Ep04-03-04
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明け方と呼ぶにはまだ早い深夜の終わりごろに、芙実乃は目を覚ますことになった。
景虎。景虎。景虎。
頭の中でその名を連呼できることに、芙実乃はひとまず胸を撫で下ろす。
だいじょうぶ。ちゃんと覚えている。まだ忘れてはいない。
充分な睡眠が取れたことで頭と心の整理がついたらしく、芙実乃はアニステアの話の否定に躍起になろうとはしなくなっていた。その証拠なのか、目覚めてすぐに覚えた危機感は、景虎を忘れてしまうリスクの高そうな、睡眠状態に陥っていたことに対してだった。
世界を元に戻すまでもう二度と眠るまい。と芙実乃は固く決意する。
ひょっとすると年単位の話になってしまうのかもしれなかったが、芙実乃が景虎を忘れない限り、世界を元に戻せる可能性は残せるはずだ。それをやらない理由など一つとしてない。
幸いにして、ここには芙実乃の元いた場所や時代にないレベルの医療がある。身体が睡眠不足になっていれば、学内でオーダーする飲食物にサプリメントが配合され、意識を保ったまま睡眠不足など眠気ごと勝手に解消されてしまう。
この世界のドラマやゲームにハマったクラスメイトの何人かは、そうして一月以上も寝ずに過ごしていると聞いたことがあった。発覚すればもちろん担任やらから注意を受けるが、それは健康被害をもたらすからではなく、学習効率が落ちるという理由らしい。おそらくだが、睡眠時の脳の整理を行わずに過ごしていることになってしまうからだ。学校側も本音では、魔法行使の感覚習得の効率が落ちるのは避けたいに違いなかった。
それでも、これはプライバシーに含まれる事柄であり、黙っていれば露見もしないくらいなのが普通だ。ただし、現在の自分に限ってはそうでないかもしれない、なんて懸念を芙実乃は募らせていた。それの根拠はああも迅速に実体のバーナディルが駆けつけてくれたこと。
どうやら景虎を呼べなかった芙実乃は、赤子のごとくプライバシーを度外視され、過保護にされる環境に置かれていると見当がつく。だから、鼻血を流したことによる怪我の報告か、泣き喚いたことによる精神状態の悪化の報告が、バーナディルに通知されていた。もしかすると殴られてからバーナディルが自室に戻してくれるまで追撃を受けなかったのも、なんらかの防衛措置が取られていたからかもしれない。
そんな推察で違った異世界生活を過ごしていた自分の身の安全を安堵する一方、より深刻な状況へと落とし込まれているという窮屈さをも実感する。それは、景虎を呼べず景虎の存在すら知らない芙実乃にとっては良いことでも、そんな世界を元に戻そうとする芙実乃にとっては足枷になりかねないからだ。
景虎が言っていたではないか。バーナディルは、味方につけたい第一の人物ではあるが、こちらの目的が彼女の倫理観にそぐわなければ、敵に回る可能性も高い人物だ、と。
芙実乃の目的は世界を元に戻すこと。
言い替えれば、いまいるこの忌まわしい世界を無に帰することだ。
たぶん、この世界でのバーナディルは、上手く異世界生活を送れてない芙実乃をべったりと甘やかすような存在でいてくれている。しかし、芙実乃がこの世界を無に帰そうとしてると気づけば、それを阻止しようと動くに違いない。それどころか、いまの芙実乃が別世界の意識を有する芙実乃で、バーナディルの知る芙実乃の立場を損なう存在だと判断すれば、景虎を忘れない芙実乃の存在を消しにかかる可能性すらある。
今回は沈静化程度の処置で済んだが、数か月、数年単位の睡眠処置を強行されでもしたら、芙実乃はその眠りの中で、景虎との記憶を根こそぎ攫われてしまうかもしれない。
ただの眠りさえ遠ざけておきたいいまの芙実乃からすれば、それは、最も避けなければならない事態だった。つまり、この世界におけるバーナディル・クル・マニキナは、かかわることすら絶対に避けるべき、敵以上に厄介な相手なのだ。
迂闊に事情を訴えてしまったことが悔やまれる。
まだしも救いなのは、おそらく事実としては受け取られなかったことだ。泣いている幼稚園児をはいはいと肯定してやり、泣き止んだら何かを諭す、といった心づもりで芙実乃の相手をしていたのだろう。景虎のことを忘れてしまっているくせに、適当に話を合わせようとしたことが、かえって芙実乃に絶望を味わわせる結果を招いてしまったが。
