Ep04-04-05
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補助参戦室ではない、試合場へとすぐに出られる選手控え室のほうでしばらく強制安置されていた芙実乃は、その後、エレベータのようなオブジェクトの箱に乗せられて、隔離寮の入り口まで移送されてきた。
同乗してきたバーナディルの部屋まで着いて来そうなそぶりを見て、まだ説教があるのかと投げやりに訊くと、思い止まったようにその場に残って芙実乃を見送っていた。
とぼとぼ歩く帰路の途中。下のほうばかり見てはいても、一応は前を向いて歩いていたというのに、右の眼球を何か針のようなものに貫かれているのに気づいた。
「ひっ!」
あまりにも異常な光景に思わず横に飛び退き、その拍子に尻もちをつく芙実乃。
しかし本当に目に針が刺さっていたのなら、その動作で眼球の半分にざっくり切れ目が入っていてもおかしくないところだ。わけもわからず目を押さえるが痛みもないし、遠くの模様か何かを見間違えでもしたのだろうかと、隠してない左目の視線が通路の先の壁へと向いた。
確かに、どの区画に通じるのかを示す文字表記は正面岐路の壁に貼り付いている。が、本当におかしいこの事態の原因と思しき点は、そこに至るまでの通路のほうにこそあった。
ふにゃふにゃした線が、そよぎもせずに空中に固定されて浮いている。芙実乃が刺さったと思った針もそれらしく、目の表面からその線が直接伸びて見えたからのようだった。芙実乃はその風変わりな線の正体がなんなのかに気づくと、狂おしいほどの人恋しさに唐突に駆られ、線が伸びてゆくほうへと導かれるように足が勝手に走りだしてしまう。
その先で魔法の練習場らしきやや広い部屋に行き着くと、透けた湖のような水色の髪を背に波打たせている後姿を見つけた。瞬間滂沱と溢れる涙で視界が豪雨の中の車のようになるも、芙実乃は鼻声で叫びながら突進し、後ろからその腰に組みついた。
「マヂュビッヂュぢゃぁんんん!」
「チュ、チューーー!」
驚きの悲鳴が上がる。
だが、衝動の赴くがまましがみついている芙実乃の頭は端的に言えば夢中で、他の誰の言語であっても翻訳の恩恵には与れなかっただろう。
「チュピピピピピピ」
慌てふためきながら逃げようとするマチュピッチュに引き摺られていると、突然呼吸が困難になり、身体が宙に浮いた。
「どういう状況だ、これ?」
背後から男の声がするも、芙実乃の肺には急激に酸素が入って来なくなっていて、声の意味やその主を察するどころではなく、意識までもが次第に朦朧としてきていた。涙目の向こう側でマチュピッチュが振り向くのが、かろうじて認識できるくらいだ。
そのマチュピッチュの腕が、勢い良く、芙実乃の顔の横を通り抜けた。
ボカッ。ドサリ。
「うーわ、殴んなよ。お前さ、そうやってバダバダルなんかに殴り掛かりやがるから、こっちにまた戻らされてるんだってわかってる? 手ぇ出るお前が悪いって処遇なんだぜ」
説教めいた男の声を完全に無視して、マチュピッチュは落っことされて噎せている芙実乃を保護してくれた。芙実乃はマチュピッチュの膝に蹲るようにして号泣する。
「マヂュビッヂュぢゃぁんんん!」
「チュピィ、チュピィ」
あやすように声をかけながら、マチュピッチュは泣きじゃくる芙実乃の頭をずっと撫でつけていてくれる。
「なんだ友達だったのかよ。わりいな。引っぺがすのに吊り下げちまって。単にじゃれついてただけだなんて思わんかったわ」
改めて聞こえれば、ここにいてもおかしくはない男の声。マチュピッチュの腿に顔を埋める芙実乃の上から降って来る、芙実乃の首根っこを摘まみ上げ、窒息寸前にした犯人の声は、どうやらアーズのものであるらしい。
「ピィィ……」
怒りを孕んだマチュピッチュ語で短く返すマチュピッチュ。こちらの世界でもアーズは相変わらずマチュピッチュを軽んじ、懐かれていないようだった。元の世界のように芙実乃やルシエラと遊べていないマチュピッチュだと、水に流すような気分になることもないまま、アーズへの好感度を下げ続けてしまっているのだろう。元の世界でのマチュピッチュは、アーズへの怒りを表明してはいたものの、険の混じるような声の出し方はしていなかったのに。
