Ep04-03-01
第三章 ヒエラルキーの下層
1
芙実乃の目の前は真っ暗だった。
そのはずと言えばそのはずで、目を瞑って抱えた膝に顔を埋めていれば、腿の肉付きがそう良くない芙実乃でも、ほぼほぼ完全な闇に閉ざされてしまう。
問題は、芙実乃には目を閉じた記憶もなければ、膝を抱えた覚えもないことだ。
芙実乃の手は直前まで景虎目がけ伸ばされていて、涙に滲んでいたが、その姿もはっきりと瞼に焼きついている。それが、意識が途切れたような感覚すら一切ないまま、唐突にただ膝を抱えた闇の中に閉ざされていたのだ。その膝、頬とて、涙に濡れた感触もない。
髪、眉、睫、以外の体毛などこの世界での芙実乃の身体には一本たりとも生えていなかったが、総毛立つ感覚が全身を駆け巡り、恐怖で顔を上げられなくなった。
ここはまだ、訓練場併設のラウンジであるはずだ。
今し方個室の一部が開放されたが、そこから移動していていいはずがない。唐突に体育座りのような格好をしているが、景虎はきっときっときっとまだそこにいてくれる。こうしているあいだにも近づいて来てくれていて、手の届く場所で佇んでくれているに違いない。
なのに、どうしてここはこんなにも静かなのだろう。
声がかからないのだろう。
屈めてくっつけている前半身からは嫌な汗が、背筋には制服の上着にまで包まれているのに冷たい汗が、じめじめと芙実乃の衣服を湿らせてゆく。その息苦しさと震えと闇の中にも耐えられなくなった芙実乃は、待ち続けるのをやめ、過呼吸気味の息をつきながら顔を上げた。
白い。光を拒絶していた目には痛いくらいの白で、思わず目を細めてしまう。
しかし、そんな狭まった視界でも、否が応もなく悪夢のような事実が突きつけられていた。
ラウンジではない。ラウンジなら壁はもっと遠くにあるはずだし、色も緑がかっていた。それがこんな、ただただ白いだけなんて……と、瞬間左右を視界に入れると、オブジェクトのしきいもなくなっていて、ここが生徒一人一人にあてがわれる個人部屋だとわかってくる。
だが、誰の部屋だ、なんて考える前にまた一つ、悪夢のような事実が突きつけられていた。
誰もいない。手を伸ばした先にいたはずの景虎も、目の前に座っていたアニステアさえも。
「う……あああ……」
受け入れがたい現実に視界が歪む。歯の震えがその景色をさらに揺らす。しかし、揺れても歪んでもここはそう景色も変わらない白い部屋だ。呻りながら、目の中で揺れて歪む白色で、頭の中をも真っ白にして過ぎる数分間。ようやく誰とも知れない人間の部屋にいる可能性への危機感が芙実乃に芽生えだしてくる。
震える指を動かし、芙実乃はナビからコンソール画面を手元に展開させた。
簡易地図画面を開き、位置情報を参照する。現在位置を指し示す光点は、廊下を隔てて非常口が隣接する、見慣れた角部屋の中だ。そこに表記されている文字は何号室という意味のこの世界での数字表記だが、芙実乃が見ると、ナビが読み上げたかのように芙実乃の脳には認識される。脳エミュレータ経由で同じ意味の日本語を聞いた状態の脳のパルスが、弱められてここにいる生身の芙実乃の脳まで伝達する仕組みだ。その結果、数字だけではなく、デフォルトで追記されている余計な情報まで加えて、一言、自室、と聞こえてきた。
その答えに、見ず知らずの他人の部屋に置き去りにされているわけではない、という微かな安堵を覚えかけた一方、芙実乃に猛烈な拒絶感が沸き上がった。
違う。ここは芙実乃の部屋ではない。芙実乃の部屋などであるはずがない。そもそも芙実乃の部屋は、景虎とともに初めて足を踏み入れた翌日には薄い桜色で色づけてある。担任ですら基本いじれない設定を、誰かが勝手にリセットし、白に戻せているはずはない。
芙実乃の部屋が白いままなのは、異世界召喚の翌日までなのだから、もしかすると日時もそこまで巻き戻っているのでは、なんて一縷の望みを抱きつつコンソールの日時表示部分に目を凝らす。まだパートナーの召喚を終えてない可能性を残したくて。