とにかく、バーナディルを避けるのが望ましいなら、今後は芙実乃自身が迂闊に泣いたりしないよう努める必要がある。とりあえずはそれさえ気をつけていれば、バーナディルにも安易に駆けつけられないだろうし、芙実乃の目的が悟られる機会も減らしておける。
だってこの世界の人からすれば、現在の芙実乃は、誰か一人のためにテロを起こす、物語の登場人物のような動機で動こうとしているのだ。元のクロムエルやアーズなら、世界を景虎のいるかたちに戻すことが正しいと言ってくれようが、ここで景虎を知らずに過ごしている彼らともなれば、たぶん全勝してるところを一敗にされるわけで、そうするべきだとまでは思ってくれないだろう。カップを壊す程度の気分で、人を殺す決意を固めた芙実乃とは相容れない。
味方など誰一人としていないと考えるべきだった。
この世界では、芙実乃は全世界を敵に回しているも同然なのだ。周囲には芙実乃を敵役としか見ない主人公のような連中だらけ。知ればきっと誰も彼もが芙実乃を攻撃してくるし、良くても人々の人生の大切さを説かれるだけだ。
あまりの孤立無援な環境に、涙が零れそうになった。
それでも、柿崎景虎という存在さえ知れずに三月半を過ごさねばならなかった、ここの芙実乃に較べれば遙かにマシと思える。だが、いま芙実乃が諦めて日々を無為に過ごしだしたら、そんな景虎との記憶も徐々に喪われてゆき、いつかはここでそんなどうしようもない日々を過ごしていた芙実乃と完全に同化した芙実乃になってしまうのだ。
だから決して、主人公ぶった連中の訴える情になど絆されるものか。
その『いつか』までの時間を一秒たりとも無駄にしないためにも、芙実乃は歯を噛み締めて涙を堪えた。まだ何をどうすればいいかさえわからないままだが、できる範囲のことを疎かにする愚だけは避けたい。
それには、何を置いてもまず食事を疎かにするべきではなかった。不眠不休を変えるつもりはないから尚更、睡眠分の疲労回復を補う調整をした食事が必要になる。ナビで確かめてみると、昨日の朝食事をしたのち、いまの芙実乃の意識にすり替わる少し前に水分の摂取をしているとあった。サプリメント機能の詳細を開示すると、次回食事までの空腹感の抑制だけが加えられている。水分摂取のほうは、警告をされて従ったようだ。どうやらここでの芙実乃は朝の一食で一日の食事を済ませているらしい。
効率が良さそうだから一日一食はそのままに、眠気の解消をサプリに加えておく。
ルシエラのように、時間になると用意されるタイマー予約がされていたから、食事に関してはもう何もすることはない。曜日ごとに同メニューが更新予約される設定で、バリエーションは六食しかないが、正直どうでもよかった。時間で勝手に出てくるのなら、その時にそれを流し込むだけでいい。それだけのことで、景虎を取り戻すまで食事に煩わされずに済む。
芙実乃は睡眠と食事の問題を片付け、思考を第二の時間の使い方に移した。
ここはやはり魔法しかない。
そう答えを出して、自分の手のひらをじっと見つめる。
昨夜、隣室で魔法を放った時はほぼ不発に近かった。しかし、隣室のあの男はあの時、芙実乃に対してようやく魔法を使えるようになったと言わなかったか。それに嘘がないなら、いまの芙実乃もまた、元々のレベルを喪失しているのかもしれない。
ただ、レベルと言っても、それは威力やら諸々から成績に反映されているだけで、頭の中でファンファーレが鳴るような類いのものではないのだ。だから、魔法や魔力が肉体に依存するかどうかもわかっていないらしい。はじまりの魔女という生来の魔法使いによれば、精神状態による好不調があるのは事実で、だから体調管理もしておいたほうがいいという、ざっくりとした話なのだそうだ。それを併せ考えると、あの時の芙実乃は精神状態も最悪だったから失敗したのだ、という楽観くらいは許されるかもしれない。
