Ep04-04-07
7
ほとんどの人間がまだ起きてもいない早朝、芙実乃は朝食に北条を呼びつけていた。
それはもちろん隔離寮内の自室に北条をおびき寄せるための口実で、芙実乃自身は誘った時には朝食など前倒しにして食べ終えてもいた。なぜ朝食なのかと言えば、魔法が完成したのが深夜だったことと、本気で朝食を一緒に取ると北条が思ったとしたら、向こうだけが食事抜きで戦わなければならなくなるからだ。些細な要素だとは思うが、普通に睡眠と食事を済ませた相手を呼ぶよりは良い。それに対し、芙実乃の食事には空腹と眠気を抑制するサプリが調合されている。仮に一日中戦うようなことにでもなれば、集中力を切らすのは向こうだけだ。
ナビの通知が、部屋前まで北条が来訪したと告げる。
忌々しいことに、芙実乃がパートナーとの常時面会を許諾にしたからか、関係のない生徒が入れないはずの隔離寮に北条も難なく入り込めたようだ。マチュピッチュから芙実乃を引き剥がした時のアーズも、そんなふうに授業終わりにでも様子を見に来ていたのだろう。
芙実乃はナビを操作して、北条を部屋に招き入れる。と同時に、奴の隔離寮のほうへの立ち入り許可は取り下げておく。これなら、逃げようとしても奴は芙実乃の部屋から出られない。
少しでも油断することを期待し、芙実乃は部屋の中央にオブジェクトのテーブルを作ると、顔を伏せがちに座って、北条が対面に座るのを待っているように装ってみた。素直に向こう側へ北条が座るかはわからないが、考えられるパターンはすべて対策済みだ。
案の定、北条は対面の椅子オブジェクトを素通りし、こちら側へ近づこうとした。
しかし、光的加工を一切行わない、空気同然にしか見えない、部屋を半分で仕切るオブジェクトの壁に阻まれて、それ以上は進めなくなる。芙実乃は手際よく、用意していた一メートル四方のオブジェクトの箱――これも空気同然の透明――に、北条を閉じ込めた。
この中に魔法を撃ち込められれば話は簡単なのだが、オブジェクトのしきいは要は重力の調整で、端的に言うと空間の歪みなのだ。内と外で正常に物が見えているのは、屈折した光も、オブジェクト生成時に元の角度に進むよう調整し直されているからに過ぎない。複雑な重力の分散込みの空間指定ができなければ、魔法を使おうとしても頭に疑問符が浮くだけだ。それも検証済みの芙実乃は、ナビの許す範囲の機能を使って、北条へと攻撃を加えることにした。
まずは、セレモニーの日にタフィールから聞いた覚えのある、水死狙い。だが、その事件を受けての対策がすでに取られているようで、水位は北条の首で止まってしまった。あの件は、芙実乃が召喚される前に起きた出来事であろうから、北条が召喚されたここの世界の過去とも合致している。それさえなければ、戦闘などしなくても片がついたのに。
オブジェクトに閉じ込められていても、酸欠死するはずもないし、腹立ちまぎれに、芙実乃はコンソール操作をしながら、聞えよがしにつぶやいておく。
「あとはこの水を煮立ってくるまで熱する、と」
「テメェ、芙実乃!」
と、北条は怒り心頭ではあるが、どうせこれも適温で止まってしまうのだろう。水位が北条の首で止まったということは、簡易的にでも人感センサーのようなものが作動するように設定され直してあるのだ。それでも、ひたすら適温の湯に浸していれば、足腰が立たなくなるまでのぼせさせるくらいはできるかも、と思いきや、北条の体温上昇に合わせて、水温を下げる旨の通知がコンソールに表示される。
芙実乃は内心で舌打ちした。
それでも、数時間に渡って、立たせたままお湯か水に浸し続けて放置していれば、それなりには疲労させられる目もあるのだろうか。芙実乃の部屋で芙実乃を保護するための措置なのだから、北条が突然解放されることはないと思うが、この分だと、拘束されている北条の身体のケアとしての、サプリ的な入浴剤の混入などをされる可能性は否めない。
餓死するまで待とうとすれば、それはさすがにバーナディルの介入を招くはず。それに、ここの技術でより健康になった北条が餓死するのに、何週間かかるか知れたものじゃない。
芙実乃は、覚悟を決めるしかなかった。
もたもたしていたら、ひたすら北条を湯に浸けていたこの五分までもが無駄になる。まだわずかにふらつかせているかもしれないいまのうちに、どこかの重要部位に一撃を入れて大火傷をさせておきたい。おそらく、それが一ヶ所あるかないで、戦闘の難易度に雲泥の差が出る。
