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異世界軍学校の侍  作者: 伽夜輪奎
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Ep04-02-07


   7


 芙実乃は頭の整理を優先する気質のようで、とりあえず理知を取り留めているものの、まともな精神状態でいられるはずもないというのは、その元凶たるアニステアが誰よりもわかっていた。何しろ、芙実乃が依存してやまない柿崎景虎との、永遠の別れを突きつけているのだ。それがどれほど残酷に芙実乃を追い詰めているかは、目の前で愛する人を殺される光景を見せられたアニステアにだって想像がつかないわけではない。

 いや。アニステアの場合は、生き返らせることが保証された状況でのもの。それに対し芙実乃は、世界が変貌するところからして半信半疑だとしても、比較にならないほどの不安と恐慌に浸されているはずだ。想像がつくだなんてのはおこがましいにも程がある。

 アニステアは、恨みもない相手をそんな奈落に突き落としていることを、早くも後悔しはじめていた。しかし、すでに能力は渡してしまっていて、もはや進むとか引き返すとかの段階ですらない。申し訳なさから嘘偽りなく話したとおり、アニステア自身、もうどうにもならないところまできている。現在の能力の持ち主は芙実乃だ。厳密には、アニステアは手放しているが、芙実乃の手には渡ってない微妙な時間だと言える。どちらとも所有者であるともないとも言えないわけで、どっちつかずの状況がいまなのだ。はっきりしてるのは、アニステアにはもう所有権はなく、つぎに受け取ると決まっているのが芙実乃ということだけ。だから。

 アニステアと芙実乃の手が離れれば、この中途半端な状態は終わり、世界は改変される。

 即ち、菊井芙実乃が柿崎景虎を召喚しなかった世界へと変貌を遂げるのだ。

 変貌しないとするなら、二つ。芙実乃が召喚の言葉を替えてもやはり景虎を呼べた場合と、過去の芙実乃が言葉に迷いを抱いてもなお言葉を替えずに召喚に挑めた場合。

 そうなってしまえば、アニステアは能力を使って生きてきた記憶ごと、能力のすべてを忘れてしまったまま一生を過ごすことになる。世界を変貌させる能力の使用は、アニステアにとっても能力が戻って来ないリスクを伴う賭けとなるのだ。一子相伝で伝わってきたこの能力の千年に及ぶ伝聞でも、親子関係以外で使われたケースは指折り数えるほどにしか聞かない。幸いにして、先祖がそのどの賭けにも勝ってきたからこそ能力は失われなかったのだろうが、世界を変貌させる能力では、天災は元より人災でも防げなかった場合がほとんどだ。

 結局のところ、たった一人の些細な行動意識を変化させるだけで、影響を周囲に拡大してゆけるシチュエーションを見極められるのでなければ、世界は大して変貌などしない。

 第三戦でウルトを殺めたクロムエルを能力使用の対象にしても、おそらくは決着のかたちが変わるだけで、事態は何も好転しないことが予期される。クロムエルのパートナーにクロムエルを召喚させなくさせたとしても、ウルトの第三戦の対戦相手は景虎が堕とした別の身体評価一位になるだけだろう。第二戦でのウルトに、ポイント戦での獲得点数の低さに危機感を覚えさせるくらいはできるかもしれないが、彼の性格上、戦意を喪失した相手にさらなる攻撃は加えることができないに違いない。つまりは、深い信頼関係にあるウルトの意志すら思いのままにできないのだ。どこかしらの世界で史上最強だった男子生徒たちなど、アニステアの能力ごときでは行動を変えられるはずもなく、身体評価最低でありながらトップ喰いを繰り返す景虎ともなれば、企みを持って近づくことすら避けなければならない相手だった。

 ウルトが一勝一敗で身体評価一位と戦うのを避けるには、身体評価最低がトップ喰いをしてきた過去をなかったことにすればいい、なんて実際、一人補習に参加する芙実乃と出会わなければ、自分の能力でそんな状況にできる可能性すら思い至れてなかった。また、芙実乃と二人きりになる機会が偶然やって来なければ、そうなるようにとアニステアが駆けずり回ることもしなかっただろう。クシニダの補習への参加は、タイムラグの少ない操魔法のコツでも学べるかもしれないと考えたのと、将来の働き方が聞けるかもしれないと考えただけだった。