また、もっと単純に考えれば、魔法を使えないこの世界の芙実乃が、直前まで無駄に魔力を消費した訓練をしていた、という線もあり得そうだ。魔力というのは、睡眠や休息とはあまり関係がなく常時回復し続けていて、個人差もわからないし、あっても微差なのだろうとされている。強い魔法をたくさん使える人もいるそうだが、それは結局のところ、効率の良い運用ができるということに尽きるらしい。効率の悪い訓練で魔力を費やした挙句、それにすら気づかずに訓練に没頭している、なんて真似も魔法が使えない段階ではなくもないとされている。
要は、ガソリンタンクの容量は同じなのに、速くも走れなければ燃費も悪い車だってある、という性能差の話になってくるのだ。
三月分の訓練が無駄になってないことを祈りながら、芙実乃は指先から雷撃を放つ。得意の操形態で操られた雷撃は、壁の前で弧を描いて芙実乃の指先に戻り、ブレスレット大のリング状に回りだした。少なくとも、芙実乃の意識の中にある、昨日の補習でできるようになったことはできる。ならば、魔法の習得感覚自体は精神に引き継がれている、と考えていい。
また、魔法行使したことにより、魔力の残量がおよそ六割程度だろうと見当をつけられた。魔力は一日もあれば十割回復するが、だからといって芙実乃が一日の六割を寝て過ごしたことにはならない。魔力回復は、残存魔力の少なさに比例して回復量が増える傾向にあるのが確認されている、と教えられている。だから睡眠を強制された時間で計算すれば、あの時の魔法の不発は、魔力不足だったことが明らかなのだ。
世界が変わる前の芙実乃は、休憩までの補習でせいぜい一割の魔力しか消費していなかったから、施設退去までの時間で魔力をほぼ満タン近くまで回復させていたはず。
それならあの時の魔力不足は、この世界の芙実乃に原因があったと考えるほうが妥当だ。だとしたら、肝心の魔法習得のほうは本来の自分でいられもしてるのだし、こちらの芙実乃からの影響を気にする必要はもうないかもしれない。残された魔法に関しての問題だと、慢性的な威力不足だろうか。魔法効率は良いと褒められている芙実乃だが、威力不足はこちらの芙実乃のせいではなく、従来からの芙実乃の課題点だった。
芙実乃は、そもそも一度にたくさんの魔力を消費できにくいタイプだ。
魔力を注ぎ込める順だと、纏、浮、投、放、操という、魔力をベクトルに割く比率が高くなる順に合わせて、総合の魔力消費が減ってしまう。だから、操の訓練だけを丸一日していたとしても、時間分の魔力回復もあるし、せいぜいが一割消費してるくらい。操の威力が上がるとかがあればまた別だが、満タンの状態からでの消費予測がそれなのだから、空っぽの状態から訓練をはじめれば、むしろ回復量が勝ってしまうことになるはずだ。
ということはつまり、戦いに臨む直前とかなら別だが、訓練を積むだけなら魔力は常に空にしてるくらいのほうが、トータルの魔力消費量を底上げできることになる。だが、纏や浮の訓練を積んだところで、芙実乃が誰かと戦う役には立てられそうもない。特に武器で戦うわけでもない芙実乃だと、纏わせられる電気の威力を高められたとしても、それを手のひらに纏わせるのにも怖さを感じるのだ。自分の魔法で自分が傷つくことはないはずだが、火魔法では、熱せられた空気で火傷を負うこともある。強い電気の放電が自分に直撃したらと考えると、訓練であってすら及び腰になってしまいそうだった。それに何より、纏魔法は敵性体を討伐する場合になら攻撃力の上乗せになる魔法形態で、人と戦う場合にはあまり意味のない魔法だ。
そこで、実際の対人想定の戦闘に使えそうな中で一番魔力消費量が多くなる放魔法の訓練をしつつ、今後の予定に具体性を帯びさせてゆくことにする。
授業、は受けておいたほうがいい。魔法実習はやはり自主練では代替できないアドバイスがもらえたりもするし、まわりの子のやりようを参考にできることもある。それと較べれば、座学のほうはいまはそう必要でもない。が、無事景虎を取り戻せた時に、学業のほうが取り戻せないほど遅れていたら、なんだかんだでまた景虎の足を引っ張ってしまう。それに、きちんと授業を受けているという生活態度は、バーナディルを安心させ、干渉を減らせる意味でも決して疎かにしておいていいわけでもなかった。空の魔力を回復させる時間として上手く調整できるなら、貴重な時間を無為にしたことにはならなくなるはず。