芙実乃は、目つぶしの魔法の準備を整え、およそ四歩分、北条と距離を取った。これは北条が詰めて来るとしても、二歩以上かかる距離だ。これなら、芙実乃の魔法のほうが確実に早く撃ち出せているはず。
部屋のオブジェクトを全解除すると、途端に北条が飛び掛かるように芙実乃のほうへ向かって、拳を振り上げてくる。その時になってやっと、芙実乃は目つぶしの魔法を撃ち出せた。一つ一つの挙動の速さに、それだけの差があるということだが、間に合うには間に合った。距離を取ったのも正解だったが、床にお湯が広がったため、北条も突進を加減したのだろう。
しかも、それがちょうど良くも、引きつけるだけ引きつけたように北条に直撃する。
止まり、閉じた目を、振り上げていた腕を含む両腕で拭いだす北条。近い。この隙を突け。芙実乃は自分を鼓舞し、指先十センチに熱電気の魔法を光らせ、一歩の距離を詰めに行く。
だが、戦闘力を奪う最優先の標的だった右腕は、相手の目の高さまで持ち上げられていて、指を突き上げる動作だけでは掠められる程度だ。芙実乃は自分の目の高さで、替わりの標的を探す。すると、両腕を上げていることでおあつらえ向きにがら空きな、北条の胸部が目の前にあった。右腕。自分が右腕を突き出せば、それは相手の左胸、即ち心臓を貫ける。
それが、いみじくも最短、最速で届く攻撃にもなっているのだ。
一瞬ではほんのわずかな量でしかないが、それでも瞬時に鉄をも溶かす温度に達しているであろう熱電気。そんな温度の粒が、心臓に達したならどうだ。治せないほどの火傷になるのは自明なのだから、もしかすると心臓を止めるほどの結果をもたらしてくれるかもしれない。
その希望に己を奮い立たせ、芙実乃は射程を合わせるため、半身を相手の懐へと入れた。
指の先十センチにある熱電気の光が、北条の左胸を刺し貫く。
その直前。
振り下ろされていた北条の左拳が、芙実乃の右腕を直下へと叩き落した。
想定外の速い動きに集中が途切れ、魔法の光も立ち消える。しかしそれを茫然と見つめるような間などないくらいの続けざまに、衝撃が芙実乃の左頬に激突していた。
浮遊し、落下した床の先へ投げ出される芙実乃の身体。
たぶん、あまりの痛みに痛みを感じていない。普通なら気絶しているところだが、遺伝子調整までされた健康体であるがゆえに意識はかろうじて保たれている。知覚できるのはコーン粒のようなものが数粒転がっている口の中の触感くらい。だがそのごろごろとした塊も、口内で急速に溢れだした鉄臭い液体が喉に流れ込んで来ると、噎せて吐き出されてしまう。
白い床の上。お湯の水たまりに血の赤が薄く溶けてゆく中に転がっている白い欠片は、形状からして芙実乃の歯でしかありえなかった。
なんだ? 車にでも轢かれたのか。
泥のような意識の中で、ようやく現状の認識へと脳が働きだすが、その意識のほうだけを覚醒させるがごとき痛みが腹部を突き抜ける。容赦など一切ない蹴りを腹に喰らったのだった。
「ぐぇっ!」
芙実乃の胃の内容物が一瞬で口の外へと押し出され、カエルのような呻き声になる。
「はっ。ははっ。ほいっと、ふひぃぃ」
それを嗤い、嘲る響きの笑声にも似たかけ声をいちいち発しながら、北条は止むことのない蹴りを芙実乃に繰り出し続けた。
まるで太い鉄の杭で打たれたような痛みが、顔、頭、腕、脚から内臓を抉るように浸透してくる。だが芙実乃には、いつの間にか亀のように蹲って頭を抱えるくらいしか抗う術はない。
「ぎっ! ぐっ! ひっ! ぎぃぃぃ!」
知らず、痛みと恐怖で上がる悲鳴。
その声を楽しむかのように、北条の蹴りも止むことがない。
「どうした、おら。魔法は撃ち止めか?」
絶え間ない痛みの中で不意に、芙実乃は疑問とその答えに辿り着いた。
攻撃を阻止された原因。目つぶしを受けていたはずの北条が、なぜ正確に芙実乃の攻撃を打ち落とせたのか。それは、あの瞬間には北条の視界が晴れていたからに他ならない。
芙実乃は、自らの行使する魔法の目つぶしが、あくまでも魔法なのだということを失念し、黄砂を再現できていると思い込んでしまっていた。違う。全然違う。実物の黄砂が目に入ったなら、目を擦り、涙で洗い流されるまで目は開けられたものではない。