 すべては巡り合わせ。

 今日だって、もし躊躇してもう少しだけ芙実乃と親しくなってしまっていたら、この小さくて頼りなげで無力な少女に、こんな仕打ちはできなくなっていたと思う。そう思えばこそ、いましかないのだと踏みきれてしまった、とも言えるが。

 いずれにせよ、これから芙実乃は言語を絶する絶望を味わうことになるのだ、と考えると、眩暈を覚えるほどの罪悪感が、アニステアの心に重く圧し掛かった。

 芙実乃は、連絡を取った景虎に、アニステアの説明を言葉尻まで間違いなく伝えようと、言葉を尽くしている。黙ったままお別れをできるだけ引き延ばす、とかではなく、端から景虎の判断を仰ぐの一択だったのかもしれない。

 信頼や依存の度合いが窺える。あるいは芙実乃は、そもそもが自分の判断で行動することに自信を持てないタイプなのだろう。ずっとちらちら見ていたが、一人補習に参加する姿は、いつでも隠しようもないくらいおどおどしていて、心細げだった。

 そんな芙実乃だ。変貌を遂げた世界を元に戻すのはほぼ不可能に違いない。

 これほどの規模の世界改変を行ったのは、アニステア自身はもちろん、母と祖母から聞いた話にもなかった。だから定かだなんてとても言えないし、ヒントと称して芙実乃に吹き込むことも憚られるが、おそらく芙実乃が絶対にやらなければならないのは、景虎に替わって呼び出されている同世界人パートナーの存在消滅。現在の世界に影も形もないその人の精神が存在することが、世界を戻す最大の障害になるはずで、少なくとも殺害する必要があるし、念を入れるなら肉体をすべて炭化させるまでしなくてはならない可能性もある。それでもだめなら、柿崎景虎の再召喚まで達成しなければ、このままの世界の流れには戻せないということだろう。

 アニステア自身の能力継承は、カップを改めて割るだけのものだった。それでも一年越しの二度目だったから、世界を戻す行動を取れたと言っていいくらいだ。代々親子関係で受け継いできたノウハウがあるからこそ、すんなりと母から継承できたし、母や祖母にちょくちょく渡し返して、経験談や伝承を聞くこともできていた。

 しかし、変貌した世界の真っ只中にいる芙実乃には、能力の所有権を別の誰かに譲って、世界の改変を試みることも、能力の記憶を戻したアニステアと話すこともできない。変貌中の世界では、能力の引き渡し自体ができなくなるからだ。戻すか変貌させたままにするかのどちらかで世界を確定させなければならないし、変貌が確定した時に能力が戻るのはアニステアのほうになる。そしてその時には、芙実乃にはこの場での出来事も景虎を呼べた世界での記憶ごとごっそりと抜けて、元から変貌後の世界で過ごしていた芙実乃そのものになってしまう。

 もっとも、人一人の存在を丸ごと入れ替えて、国内外でも知られるような人を消してしまうわけだから、世界が変貌しきるまでどのくらいかかるのかは、アニステアにも想像はついていない。アニステア自身、今年度中はもちろん、卒業後まで、能力やそれにまつわる前世での記憶ごと失ったまま過ごすことも覚悟の上だ。

 だが、アニステアはそれでいいとも思っていた。

 なまじこんな能力があるからこそ、苦悩するウルトのためにできることは何かと考えずにいられなくなるのだ。一緒に苦悩したり抱き締めている時のアニステアの一抹の後ろめたさが、実はウルトの気持ちを浮上させない一番の理由では、などとも考えずに済むことにもなる。

 半々とまでは言えないまでも、アニステアは芙実乃が世界を戻してくれることにも期待しているからこそ、こんな大それた賭けにも踏みきれたのだ。そうなればなったで、アニステアはウルトにも景虎にも芙実乃にも、また、子孫に能力を引き継ぐことなく死んだことへの罪悪感を抱えながら生きていくことからも解放される。