しかし、日付は変わらす四月目第一週最終日の日曜日。
時刻は学校施設退去時間のおよそ三十分後だった。
施設の退去時間を過ぎているからといって、オブジェクトに包まれて強制的に排出されるわけではないのだから、やはりいまはまだ芙実乃はラウンジにいるべきなのだ。アニステアだって目の前にいなければならないし、何より景虎の姿が見えないなんてあっていいはずがない。
芙実乃はアニステアから受けた説明を頑なに除外して、思考を進める。
実は何も起こらなかったことに安堵した芙実乃は、いつかのように大泣きをして前後不覚になり、景虎に連れ帰られていたというのはどうだろう。夕食の少し前のこの時間は、いつもならルシエラやマチュピッチュとここで遊んでいるはずだが、芙実乃がそんな状態だったなら、二人は一足先に景虎の部屋で待っている、というくらいのほうが不自然でなくなる。
そうだ。それに違いない。
あり得ないことを除外していれば、残ったそれが答えになるのだ。だいじょうぶ。自分は推理小説のようにものを考えられている。部屋が白いのだって、前後不覚になった芙実乃が自分でやったのであれば、簡単に白に戻せてしまう。誰かしらの不可能を突破したハッキングだとか時間が戻るだとかのあり得ないことより、なんとも妥当な真相に辿り着いた。
「あはははは」
止めようもないほど大きく震える身体にシンクロする笑い声を上げ、芙実乃は立ち上がる。
隣の部屋へ行かなくては。
そこにはきっと、景虎もルシエラもマチュピッチュもいてくれるはずだから。
芙実乃は震える身体をかき抱きながら力の入らない足を動かし、どうにか隣室側の壁にまで辿り着く。過呼吸を深呼吸で無理矢理ねじ伏せ、壁に手を触れさせる。
すると、壁は扉が開かれるように隣室への入り口となった。
それは芙実乃に隣室への入室資格が与えられている証だ。芙実乃ら女性陣三人は、景虎を含めた四人で相互に部屋を行き来できるように入室資格を与え合っている。また、相互ではないが、女性陣は残り二人の男性陣の部屋への入室資格もある。もちろん、中にいる人が着替えや入浴などのプライバシーレベルの高い行動をしている最中は、入室資格がない人と同様に単なる呼び出しにしかならない。が、そろそろ夕食というこの時間なら、芙実乃だけでなくクロムエルやアーズも、リビングやダイニングに集まるように景虎の部屋に集合するのが、このところの日常となっていた。そっちのほうが早ければ、中にいるのは景虎、ルシエラ、マチュピッチュだけでなく、男子二人も加えた五人が揃い踏みしているはずだ。
注文係の自分も早く駆けつけなければならない。
急ぐ理由を作って自身を鼓舞し、芙実乃は怯えで進みたがらない足を隣室に立ち入らせた。
直後。ドクン、と、芙実乃の心臓が跳ねる。それは、入室した途端に左側から聞こえだした衣擦れと人が身動きするわずかな音のせい。その音の耳慣れなさに芙実乃は、死地に迷い込んだことを瞬時に悟った猫のように硬直するより他はなかった。
まるで心臓だけが動いていた闘病生活のころに戻ったかのようだ。
それでも、足音が近づいて来る疑いようのない気配に、芙実乃はそちらに顔を向けざるを得なくなる。それも、いるのは少なくとも足音など立てない人間ではないと承知した上で、だ。
蝶つがいの錆びた扉のごときぎこちなさで、芙実乃の首が左を向く。
と、そこにいたのは見た覚えもない男子学生だった。
嘘だ。嘘だ。嘘だ。
どうして景虎の部屋で見知らぬ男と遭遇せねばならない。どうして景虎はこんな、飼い主の教養の程が知れてしまう、躾の悪い犬のような雰囲気漂う男を、自らの部屋にうろつかせておくのか。さらには、どうして景虎の部屋までデフォルトの白に戻っているのだ。
考えたくない。