考えながら、芙実乃は放魔法を雷属性から順次、火、風、水、土と属性を切り替えてゆく。どれもやはり操魔法より威力は出ていそうだ。が、これらで景虎の部屋にいた男を倒せと言われると心許なかった。見た目で威力の想像がつくのが火魔法だけだが、それだってガスコンロの中火程度の火力が出せているに過ぎない。他の属性もそれに準ずる威力があってくれるのだとしても、相手がそれに耐えてまだ動けるようだと、芙実乃の負けは確定したも同然だ。
そもそも一撃で戦いを終わらせよう、などという甘い目論見はかすかにでも持っておくべきではないのかもしれない。泥仕合さながらに削り合うか、削られずに削るというような、試合運びじみた算段も必須となってくるのだろう。
不向きなのは重々承知しているが、それでもどうにか頭を捻っていると、一つの偶然が芙実乃に味方した。
属性のローテーションで魔法を水から土に切り替えていたところ、属性が混ざったような、泥撥ねが白い床に散って消えたのだ。そこから着想を得た芙実乃は試しに、風属性と土属性を混ぜて魔法行使してみた。最初のうちは拳大に固まった濃茶色の土の塊を握り潰した感じで、ぐずぐずっとまばらな大きさに砕けた土が下に落ちるだけだったが、風の強度を強め、土の強度を弱めるなどの工夫を凝らすと、徐々に砕ける大きさくらいは均等化してくる。
これの練度を高めれば、黄砂が飛来した日のような目つぶし攻撃になるかもしれない。
目つぶしがあれば、相手の接近を止めているあいだに攻撃、ランダムに右か左にこっそり移動しておけばまた時間と距離を稼いだりもできる。攻撃力の強化とともに、これの精度と飛距離を上げられれば、不向きな避けるだの、フェイントだのをしなくても、距離を取った戦いというやつになるのではなかろうか。
その着想を実践し、三十分ほど訓練に没頭していると、この世界の芙実乃が予約してあった朝食が自動で、これまた自動で出てきたテーブルの上に置かれた。ちょうど魔力も残り一割程度になっていたため、芙実乃は訓練の手を休め、一人の食卓に向かう。
丸一日を過ごす一食にしては小さい箱――平均的なコンビニ弁当の半分くらいのサイズの箱だが、この世界の芙実乃にはこれだけ詰め込むのも精一杯だったに違いない。いつもならこの倍の量の朝夕二食で過ごしている芙実乃だったが、こんな現状では食事などどうでもよく、作業としか思えないというのが正直なところだ。栄養も足りてるはずだし、空腹感の抑制もされているはずなのだから、暇があったなら錠剤に変更しておいてもいいくらいだった。
芙実乃はそんなふうにすでに面倒になりながら、食事の入った箱の蓋を消す。
と、一瞬だけぎくりとして、しばし茫然とした。
箱の中から出てきたのが、幼稚園のお弁当の日に母が用意してくれた、定番の組み合わせそのものだったからだ。
からあげ、ハンバーグ、甘い卵焼きは、当時の芙実乃の好物で、酢の匂いと酸味を抑えた母の手作りマヨネーズに和えられたポテト、コーン、ブロッコリーは、そうすればどうにか食べられた野菜の三種、小さなおむすびに塩も海苔も使われてないのは、海産物の匂いのある食べ物を呑み込めなかった芙実乃がそれでも喜ぶから、とまんまるく握られたものだった。
「うぐっ……」
芙実乃は不意に嗚咽を漏らす。
こんなもので自分を慰めるしかなかったこの世界の芙実乃と、こんなもので慰められてしまう現在の自分が情けなくて、涙がこみ上げてくるのだ。
いや。白状すれば、ただただ懐かしさに屈しているだけなのかもしれない。
この世界に来てからの芙実乃は普段、数多ある異世界の美食の中でも、リピーターの多いものばかり選んで食べていて、記憶の中の食事を再現する権利行使の六回分を、もらったまま使わないでいた。これは、一度使えばいつでもそのメニューを選べるようになる、というものだが、高級和牛になんら劣らない幾種類もの肉や、多種多様な高級魚介を日替わりで食べているうちに、卒業までゆっくり考えとけばいい、と後回しにして忘れていられたくらいだった。だから、こんな母の手作り弁当などが美味しくあるはずもないのに、ご丁寧に冷めた状態で用意されたおかずや白米が、それらを凌駕しているほど美味しく感じられてしまうのは、懐かしさによる補正効果でしかないのだ。
しかし、そうとわかっていても、そのお弁当を空にしたあとの喪失感は殊更に響き、何よりも貴重なはずの時間を、ただ号泣するだけの無為な過ごし方として費やさせられたのだった。