 ここは、先物、為替、株などで社会に寄生できていられた元の世界ではない。

 能力、実力、有能さでしか暮らし向きを上向かせられそうにないこの国では、世界を改変する能力などがあっても、元々の実力分以上に有能だと見せかけられはしないのだ。

 投資などのシステムが残る国もあるらしいが、誰もが高度な人工知能に投資運用を丸投げしているのだから、結局は多くの元本を持つ者の元にしか利益は吸い上げられなくなるのが目に見えている。富める者がより富めるようなシステムを残してしまうと、貧民から労働力や尊厳や生命を賃金の価値として搾取するしかないわけで、その手の初級の資本経済を維持している国は貧富の格差もえげつなければ、異世界人への差別もこの国の比ではなさそうだ。そういう国が、敵性体リスクを抱えながらも国家の態を保てているのは、特権階級と言える富裕層が人口密度の低い場所で暮らせる国土的な余裕があり、人口密度の高い場所で暮らす貧民の死者の数を、許容範囲内と平然と受け入れられるからでしかない。

 アニステアとウルトがこの国では実力不足なのだとしても、よりマシに生きられるであろうよその国など、存在するかさえも怪しいものだった。世界の改変能力などと言っても、アニステアの家系が成功していたのは投資のリスク軽減くらい。この世界の人工知能を相手取るとなるとその能力にさえ劣っているわけで、仮に潤沢な資金を用意できたとしても、アニステアには投資で日銭を稼ぐことすら無理筋に思えてくる。

 そんなふうに新天地を求めるくらいなら、無能でもこの国の片隅で暮らすほうがきっとずっと幸せなのだろう。だが、プライドが折れて折れて寄る辺ない様子になってゆくウルトを見るにつけ、能力を使って事態を打開しない自分が不誠実に思えてくるのだ。

 柿崎景虎さえ召喚されなかったことにすれば、少なくとも序盤から一敗の者の中にトップクラスの生徒が紛れていることはない。最終的に同じ成績で卒業するしかないのだとしても、ウルトがあまりプライドを損なわないかたちにはできるだろうし、あわよくば十二徒や二桁勝利を確保できる目が出ているかもしれない。

 奔走したわけでもなく目の前に転がった機会に飛びつかないほど、この世界でのアニステアに余裕などありはしなかった。ただ、標的にしてしまった芙実乃が不安と恐怖にさいなまれている姿を見て、正しく後ろめたさを感じるくらいには、アニステアの心は真っ当さを残していたようだ。それも景虎のことをはじめから知らない状態になるまでのことで、そうなってしまえばいまからそれまで苦しんだ記憶さえ芙実乃には残りもしないことにはなる。だが、それでアニステアが犯した罪が清算されるわけでは断じてない。芙実乃が景虎と過ごしていた時よりも幸せそうに見えない限り、ここでの記憶を戻した未来のアニステアに、生涯重くのしかかることになるのだろう。

 それでもウルトに不誠実でいるよりは、とアニステア自身が選んでしたことだ。突っ伏して景虎に状況の報告をする芙実乃の悲壮な姿と声から、目や耳を逸らすことは許されない。焼きつけておくくらいの罰を受けておくのが義務だと思った。

 説明を終えた芙実乃の声が途切れると、景虎からの返事が聞こえてくる。

「わかった。それで、わたしからの声は、そのアニステアとやらにも聞かれておるのか?」

「はい。遮音は景虎くん側からもできなくなるよう通話を繋ぐように、と。それに簡易地図情報での位置の開示にも景虎くんは同意して繋がったはずですから、それも。だから声は景虎くんのもわたしのもアニステアさんには聞こえてますし、翻訳もされていると思います。何を話し合ってもいいとも言われていますが、遮音したり、景虎くんがここに現れるなら、その時点で手を引かれてしまうことになると言われてましたから、そうするしかなかったんですが」