だから芙実乃は、直近も直近の、差し迫った目に見える気持ち悪さだけに的を絞った、浅い考えに逃げ込もうとする。とにかくこの気持ち悪い男と二人で同室にいるべきではない。立派ではないが、芙実乃だって曲がりなりにも十六歳の女の子なのだ。目の前にいる男の遺伝子が劣等であることくらい、本能で嗅ぎ分けられる歳になってきているのだろう。
しかし、景虎から言葉を貰わなければ、恐ろしく思う対象に背を向けて一目散に逃げだす、なんて決断や行動にも芙実乃はなかなか踏みきれない。それどころか、男に射竦められたかのように、目を逸らすことさえままならなくなっていた。
後じさりかける程度の身じろぎをするのがやっとで、ほぼ固まった状態で男を見上げているしかない。
背丈はアーズとそう変わらない百七十五センチ前後だが、雰囲気はと言えば、いつも軽妙なアーズにはない不気味さがある。クロムエルより二十センチは低いだろうに、芙実乃の長身者に対する苦手意識を等しく湧き上がらせるような圧を醸し出していた。
目つきから、表情から嗜虐性が溢れているのだ。反撃があるなど夢想だにもせず、芙実乃を一方的にいたぶれる相手だと信じて疑わない、そんな優越感に満ち満ちていた。
「芙実乃ぉ」
怖気が奔る。
呼び捨て。間延びした言い方。粘つく声。
どれ一つ取ってみても、不快に感じずにいられるはずもなく、一時的に恐怖が脇に押しのけられたほどだ。しかし、自分は知らない相手から、自分を知悉しているかのように呼びかけられるという、揺り返した一層の恐怖感が芙実乃の全身と心の裡を粟立たせる。
不快で拒絶したくて、だが、ただただ生理的な嫌悪感を表明するという行為に、社交辞令のリミッターがかかっている芙実乃には、その気持ちを言語化することさえできていなかった。それでも抑えようのない気持ちが溢れてしまうのか、口だけがぱくぱくしてしまう。
そんな芙実乃の様子を餌にして嗜虐心をより昂ぶらせたのか、男のだらしない口元が、半開きの喜色を湛えたものになる。その姿はさながら、腹が満たされていても攻撃性が抑えられない飼い犬のようで、容姿に浮き彫りになる心の醜さは腹を空かせた野犬の比ではなかった。
男がそんな、よだれを垂らさんばかりの笑顔で芙実乃を見下ろし、話しかけてくる。
「言うことを聞いて部屋に来たってことは、ようやく、おとなしく股を開く気になったってことだよなあ、おい」
男のその言葉に、芙実乃のストレスはとうとう飽和した。数時間に渡るアニステアとの緊張を強いられる密着。振り解くことが景虎の消失に直結するという疑念と絶望。さらにはこの、信じがたい現状の数々。そのすべてのストレスが、際の際をも超えた表面張力で保たれていた分まで、器ごとぶち壊されて決壊したのだ。
男の言葉は、芙実乃にはそのくらい許容しかねるものだった。
芙実乃は激情に駆られるがまま絶叫を放つ。
「お前が――日本語を喋るなぁぁぁ!」
まさに、芙実乃を逆上させたのは、その一点に他ならない。
話された内容にも聞くに堪えないものはあったが、芙実乃はその聞くに堪えないなどと感じる間もなく、男の話す言葉が日本語であることに怒りを覚えたのだ。
なぜなら、芙実乃にとって日本語は、誇りであり拠り所でもあったから。
こんな、宇宙の果てよりも遠い、光年でさえ言い表わしようのない、空間すら繋がってない世界にあって、ネイティブな日本語を話すのは景虎と芙実乃の二人だけ。形を変えずにこれを持って来られたからこそ、景虎を呼ぶ言葉を口にすることができた。誇りというのは、言ってしまえば、特定の事柄に特別な意義を感じている状態。芙実乃には日本語というものに対し、血筋であり教養であり所蔵する宝物であるかのような気持ちを抱くに至っていた。
日本語を喋れることは、芙実乃の唯一にして密やかな誇りだったのだ。
しかし、それは日本語以外を低く見ているのではない。マチュピッチュの言葉はかわいらしいと思うし、それを馬鹿にする者には、日本語を馬鹿にする人間に対してと同じだけの不快感を覚えるだろう。彼女の言葉へのこだわりも、尊重されるべきと当たり前に受け入れている。
