Ep04-03-05
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もの言いたげなバーナディルの介添えを受けつつ、芙実乃は教室へと向かっていた。
朝方、不覚にも号泣していて、気づけばバーナディルに背を撫でられていたことから、こういった次第になったのだ。
バーナディルを遠ざけておきたい芙実乃としては、介添えなど再三に渡ってお断りをした。優しい気持ちで心配してくれているとわかるから心苦しかったが、世界を元に戻すという目的のある芙実乃からすれば、泣いたくらいで部屋にまで勝手に上がり込まれる現状は、何がなんでも変えておきたい。なんて決意のもと、普通に登校する普通の生徒なのだとアピールしてみたものの、バーナディルからは生温かな眼差しを返されるばかりだった。
バーナディルにとって芙実乃はもう、まともな精神状態を保ってない生徒として扱うしかないらしい。登校間際まで続いた憐れみの目や奥歯にものの挟まった宥め声の攻勢を、寄せ付けないでいられるほどの理路整然さは芙実乃にはなかった。世界を元に戻すということは、この世界の人にとっての世界改変に他ならず、そんな目的を胸に秘する芙実乃は、悪いとは思っていなくても、一抹の後ろ暗さくらいは抱えずにはいられないのだ。
いたたまれない道行きを終えて、ようやく教室へと到着する。芙実乃に続くバーナディルを見つけると、立ち話をしていた何名かのクラスメイトたちが、思い思いの席に向かいだした。
世界が変わる前の日常では、教卓前が景虎と芙実乃の指定席で、そこを取り囲むように女生徒たちが陣取り、端の席を男子生徒たちが埋めるというのが見慣れた光景だった。しかし、いまのクラスでは、端寄りの席の密度が高いのは同じでも、たぶんパートナー同士の男女で並んでいる姿が目につくし、教卓に近い中央のエリアには誰も寄り着いていない。また、端を占められなかった者たちは、適度に間隔を空け合うように中間の場所にまばらに着席していた。
全員の顔を見知ってはいたが、ここがもう、見知らぬクラスなのだと思い知らされる。
芙実乃は歯を食いしばり、気後れする身体を教卓前の席に進ませた。こういう配置のクラスだと、そこは景虎がいなくてもとても目立つ席になってしまうが、大抵の者はペア席を一つ飛ばしで席を埋めているために、誰かと隣り合わないで済む席がぱっとは見当たらないのだ。ただ、教卓前に実際に座ってみても思ったほどには視線が集まってはこない。
それだけで、芙実乃は自身がクラスで空気のように扱われていることを察した。
考えてみれば、教卓前の席というのは、教師の監視の目が外れることのない席、という意味合いが強い。慣れた様子で芙実乃を殴ったあの犬のような男に好きにされないよう、ここの世界の芙実乃もこの教卓前が指定席になっているのだろう。いまこの教室に姿を現してないが、もしあの男が授業に出没していても、おそらく隣には座らなかったはずだ。
ここの世界の芙実乃が苦痛と引き替えに得たその立場は、ありがたく利用させてもらうことにする。だが、防犯対策としては悪くない扱いだとしても、精神衛生上にはなかなかにしんどいものが感じられてしまう。
おとといまでなんやかや話しかけてくれていた子たちの視線が、芙実乃を素通りしていくのだ。殊更無視しているわけではなさそうだが、おそらく目を止める対象物としての価値を認められてもいない。置き物程度に思われているのだろう。普通なら左側にいてくれている景虎のほうをつい見た時、芙実乃越しに教卓を見ている子たちの様子が目に入って気づいた。
もちろん、これ見よがしに無視しているとアピールされているわけでもないし、なんらかのアクションのあるいじめのほうが、これの何倍も堪えるに違いない。だが、ヒエラルキーの最上層から最下層への落下は、落差が激しい分、その心許なさがいや増している。
芙実乃は心の中で希望に縋った。
景虎が召喚された元の世界に戻りさえすれば、こんな状況はなかったことになるのだ。
そう信じて授業に没頭し、休み時間には放課後の補習の予約を取りつけた。当日に予約を入れられるのは空きのある教官の補習だけで、とりあえずクシニダを選んでおいたが、明日以降は一番人気の教官の補習に応募しておく。現状、成績も惨憺たるものであろう芙実乃なら、期限さえ間に合っていれば、どこの補習にも優先して入れてもらえるはずだ。ミーハーな気分でいるわけはないが、人気があるほど教え方が上手い教官、なのは間違いない。