 本当だ。芙実乃に世界を戻されてもいいと思うのも本当だが、それでも、会話の内容が知れないまま待たされるとなると、不安が増幅して手を引く衝動に駆られかねない。また、景虎に背後に立たれたまま芙実乃と話されるというのでは、アニステアの神経が保たない。居場所の開示は常時必須だった。二人の憤りは受けるべきだと思いつつも、軽くでも実際に刺されでもしたらと考えるだけで、アニステアは卒倒か粗相のどちらかをしてしまうだろう。そうなればおそらく、その時点で世界の変貌が起こることになり、時間いっぱいまでは話させるという芙実乃との約束も果たせなくなる。それは、アニステアがこの場で殺されても同じこと。

 身勝手な言いぐさになるが、ここに景虎を来させないのは、芙実乃のためでもあるのだ。

「そうか。なれば意味深に話さば手を振り払われ、世界の改変とやらを早められる懸念があると芙実乃も承知しておくように。また実際にその事態になったとしても、そこに拘泥し過ぎれば、記憶のすり替わりとやらが起こるまでの時間を浪費するだけと心得ておくがよい」

 穏やかな口調、且つ、的を射た助言。確かに、世界を戻すためだけに人事を尽くそうとするなら、アニステアなどに恨み言を言いに来る時間だって、芙実乃には無駄の極致と言えよう。

「わかりました。わたしは他には何をすれば……」

「それを話す前に、アニステアとやらと言葉を交わそう。わたしの声は届くと思うが、そちらの声は届き、翻訳の恩恵に与かれるのか?」

「それははい。ただのハンズフリー通話ですから、ルシエラが横にいる時と同じです」

「なればアニステアとやら、話す気があるのであれば、返答を返すがよい」

 名指しされ、心臓をきつく握られたような心地になる。口調は芙実乃に対するのと変わらない穏やかなものなのに、これから自分のせいで存在ごと消える人だと思うと、後ろめたさが身体にまで影響を及ぼすのだろう。

 しかし、その声を無視し続けるほうが、心臓が耐えられそうになかった。

「は……い。アニステア・オンディークと申します。この度は申し訳――」

「謝罪の類いであれば不要だ。ただ、その心もちに嘘がなくば、手を引く刻限は守られよ。こちらはそれだけでよい。話というのは、そなたが妙な不安に駆られぬよう、先に断りを入れておこうと思ってな。動揺せずによくよく意味を噛み締めるように。良いか? わたしにはそちらへの攻撃手段はない。芙実乃の魔法には殺傷能力と呼べるほどの威力はなく、ルシエラの魔法ではそちらの位置を特定できぬ。直接斬りに行こうにも、わたしの動きは筒抜けときてる。これが事実だ。ゆえに、刻限まで芙実乃の心ゆくまま過ごさせても、そなたの目的は問題なく達せられ、不都合は出ない。理解してくれるか?」

「わかり……ました」

 アニステアが答えると、芙実乃が時を惜しむように景虎と話しはじめた。

 とりとめのない思い出話でほとんどが占められているため、アニステアは、聞き流しながら景虎が前置いていた言葉の検証をする。景虎にこちらへの攻撃手段がないというのは、想定の範囲では疑う余地もない。景虎がルシエラという子の魔法を使えることは、芙実乃がクシニダの補習に一人で参加している理由として聞いていた。だが確かに、何重にも壁や床を隔てた場所から、こんな狭い個室にピンポイントで魔法を出現させて見えない対象に向けるなんて、さしもの景虎にだってできる芸当のはずがない。また、芙実乃の魔法であれば、芙実乃の真正面に放つくらいはできるかもしれないが、威力が足りないというのも事実だろう。今日はずっと近くで見ていたが、芙実乃の雷魔法では、長時間感電させた場合の運次第で死ぬかどうかの威力しかなさそうだった。威力が低いとされる操魔法だったせいかもしれないが、放や投が得意なら少しも練習してないのはおかしいし、それも景虎の言うとおりなのだろう。

 だから少なくとも、景虎がアニステアにかけた言葉は、偽りでこちらを攪乱するためのものではない。こちらが不安に駆られないよう、つまり、安心させるためのものだった。しかし、アニステアは景虎に攻撃手段があるとはそもそも考えていなかった。しかも、仮にいまこの瞬間に、想像もできないような方法でアニステアが殺害されたとしても、その瞬間に世界が変貌するだけで、アニステアは景虎が存在しない世界のアニステアとして生きていけるのだ。