芙実乃は言語そのものを上だ下だのとランクづけているわけではない。
ただただ、翻訳インフラの助けを借りずに景虎の言うことがわかり、自分の言うことを景虎にわかってもらえる、という事実が誇らしいに過ぎないのだ。病気でままならなかったが、日本の高校生男子と日本語で喋れたからといって、それを喜ぶ気にはならなかっただろう。あくまでも、こんな世界にいるからこその喜びと言えた。
景虎と二人だけで、誰にも踏み荒らされない雪景色を共有しているような気持ち。
そこに土足で足跡を刻まれ、芙実乃は怒声とともに、手から全魔力を叩きつけるような雷撃――放魔法を同時に、男の腹に向けて繰り出していた。
「痛っ――。なんだ、これ……」
男は腹を手のひらで押さえると、すぐさまその手のひらを見つめる。
「魔法、か……? ようやく使えるようになったと。で、たかだかこんな程度の魔法が撃てるようになったからって、俺に歯向かえるなんてのぼせあがりやがったってことだよな、あ?」
男の怒気を孕む声に委縮して、芙実乃は視線を下げてしまう。その際、真似たくはないが、芙実乃もまた手のひらを見つめた。魔法の威力がおかしかったからだ。芙実乃の魔法の威力は総じて弱めだが、放形態なら無理に魔力を込めなくても、人を蹲らせるくらいには痛いはず。
もしかすると怒りに任せて撃ったせいで、コアと呼ばれる大元のエネルギーに対してではなく、反映の芳しくないベクトルに魔力を注ぎ込んでしまったのか。撃ち終わった瞬間に、続けて同じ魔法は撃てないのがわかったし、一撃で全魔力を消費してしまったのかもしれない。
そばに景虎もおらず、魔力も空なら、どうすれば部屋に逃げ帰れるだろう?
答えの出ない無限ループに陥る芙実乃の頭の上に、威圧的な男の声が浴びせかけられた。
「何下向いてんだ、テメェ。目ぇ見ろや」
その恫喝じみた声に芙実乃は逆らえない。元来気弱な質ゆえ、大きな声で言われるだけで、芙実乃は自分の思考の優先度を下げてしまい、人の言いなりになってしまう。
ぎこちなく視線を上げるうちにも、身体中ががくがくと震えてきている。
景虎の存在しない世界にいる、というこの期に及んでも目を逸らしたい非情な現実を非現実と思うあまり、事実を事実として見てすらいなかった。しかし、芙実乃はいまようやく、ガラの悪い男と対峙している、という単純明解な事実を正しく事実として認識した。
ガツン。
という衝撃が、芙実乃の目の下から鼻の裏側へと突き抜ける。
「ぎっ――ぐふっ――」
悲鳴を上げようと思う暇もなく、殴られた痛みと床に転げた衝撃で、芙実乃は二度呻いた。
手のひらを眺めるために持ち上げていた腕があいだに入り、床に顔を打ちつけるのだけは避けられたが、その腕を包む制服の白い袖が、みるみるうちに赤く染まってゆく。顔の中央部には、熱さと冷たさが混在する激痛が纏わりついてもいる。鼻血だ。
自分はこんなにも体格差のある男に殴られて、鼻血を流している。
それを認識した途端、芙実乃の心はただ痛みと恐怖に泣きじゃくるだけの子供となった。
「景虎くん! 景虎くん! 景虎くん!」
それは、芙実乃が全幅の信頼を寄せる人の名。こんなどことも知れぬ世界で、縋ってもいいのだと思わせてくれた唯一の人の名だ。元の世界にいたなら、助けを呼ぶ相手は父や母だったろう。だが、芙実乃の心は子供返りしていても、もはやその二人に欠片も依存してなかった。
仮にこの声が世界を超えて助けを呼べるのだとしても、こんな能力しかものを言わない世界で両親にできることなど、芙実乃未満でしかない。童心に返ってしまったからこそ、自分より弱い存在に縋るだなんて思いもしなかったのだろう。
だから芙実乃は、ひたすらに景虎の名を呼び続ける。
そんな無力な芙実乃の脚に、芙実乃がまだ名も知らない男の手が伸ばされようとしていた。




