入者しかない。と思いかけたものの、それこそ可能なのかとも思ってしまう。
「ええっと……」
タフィールはいつぐらいかぶりの困惑をした。
おそらくこの学校には、世界最高峰のセキュリティシステムが組まれている。こんなところにまで引っかからずに辿り着くことは到底不可能なはずだ。
その不可能が可能になる可能性と、タフィールがプロフィールを見落とした可能性だと、果たしてどちらに分があるのだろう。と思うくらいにはどちらも現実味がない。
タフィールは別の可能性を模索する。
そこで思い至ったのが、異能や固有魔法。
固有魔法の線は薄い気もするが、異能なら空間の法則を度外視するものがあってもおかしくない。敵性体、それの人の姿を模する敵性体とすれば、セキュリティなどお構いなしにどこに現れてもそれはそういうものだ。あるいは姿を変えるとか、幻覚を見せるとかなら、異能に限らず魔法でもやりようはあるかもしれない。もっと現実に即して考えれば、ただの整形だったなんてことでタフィールに見覚えがない生徒がいる説明はつく。美容整形は、生徒に支給されるポイントでは受けられないサービスだが、生徒が一般に流通する通貨を稼ぐ手段だってないわけではない。違法に手を染めずに稼ぐ手段だってそれなりにはあるのだ。
要は、空間に類する異能の場合だけ、セキュリティを突破した侵入者ということになろう。
とりあえずは、セキュリティが作動していないなら、在校生の可能性が高いということで、警備への通報はしないでおく。ただ、このまま放置するのもまずいと考え、タフィールは、目の前の人物とのコミュニケーションを図ることにした。
クシニダ用にと用意しておいた席への着席を手で促しながら、声をかけてみる。
「そこのあなた、少しお話をしていかない?」
目の前の人物は気負いなく雅やかに腰を下ろすと、苦笑交じりに言った。
「なるほど。わたしに心当たりがない、という口ぶりになるか」
「これでもねぇ、在校生の顔くらいは折に触れて覚えるようにしてるのよ。それでも大半は覚えきれてないのだけれど、さすがにあなたのような子を見忘れてるはずもないかな」
「ふむ。髪も短くなっておらぬし、出来事さえもなきことになっておる、か」
タフィールは首を傾げる。美人コンテストか何かで負けたほうが髪を切る風習でもあるのだろうか。対面に座る人物はタフィールを警戒していない、というわけでもなさそうだが、歯牙にかけるほどの戦闘力も持ち合わせていない、くらいの意識ではいるようだ。自分の身の振り方の思案はしていても、こちらをまずどうこうしよう、なんて殺気立ちが見られなかった。
確かに、オブジェクトで拘束しようにも、いざコンソールを出して侵入者認定されてないでは、タフィールにできることは何もない。そもそも、個室スペースのしきいを外してしまった時点で、どんなコンソール操作も間に合わなくなってしまっている。座らせてみたからといって、それは良くも悪くも、相手の動きを制限したことにもなってなかった。
相手は帯剣しているが、それを抜くまでもなくタフィールを無力化できてしまうのだ。
美しさのせいで過度に華奢に見えるが、この学校の史上最強たちのほうへ分類されるべき人種なのが、なんとなく感じられた。運動能力、戦闘能力はタフィールの比ではないだろう。
最悪死ぬことも覚悟すると、タフィールは開き直って会話に臨む。
「ところであなたはどなたかしら?」
「柿崎景虎。バーナディル・クル・マニキナが担当するクラスに籍を置く、菊井芙実乃のパートナーだ。そなたとも面識がある、と言っては尚更信じられぬこととなろうな、タフィール・ポーラ・マルミニーク殿?」
「そうねえ。よく調べたものだと思わなくもないけど、潜入者としてのあなたも、口実として出す名前も、人選ミスがはなはだしいと思うわぁ」
芙実乃のことは、パートナーの北条頼時の名と顔も含めて知っている。本来ならどちらとも名前まで覚えるほどの生徒ではないが、タフィールは彼女の召喚直後からバーナディルの相談に乗っているのだ。ただ、それだけならまだしも運が悪かったの範疇に収まらなくもなかったのだが、それよりも、バーナディルの生徒というのが致命的にまずかった。
彼女はただの担任博士などではなく、魔法分子理論の提唱者なのだ。公表されていないこの論文は、その執筆者名を知る者すら国内でも一握り。国外に至っては、魔法分子理論なる題名もまだ知られてはいないはずだ。前担任博士の亡命先の国を除けば、にはなるが、そんな人物の名をあっさり口にしてしまうセンスのなさ。柿崎景虎と名乗ったこの子は異世界人のようだし、指図した人間があまりにも愚かだったと思うよりない。
「潜入者、か。仮にそなたらに身を委ね、こちらが潜入するに足る用意が何もできておらぬことが詳らかとされても、わたしが解放されることはないのであろう?」
「どうかしらねえ。そもそもがこちらで見つけられる程度の物品を持ち込んでいるようなら、あなたはとっくに侵入者として掴まってるはずだし」
「異能、魔法をわたしの仕業と見ぬわけにもいかぬか。疑いを晴らす術なし、と、なれば、そなたにだけはわたしがここの在校生と思われるよう努めるとするかな」
「あらあらまあまあ、口説かれる宣言みたいでドキドキしちゃうわね」