しかし、魔法で再現された黄砂というのは、魔法の効果時間が切れれば、そこで綺麗さっぱりと、目の中から跡形もなく消え失せてしまう。咄嗟に視力の回復を図った北条だったが、その直後にも目の中から異物感が消えていると気づき、腕と腕の隙間から見える範囲の確認を済ませると、芙実乃が自分の心臓を目がけて攻撃を仕掛けている光景が見えていたわけだ。
おそらく、北条からすればそれはセオリー通りの攻撃でしかなく、対処も容易だった。折よく直上に持って来ていた左腕を、最短で振り下ろすだけで熱電気の粒にも触れずに済む。
芙実乃が初志貫徹の腕狙いで腕を上げていたら、もしかすると振り払い損ね、どこかに掠めることができていたかもしれないが、芙実乃はこれで終われると決着を急いでしまったのだ。
これこそ、生兵法というやつだろう。
素人としてわけのわからないことに固執してれば良かったのに、戦闘の超初心者として振る舞ってしまった。この学校の史上最強たちの中では下位も下位な北条やピクスアだって、当代で類を見ないトップアスリートレベルの運動能力、戦闘技術の持ち主だ。景虎の戦い方がいくら目に焼きついているからといって、戦闘の感覚が超初心者の芙実乃が真似ても、戦闘上級者の彼らからすれば、呼吸、間、タイミングの取り方がてんでド素人。高校野球の強豪校と文化部からの助っ人多数の弱小校野球部の対戦と同じように、餌食にし放題に決まっていた。
目つぶしの魔法も、景虎が使ったなら充分な時間の隙を作れたことになっていたはずだが、芙実乃が攻撃の機会を得るためにはとても足りたものではない。クシニダのアドバイス不足は多少あるかもしれないが、この魔法でも、芙実乃が逃げたり籠城する隙くらいなら作れただろうし、非難はお門違いだろう。そもそも、クシニダは対小型敵性体特化の人だ。効果時間だけを伸ばさなければいけないというのは、芙実乃が気づかなければならなかった。
それこそ骨の髄まで蹴りの痛みを刻み込まれた芙実乃は、蹴りが止んでも、むしろより固く縮こまろうとする身体を抑えられない。心がこの敗北を覆すことを諦めてしまっているのだ。
が――。
「俺に敵わないってわかったんなら、仰向けて股を開きな。ま、そのまま尻をこっちに向けてもかまわねえがよ。お前が自分からそうするまで、少しだけ待ってやらあ。ただし、あまり待たせるようなら、今度はいまの倍の力で倍の時間蹴りを喰らうことになるぜ」
その言葉を聞いて、芙実乃は諦めるなどという甘えが、この男には通用しないのを悟った。
それに、こんな男にはほんの少しも甘えたくはない。こんな男からの赦しなんて欲しくもない。こんな男から何か一つ受け取らなければならないものがあるのだとしても、それなら暴力でかまわない。言葉すらいらない。そんな耳障りなもの、痛みよりも記憶に留めたくない。
だって芙実乃は、この男の何もかもをこの世から消し去ってしまいたいだけなのだから。
それだけは諦めるわけにはいかない。
しかし、痛みと恐怖で身体が動いてはくれなかった。
いや。違う。身体ではない。心だ。ただ痛いというだけのことに屈している本能寄りの感情が、芙実乃の身体をどうしようもなく蹲らせたがっている。勝てないから。痛い思いをするだけだから。そんな声で、怯えている本能に理性が薪をくべる。
だから、芙実乃は景虎のことを想った。
感情を景虎で満たし、理性と本能に翻意を促す。だがまだ、本能から怯えは消えない。理性もまだ、微かにだが囁くのを止めてくれない。それでも、己の意志で小さな手をきゅっと握り締められるくらいには、身体の自由を取り戻せた。
だったら問題など何もない。芙実乃はもう、身体を自由に動かせない病人ではなくなった。自分の意志で自分の身体を動かせるようになっているではないか。ならば。
動かせる身体さえあれば、蹲った心などいくらでも引き摺り倒して進んで行けるのだ。
力を入れると痛みが奔る身体を、芙実乃はよろよろと起き上がらせた。
同様に痛む腕をぶるぶると振るわせながら突き出すと、指先に光を灯しながら、声を絞り出す。それは、この男の魂が聞き捨てにすることだけはないとわかっている言葉。
「どこからでもかかってこい」
もちろん、反撃しないから好きなだけ攻撃してみてごらん、なんて横綱相撲をするつもりはない。格下相手にそう匂わせておいて、騙し討ちのような返り討ちにする腹づもりでもない。北条を格上の相手だときちんと認識した上で、屈しない意志を顕しただけのただの強がり。