そのうちに、泣き止んできた芙実乃は等身大人形のごとく、マチュピッチュに抱きかかえられだしていた。必然的に見上げるかたちになるアーズの顔を観察してみるが、予想に違わず芙実乃とは初顔合わせといった面持ちをしている。
その顔を見た芙実乃は、度々味わってきた諦念に倦んで、世捨て人のようなため息をつかざるを得なくなった。
「あからさまに機嫌損ねてんな。悪かったって言ってんだろ。詫びになんか一つくらい言うこと聞いてやるから、機嫌直せって」
「じゃあ、ちょっと、北条頼時とかいう男を殺して、脳が原型を留めなくなるまでぺちゃんこにしてきてください」
「なんだ、お前。悪魔の女児かなんかなのかよっ」
冗談めかし、お笑いのツッコミのような息づかいで言ってきたものの、芙実乃に冗談のつもりなど微塵もないと察せられてきたのか、猟奇的なものを見たかのように頬をひくつかせた。
「これが物本の隔離寮生かよ。さすがってくらいやべえ思想に憑りつかれてやがる。お前さ、こんな危ない女児とつるんでたら、あっちゅー間に毒されちまうんじゃねえの?」
「ピピィー」
口を尖らせたような声で応じるマチュピッチュ。アーズは伝えたい気持ちがそんなにないまま話す。おそらく、わかってもわからなくてもいいという、ダメもとみたいな心構えをしながら話しているのだ。それでいて露悪的な物言いをするものだから、マチュピッチュには芙実乃や自分が悪く言われているようにしか伝わらなくなる。そもそも、アーズがマチュピッチュを侮っているのが全面的に悪い。
「アーズさんには、心からの心配事を誤解されないよう話そう、みたいな真摯さが足りてませんよね。ちゃんとすれば、マチュピッチュちゃんは誰が話すこともちゃんと全部わかるのに。そんなだからどんどん嫌われちゃうんですよ」
「俺、マチュピッチュに嫌われてんの?」
「わりとそばにいるだけで気分がささくれるくらいにはなってますね。もう手遅れでしょう」
「これでも、随分と骨を折ってやってるつもりなんだけどなぁ」
「マチュピッチュちゃんが不要だと思ってる手助けを、説明や心配してるって気持ちを伝えないまましても意味ないですよ。アーズさんの行いはすべて自分を想ってのことってマチュピッチュちゃんに思われてないんですもん。逆に、ここまでしてるのにここまで信頼されないかって思っていいほど、アーズさんはマチュピッチュちゃんのために何かしてあげましたか?」
「そう言われちまうと、そりゃあそこまでのことはしてねえわな」
「チュピィ、チュピィ」
と、芙実乃はマチュピッチュに頭を撫でられた。マチュピッチュの両腕は芙実乃のお腹に回されているから、実際には頬擦りでもされているのかもしれない。話が通じると思われていることがよほど嬉しかったのだろう。芙実乃が思うに、同世界人のアーズにまで話が通じない扱いを受けているせいで、クラスメイトやらも自然とそう思い込み、ちゃんとマチュピッチュと話そうと思う人が現れないままなのではないか。景虎はもちろん、芙実乃やルシエラとも知り合っておらず、まともな話し相手を見つけられないまま孤立を深めていたのだ。バダバダルに殴り掛かったというのも、ストレスが飽和したからという感じがしてならなかった。
アーズがバツが悪そうに頭を掻き、芙実乃の目を見て話してくる。
「あー、その、なんだ、事情も聞かずに茶化しちまって悪かった。反省してる。だから、込み入ったもんがあんなら、今度はちゃんと聞くぜ?」
芙実乃はアーズの顔をじっと見上げる。
「…………アーズさんはいま全勝ですか?」
「ああ、そうだ。って言ってもまだ四勝しかしてねえからな。だけどまあ、上のほうの四分の一には入ってるんだろうし、その程度には頼れるんじゃねえか?」
四戦全勝なら四千人中の上位十六分の一になるはずだが、アーズは足し算っぽく勘違いしているようだ。しかし、やや会話を切り上げたかった芙実乃は間違いを指摘せず確認を続けた。
「魔法はどうしてるんです? 使えないのに、無傷の四連勝なわけですよね?」
「いや、無傷とはいかなかったな。交渉なしで三戦目に行ったらよ、一方的に魔法攻撃をやられちまって、そこそこ痛い目見ちまった。なもんで、四戦目は魔法禁止にさせてもらったわ」
芙実乃は再びため息をついた。藁にも縋るような期待も外れ。
支給されるポイントが減額されないように、というのがアーズの方針だったはずだが、実際に魔法をぶつけられて心境に変化が起きたのだろう。魔法を禁止にしなければ、怪我や死亡のリスクが格段に高まる。それに、勝利を惜しく思いだしたというのもあり得ない話ではない。