そう軽口で返すものの、頬と首が熱を持ちだしたのが、はっきりと感じられる。普段から男子生徒をあしらっている経験から、咄嗟にこの応答が出てきて演じられもしたが、どうやら自分はこの柿崎景虎という性別不詳の侵入者に生まれて初めての感情を抱いてしまっているらしい。女性はもちろんのこと、男性にだって胸が高鳴るなんてことなかったのに。
タフィールの気持ちはそれでより、話を聞くほうへと傾いてしまう。
「わたしにはそなたとの面識があり、言葉を交わした覚えもある。忘れておるのはそなたのほうで、それはアニステア・オンディークなる女生徒の異能行使の因果と言えようか。ゆえに面識うんぬんの話では埒が明かぬことはわかりきったことではあった。しかし、面識もないのになぜそれが知れている、とそなたが思うであろう事柄をわたしは耳に入れられると思う」
「わたししか知るはずのない秘密の提示、ということかしらね」
異能の話になるなら、秘密を探る異能さえあれば、提示くらいはお手のもののはずで、それを話されることに意味はないに等しい。だが、秘密の内容次第では、異能以外にどんな手段で知り得たのか考える手がかりにはなるし、異能以外の真実相当性が高いとタフィールが思うようになる可能性も充分にありうる。
相手の微細な表情の変化も見逃さぬよう、タフィールは目と耳を澄ませた。
「わたしは月一戦の第二戦でピクスア・ミルドトックと対戦した。その交渉時に、わたしは彼への借りを返し、異能使用を禁ぜぬ項目に判を押した。ゆえに、対戦時に彼は妹、シュノア・シルキ・ミルドトックの異能――未来視を借用して戦うことができた。どうかな?」
タフィールは思わず息を詰まらせる。
事実にまるで即してない第二戦の話だが、兄妹の名や、異能持ちであること、さらにはその異能の特定ができた理由が、彼らからの情報提供の見返りだとすると、借りもまた頷けた。
何より、シュノア・シルキ・ミルドトックの異能の情報については、最重要確保指定の情報からしか閲覧できず、ほんの一握りの者にしか閲覧許可も出ない。現に、報告者のタフィールに通知されるはずの閲覧ログなどはまだ来た試しもなかった。また、仮にそちらを覗き見ることができたとしても、シュノアの名はおろか、タフィールのクラスの生徒とすら記述されてはいないのだ。当然、シュノア側の個人プロフィールに、未来視の記載はしてもいない。ここを紐づけられるなど、それこそ秘密を探る異能でもなければ不可能だった。
それに秘密を探る異能がどこまで可能なのかという問題も併せて考えれば、景虎の言い分の妥当性のほうに分があるようにも思えてしまう。未来視だけならシュノア、ピクスアの両名から聞いたとすれば、紐づけのほうの不思議はなくなるが、シュノアの未来視をピクスアが扱える可能性については、その両名にさえまだ教えていないことなのだ。
彼らは現在、隔離教育生として、そちらの寮暮らしをしている。セレモニーでバダバダルと対戦後、登校日初日から教室に顔を出さず部屋に閉じこもったため、バダバダルもいるクラスから離して過ごさせることを決めたのだ。ピクスアは月一戦も、初戦のバダバダルとの再戦はもちろん、終了している弾三戦まで、全部に不参加の不戦敗だった。そのため、魔導門装を通じてパートナーの異能を使用できる可能性があることも、まだ伝えてはいなかった。
だから景虎は、ピクスアが月一戦への参加意欲を見せればその時に話そう、というタフィールの腹案でしかないことを言い当てたようなものだ。逆に、タフィールが彼を忘れているという超常的な話がでまかせだったとしたら、この国のセキュリティや情報保持を簡単に崩せる、ということを、単に異世界人学校を歩き回るなんてことで無駄に露見させるだろうか。
否だ。仮に景虎が馬鹿な上司に従わざるを得ない状況にあるのだとしても、その上司に気づかせずに操り返すくらいの芸当ができるに違いない。少なくとも、こんなところでこんな窮地に陥りかねない状況に、己が身を投じるようなおめでたさは持ち合わせていないだろう。
「確かに、もう少し詳しく話を聞こうかなって気にはなってきたわ」
「できれば、それには我が担任殿にも同席してもらいたいのだが?」
「さすがにそこまではおいそれとはねえ。せめてもうちょっと、余所の国から送り込まれたわけじゃないって信じさせてほしいかな」
「致し方なし……か。ただ、立ち聞きの対策くらいはしてもらいたいものだ。先程から入り口の陰で立ち止まった者に聞かれておるからな」
「あー、それ、たぶんわたしの待ち合わせ相手だと思う。わたしからすると、逆に立ち会わせたいくらいなんだけど、そこまではだめかしら?」
「かまわぬぞ」
「あら即答? 話を聞かれる人間は限定したいのよね?」
「ああ。だがそなたがこのような時間にここで待ち合わせる相手、とあらば、たとえ見当を外しておっても、正体が知れておったほうがよい」
なるほど、とタフィールは思う。景虎がバーナディルクラスの生徒と主張するからには、ここに来そうな人物に心当たりがないほうがおかしい。同意を得たタフィールが通路へ呼びかけると、その心当たりの彼女――クシニダ・ハスターナが入り口から顔を覗かせた。