ただ、教え方の評判とはまた別に、特定の教官の補習が人気になるのにはそれなりの理由がある。景虎が参加すると知れ渡っているからルシエラのクラスの補習に応募が殺到している、とかではない、極めて真っ当な理由が。
それが、担当官が放魔法に長けた魔法の使い手だから、というものだ。
放魔法というのは、見た目がこれぞ魔法と言いたくなる、シンプルに火などの弾を撃ち出す魔法だが、そのシンプルさゆえ、実戦での使用者になる戦士たちにも使い勝手が良く、戦闘にも組み込みやすい傾向にある。しかも、これの威力や速度や精度が増せば、武器を交えずに月一戦に勝利することも不可能ではなくなるのだ。それに直接戦うわけではない魔法少女だが、威しのためにも強い放魔法は持っておきたい、という心理状態でいる者もかなりの数に上るらしい。魔法少女は皆、生まれたのとは違う世界に連れて来られているわけで、魔法を護身用の備えだと考えたくもなるのだろう。学校側は品行方正な男子生徒に常時の帯剣を許したりと、品性の怪しい男子生徒の横暴を掣肘してはいるが、そういう掣肘役の男子生徒がいない局面というのも、学内では不意に訪れたりするものだ。
これまで芙実乃は、魔法に対抗しうる全身を覆うような纏魔法を習得しているし、景虎にも使い勝手の良い操魔法もあるから、放魔法には力を入れてこなかった。いずれは景虎のパートナー枠に加わるであろうルシエラが得意な魔法だし、これも役割分担だと、纏と操を極めることを優先させていた。纏魔法は対敵性体への主力攻撃手段であり、対人戦の対魔法に有利な防御手段にもなる。操魔法は威力不足だが、牽制に使わせれば、それも景虎に駆使されるなら反則級に有用、とまで言わしめているほど。もう少し操魔法の威力が上がれば、を第一に訓練に勤しんではきたものの、放魔法に走るほど、威力のある魔法自体を求めてはいなかった。
だって芙実乃は、景虎のパートナーの魔法少女としてなら、充分及第点が取れていたから。
しかしいま、急務として、芙実乃には個人としての戦闘力が必要になった。
向いてなかったからこそ不得手としていた魔法の威力も、死に物狂いで高めていかなければならないのだ。それには、おそらく操魔法では短期間で成果を出すことはできそうにない。
だからこその放魔法なのだった。
だが、今日の予約は取れたのがクシニダの補習のため、放課後は直近のエレベータで下層の訓練場へと向かう。エレベータと言っても、自分で出したオブジェクトの床に乗って行く吹き抜けに過ぎないから、クラスメイトと同乗する気まずさとは無縁だ。お目当ての層で降りると左が訓練場だが、先に右の休憩室へと焦がれるように足が動いた。なぜならそこは、芙実乃の認識では景虎と最後に会えた、昼から夕までをアニステアと過ごした件の休憩室だからだ。
が、そこには景虎がいてくれるはずもなく、人気のないがらんとした休憩室があるだけだった。行き止まりの場所で通りかかる人もなく、本来だと訓練のあいだに一息入れるための場所なのだから、放課後になりたてのいまだと、がらんとしてて当たり前なのだ。
奇妙なところがあるとしたら、個室がすでに一つ展開されていることだが、大方、月一戦後に座学に戻らず補習を待っていたペアでもいるのだろう。場所が奇しくも芙実乃とアニステアが籠もっていた入り口脇の角だが、補習時間まで待つのなら、芙実乃だって、飲食物の出てくる奧のスペースの近くを確保するより、入り口脇を占めたほうが早いと考える。
そもそも景虎が最後に立っていたのはそのしきいの外側なのだから、個室の中まで見る必要もない。前で立ち尽くしてたりしたら、出て来た生徒たちに因縁をつけられてしまうかもしれないし、景虎がいないのなら、こんなところはさっさと立ち去るに限る。
芙実乃は踵を返し、休憩室を出た。
ここからだと訓練場までは一、二分歩くことになるが、これは丸い訓練場の外壁沿いをぐるりと迂回するような作りになっているからだ。補習でなくても使う訓練場だから、ほいほい休憩室に出入りできるようにはなっていないのも当然なら、魔法を壁撃ちするのが基本の壁をほいほいと扉にして出入りできないのも当然か。不平を言うでもなく迂遠な道のりを行く。
と、芙実乃は歩を進めるたびに、挑むような気持ちが芽生えているのに気づいた。