熱電気の魔法を見せてしまっているのだってその顕れだ。戦闘に不向きで不慣れな芙実乃では、敵の隙を見つけて、どころか、適切なタイミングで魔法を出して当てにゆくのにも無理がある。不格好でも、最大の武器を見せて牽制しながらでなければ、戦いにすらならない。
それが功を奏したようで、
「まだまだ蹴りのほうがぶち込まれ足りないようだなぁ、芙実乃ぉ」
と、声に怒気を滲ませつつも、北条はかかってなど来なかった。この光が、ただの火などよりよほど高温で触れてはいけないものだと、早くも気づいているのだろう。見失うわけにはいかないとばかりに、眩しさに目を細めながらも、しっかりと光を見据えている。
ただ残念なことに、転生時に健康にしてもらった身体だと、この光を見続けても目に光が残るくらいで、やがて失明するまでには至らないのだ。膠着していればしているだけ、直視している北条のほうが目にダメージを負うものの、それで芙実乃が優位に立てるわけでもない。
だがその膠着に先に焦れたのは北条のほうらしく、後ろや横に回り込もうと、芙実乃を中心に時計回りで歩きだした。時計の針のごとく、芙実乃は北条に指先を向け続ける。
次第に速まってゆく回転。北条が螺旋状に半径を縮めているからだ。だから芙実乃が速く回らなければならなくなる。それも間に合わなくなり腕を右に開きだした瞬間、北条は踵を返して左から右拳を振り抜きにきた。追って左に向けようとした熱電気の光は、腕の速さについていけずに消失。しかも、自身の身体が邪魔をして、芙実乃の右腕は左横までは回らない。
同じ箇所を殴られて、再び転倒する。
そこで蹴られても、残る右側だけの歯で食いしばって耐え指先に光を灯し、彷徨わせると、動きを読めないと判断したか、北条の足音が一旦遠ざかった。その一瞬できた猶予で、芙実乃は自分の意志により籠城のオブジェクトを起動。追撃を防ぎつつしきいを展開し、解除した籠城の中から抜け出すと、よろよろと距離を取って指先を光らせ、しきいを解除する。
この光は飛ばせないと確信したのか、北条は真っ直ぐ距離を詰めに来た。芙実乃は魔法を目つぶしに切り替え、迫り来る北条へと撃ち出す。役立たずの魔法だが、ほんのわずかでも目を閉じさせられるのなら、そのあいだに脚にしがみつく一助くらいにはしてやる。そこまでこぎつければ、残りの手足からの滅多打ちに遭ってもかまわない。その痛みに耐えながら、脛だろうがふくらはぎだろうが、熱電気の魔法をせめて一刺しだけでもこぎつけてやる。
目つぶしは北条に直撃。と言うより奴のほうから突っ込んで来る。違和感を覚えつつも、すでに足を取りに行こうと身を屈めかけた芙実乃の眼前には、想定よりも迫っていた北条の膝。
目つぶしの魔法など、正面から直撃したとしても、所詮ゴムボール状に固めた空洞の砂糖細工程度の威力しかない。ならば、と、最初から目を瞑って自ら当たりに行けば、一瞬の目の異物感さえも感じず、走る勢いもそのままに凌げてしまう。
そんな、助走をつけた膝蹴りが芙実乃の顔面に直撃した。
顔の中心からの亀裂音が両耳を震わす。行こうとした向きの正反対にふっ飛ばされるほどの衝撃を喰らい、鼻骨と頬骨が砕けてしまったのだ。滝のように流れ出た鼻血が服の前面を真っ赤に染めた。だが芙実乃は理解を超えた痛みを認識することなく籠城、しきいと展開し、なおも立ち上がろうとする。
しかし、激しく痙攣しだした腕や脚は、バランス感覚の悪い芙実乃をすんなりとは立たせてくれない。北条からの嘲笑と服従を強要する罵声を背中に浴びせられながら、芙実乃は自らの血液で滑りを良くした床の上でもんどりを打ち続ける。
そんなさなかに、芙実乃が向いていた側の壁の一部が、突如として開放された。
無断で部屋に入るなんて真似ができるバーナディルの仕業か、と、芙実乃はタイムリミットを観念しきらず穿たれた扉部分を睨みつける。足元しか見えない低い視界に四本の脚。そのうちの二本の脚の佇まいに芙実乃は吸い寄せられるように釘付けとなり、どこからともなく溢れ出した気力で、視線を知らぬ間に跳ね上げていた。
そこには。
「景虎くん!」
誰に見間違えようはずもない、柿崎景虎その人の姿があったのだった。