だとしたら、景虎に負けて三勝一敗でいる世界に魅力など感じてくれるはずもなかった。
全敗で負けが込んでいたピクスアとは状況が違うのだ。
また、そのピクスアとて北条にトドメを刺すのを止めた。いま思えば、試合が決着した時点で防御力場が展開されていたのかもしれないが、ピクスアが芙実乃のレベルで無我夢中であったなら、後先考えずにあの駄目押しの剣くらいは振りきらせていたに違いない。
芙実乃の言動の信憑性がそれなりに高い、と理解したはずのピクスアですらそれだ。
心を入れ替えたとは言ってるが、世界改変の論拠をろくに提示できないアーズが相手だと、せいぜい半信半疑に持って行けるかどうかといったところだろう。ピクスア以上に本気になって、芙実乃を助けてくれるとは到底思えない。半信半疑なのに、利益度外視で犯罪行為の片棒を担いでくれるほど、芙実乃の知るアーズという人物は遵法精神が壊れてなかった。
結局のところ、景虎の存在が刻み込まれているアーズなら、芙実乃にとっても信用に足る相手になりうるのだが、景虎の存在を知りもしないアーズだと、なんの信用も保証もない相手に成り下がってしまうのだ。犯罪計画を明かすことさえ憚られた。
そんなことは端からわかっていたからこそ、世界がこんななりになってからも、仲間と呼べる人たちを訊ねようともしなかった芙実乃なのだ。しかし、そんな現実を改めて突きつけられると、元々萎れていた気分が、一層萎れてきてしまう。
諦念が芙実乃に肩を落とさせる。が、マチュピッチュに抱っこされている背中が暖かだったからかもしれない。気づけば、止めようもなく涙がぽろぽろと零れていた。
「おおぅ、情緒不安定だなぁ……」
「ピ、ピィィィ」
アーズの思わずの軽口に、怒りを込めて非難するマチュピッチュ。そこまでアーズが悪いわけではないのだが、マチュピッチュにはアーズと会話を重ねるにつれ芙実乃が失意を募らせていくのが伝わってしまうのだ。それでいてアーズの話す内容はほぼ汲み取れないものだから、アーズが自分で泣かせた芙実乃に追い打ちをかけているように見えてしまう。
マチュピッチュは、芙実乃を大きめの人形のように抱えながら、立ち上がってアーズに背を向けた。そのまま歩きだしたのは、おそらく芙実乃を自室へ連れ帰るつもりだからだ。ちみっちゃいとはいえ四十キロ近い重みのある芙実乃を運んでるわりに、マチュピッチュはよろけたりもしない。子供のころから遠くの川に水汲みに行くなどしていたらしく、見た目はたおやかな美少女でも、マチュピッチュはそう非力でもない。
「悪かったって。ほんとに、なんかあったら遠慮なく言ってきていいからな」
と、その場に残されたアーズが声を張っていたが、振り返ってまで返事する気力が芙実乃にはなかった。手足をだらんとさせ、おとなしくマチュピッチュの部屋に連れ込まれる。
弟妹の世話でもしてたことがあるのか、マチュピッチュは手際よく芙実乃をシャワーで洗ってくれたりもした。どうやら、部屋のどのへんにいれば何ができるとかは把握してるらしく、ナビのサポートレベルも高く設定されているようだ。食欲が湧かず、また必要もないから、食事は首を振って食べない意思を示したが、マチュピッチュは就寝の時間になってもこうして芙実乃を抱きかかえてくれている。
マチュピッチュだって、ずっと寂しかったのだ。人の温もりを感じながら、芙実乃はこの世界のルシエラを想った。ルシエラは、まだ真っ白なままの部屋で、ただ床に転がって寝ているのだろうか。マチュピッチュ然り、ルシエラだってこの世界で楽しく過ごせているとはとても思えない。景虎や芙実乃と過ごした記憶すらなく、孤独な日々を送っているのだろう。
奮え、と念じ、芙実乃は眠っているマチュピッチュの腕の中から抜け出した。
マチュピッチュの孤独を癒すためだなんて口実に逃げ込んではいけない。本当の意味で二人を安寧に過ごさせたいのなら、芙実乃はここにいるべきではないのだ。そうでなくするための行動を取れるのは、この世界には芙実乃しかいないのだから。温もりにも匂いにも離れがたいものがあったが、芙実乃は静かにマチュピッチュの部屋をあとにした。
だが自室への道すがら、芙実乃は知らず声を上げて泣きじゃくっていたのだった。