空の休憩室を見たことで、自分でどうにかするしかないとの決意を新たにできたようだ。
誰にも頼れない。
それはバーナディルと話した時、教室でクラスメイトたちの反応を見た時、散々に思い知らされていた。
景虎を認知してない人を見ると、芙実乃の心は抉られるのだ。
最初から縁のない人の言動ならともかく、バーナディルなど、景虎を知らないはずのない人が知らない。その上、芙実乃に対する呼び方まで変わっているのを聞くと、いま自分がパラレルワールドに立たされていると殊更に見せつけられた気分になる。
芙実乃が、たぶんこの世界にもいるルシエラに会いに行かないのもそのためだった。
本当は心細くてたまらないのだが、よりにもよってルシエラにまで景虎を知らないなんて態度を取られでもしたら、その時こそ芙実乃の心は折れてしまうかもしれない。それに、ルシエラとの初コンタクトを景虎抜きでやり直す、なんて状況を乗り切る自信もなかった。
そもそも、ルシエラはとても難しい子なのだ。
特定の人にしか懐かない猫のような気質をしていて、迂闊に近寄れば一目散に逃げるか、敵愾心を逆撫でするはめにしかならない。芙実乃の場合、景虎の膝で寝ているところをそうっと撫でて慣らしたようなもので、いま置かれている状況で使える手段ではなかった。ノウハウがあるつもりで再接触を試みれば、逆上して殴りかかってくる可能性すらある。
それならクロムエルのほうを頼ればいいのかと言えば、それも期待はできそうにない。クロムエルは景虎に忠誠を誓っているのであって、芙実乃の身辺警護のような真似をしてくれるのもそのためでしかないのだ。惨めな女の子が助けを求めに来たなら、話くらいは聞いてくれるだろうが、パートナー面をした男がいるから殺してくれ、なんて言ってもやんわりと断られるだけだろう。景虎の意向がない限り、クロムエルはたぶん常識や立場を慮る。
アーズにしたって、芙実乃が景虎の庇護下にいるから、という理由で雇用主の子供みたいな扱いで接してくれていたが、これが見ず知らずの芙実乃なら、マチュピッチュを相手にするようなぞんざいさが顔を出すに違いない。何を訴えてみたところで、真剣に取り合ってくれるような想像さえ浮かんでこなかった。
そういう意味では、会いたい、と唯一素直に思えるのはマチュピッチュくらいなものだ。
もちろんマチュピッチュも景虎が大好きだし、そんな人知らないなんて様子などはできれば見たくない。が、言語表現の大部分が単一のマチュピッチュなら、景虎のことを知らないからそういう言動になる、という受け取り方だけは避けられると思うのだ。
とはいえ、孤独と不安に苛まれる一方で芙実乃は、こんな世界には少しもましな部分など見出したくない、安住する要因は極力排除しなければという思いも殊更に強く、寂しさを紛らわすなんて理由で、自らマチュピッチュに会いに行こうとは思わなかった。
窮地から逃れるためにならクロムエルを頼るのも致し方ない状況ではあると思うが、それもできるだけ敬遠する方向で考えようと芙実乃は心を決める。
ルシエラは芙実乃をぶったりつねったりはするが、それらはそこそこ痛い程度で治まっており、痛くして泣かせる意図がある、というような意味合いの攻撃性はない。だが、面識のない芙実乃がクロムエルに頼る姿などを見せては、自分の敵に取り入ろうとしていると見做され、ルシエラには決定的なまでの敵愾心を抱かれることになりかねないのだ。それこそ、本気で殴る蹴るをするほど徹底して憎まれる可能性すら少なくなかった。芙実乃を本気で殴る蹴るするルシエラの表情など瞼に焼きつけたくないし、そもそも芙実乃を本気で殴る蹴るするルシエラなど、それはもう芙実乃の知るルシエラではない。
カポエラだ。
と、そんな言葉遊びが、芙実乃にほんの少しだけ笑みを零れさせた。いまはもう幻と化してしまっていても、こんな異世界で確かにあったはずのルシエラたちとの日々が、このパラレルワールドになって初めて、芙実乃にまともな感情を発露させてくれたのだ。
会えなくても頼れなくても、ルシエラたちにはこんなにも救われている。
それに何より、芙実乃の記憶の中に景虎がいてくれている限り、動きだそうとする心の力が枯れ果ててしまうことだけは決してありえない。だから、この世界改変が無事終わるまでは、芙実乃は自分の力だけで歩く意志を固めるのだった。