 極論を言えば、アニステアが景虎を遠ざけておきたかった一番の理由は、自分のせいで存在が消えるはずの人と同席するいたたまれなさであり、殺されることではない。無論、死にたいわけではないが、のちのちの後ろめたさを想像すると、そのくらいの罰を受ける覚悟は、こんなことをしでかす前からとっくにあったのだ。

 所詮小人の覚悟と見誤れたのだろうか。実際そうなったらと考えると、毅然として景虎に向き合えるとまで断言する自信はアニステアにはない。いまだって、アニステアの手をひっしと握り締める芙実乃の後頭部を見ながら、気持ちは後悔にさいなまれている。

 このまま一生芙実乃の手を握っていれば、世界を変貌させずに済むかも……なんてことまで考えた時、ふと、一族の口伝を思い出した。それは世界の変貌を起こさせない方法。ただし、確信だけがあって、実証されたことが一度もない、単なる仮定の、思考実験のような方法だ。

 その方法とは、能力を渡された者を、能力が発動する前に殺害すること。

 このケースで言えば、アニステアが手を重ねているあいだに、芙実乃を殺すことだった。

 口伝の仮定では、能力は発動前に発動者を失って、世界の変貌はなくなる。また、変貌しなかった世界において、能力を渡した事実が消えない元所有者は、いつか能力が戻るなんてことにもならず、能力に関する記憶をただただ失う、とされている。

 アニステアがこの口伝を意識してなかったのは、あまりにもリスクに見合わない方法だからだ。なぜなら、世界を変貌させないために人を殺せば、殺した人間は人殺しとして生きていかねばならなくなる。アニステアの家を投資で損をさせたままにしたい、くらいの動機で殺人まで考える人間がいるなんて、これまでは考える必要もなかった。

 しかし、アニステアが今回引き起こそうとしている世界改変なら、リスクを追ってでも止める意義は大いにある。さらに死んだ人間を簡単に生き返らせられる世界での殺人なのだから、存在が人々の記憶ごと消えるなどと言われた当人なら尚更だった。アニステアだと、直接的な手段で人を殺せるかどうかはわからないが、それでもぎりぎりまで迷って、やらないという決断をせずに終わってしまうのがオチだろう。

 景虎はそれを、芙実乃からのまた聞きでアニステアすら失念していた状況にまで思いを巡らすと、やらないという即断をしてアニステアに伝えていたのだ。暗黙の了解のように話されたのは、この可能性を芙実乃に悟らせないため。芙実乃の自害を防ぐために違いない。

 それに、その姿勢を示すことで、世界を変貌させない方法に気づいて暗躍しているのでは、とアニステアを疑心暗鬼に陥らせないようにもした。暗躍されているという疑念が完全に晴れたわけではないが確かに、気づいているというシグナルを先に送る必要も、アニステアの突発的な約束違反を抑制するためくらいしかする理由がない。

 こんな状況下でまで、芙実乃は命と心を景虎に守られているのだ。

 その幸せがもうすぐ引き裂かれるとわかってはいても、それでもアニステアは芙実乃を少し羨ましく思いながら、施設の退去時間までは待つという約束を果たし終えようとしていた。

 その刻限がいよいよ間近に迫った時、堪えきれずに零れる湿った芙実乃の声。

「景虎くんに……会いたいです」

 アニステアがそれを許可する旨を伝えると、地図上の景虎の位置情報が動きだし、やがて二人のいる個室の前に辿り着いた。アニステアは無情に宣告する。

「開けた瞬間に手を離すわ」

 アニステアの右手の甲が芙実乃にひっしと握られるが、その小ぶりな手指のか弱き力では、アニステアの利き手の動きを阻害することはとても叶わないだろう。上に乗せていた左手でそこを最後に撫でつけ、コンソール操作で景虎への入室許可を与える。と、背後の壁が消失したのか空気感が変わった。広く涼しげで、心なしか神聖さまで漂っている気がする。

 耐えかねたように、そこを目がけて芙実乃が右手を伸ばし、叫んだ。

「景虎くん!」

 アニステアは心の中で何度も謝りながら、芙実乃に重ねていた右手を離した。

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