Ep04-02-06
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「芙実乃さん、本当にごめんなさい。この手をわたしが離した瞬間、この世界は芙実乃さんが柿崎様を呼び出さなかった世界へと変貌を遂げることになる」
不穏な宣告を受け、芙実乃は咄嗟に手を引っ込めようとするが、アニステアに痛いくらいにぐっと握られていて、それもままならない。だが、なおも踠こうとしていると、アニステアが懇願するような必死さで、芙実乃に言い聞かせてくる。
「芙実乃さん、この能力は渡したらもうそれで手遅れなの。お願いだからわかって。後ろめたくて、逃げたいのはわたしのほう。だから。だからこれは、せめてもの……になんてとてもならないけど、それでもこれは、貴女に残してあげられる、柿崎様との最後の時間になるから、どうか後悔のないよう名残を惜しんでほしい」
おそらく、アニステアは芙実乃の人生において、かつてないくらいの最悪の事態を引き起こそうとしている。にもかかわらず、彼女の態度から感じられるのは、憎しみなどでは決してなく、むしろ贖罪や真摯さといったもののみだ。しかし、それがかえって、言葉に真実味を加えてもいる。彼女の言っているのが事実なのだとしたら。それはつまり。
彼女が手をどければ、芙実乃が手を振り払えば、この世界から景虎が消えてしまうのだ。
信じがたい気持ちと、信じたくない気持ちが勝るが、握られている手の甲はもうぴくりとも動かせなくなった。精神的な息苦しさで呼吸を荒くしながらも、せめてこれ以上逃がすまい、と芙実乃は空いていた右手を、アニステアの手の甲へとさらに重ねる。
「逃げないわ。芙実乃さんが柿崎様ときちんとお別れを済ますまで」
アニステアも空いていた左手をテーブルの上に出し、芙実乃の右手を、痛ましそうに優しくさすりだした。元々、芙実乃が手を伸ばして重ねたところからはじまっているため、芙実乃の手の短さでは、テーブルに突っ伏しているに近い体勢になってしまう。アニステアの逃げないという言葉は偽りではないのかもしれないが、芙実乃からすればアニステアの手はいまや命綱すら比較にならないくらいの、縋るべきものだった。
アニステアの左手は、そんな芙実乃の手を剥がすそぶりも見せず、芙実乃の手の甲をさすり続けてくれていた。まだまだ混乱は収まらないが、しばらくじっとしていられたからか、呼吸はやや持ち直してくる。そんな様子をずっと見ていたアニステアが、静かに語りだした。
「落ち着くまで、おそらく異能と分類されるであろう、この能力のことを話しておくわ」
芙実乃は頷きもしなかったが、反射的に上がった目線に、アニステアの表情が入り込んだ。それは、懺悔としか言いようのない深い悔恨に彩られていた。
「わたしがこの能力を継承したのは、十六の時。母からお気に入りのカップを壊すよう強制されて渋々従うと、カップを壊さなかった状況を想像しろと言われ、こんなふうに母に手を重ねられた。手のぬくもりで身体中を包まれたような不思議な感覚になったわ。でもね、その瞬間に継承が二度目だったと唐突に気づいていた。カップを割れだなんて理不尽なことを言われたのは初めて、なんて直前まで思っていたのに、一年前にもまったく同じことがあったのを思い出したのよ。たぶん似たシチュエーションでこの能力を継承してたはずの母は、わたしに去年のことを思い出したか確認してきた。頷くと、去年とは違う、継承の方法が語られた」
アニステアは芙実乃の手をさすっていた左手で飲み物を取り、喉を湿らせた。芙実乃は手をどけられたことに焦り、顔を上げるが何も起こらない。やはり本命は芙実乃が押さえているほうの右手なのだろう。右手のほうは完全に脱力されていて、抜き出される気配もなかった。
冷静になれたとまではいかないが、相手の顔を見ておかなくてはわかる嘘にまで騙される、くらいにまで判断力が回復する。そのままアニステアの顔を見ていると、続きが語られた。
「前回の母は、この能力は世界を変えるものだと教えていたの。カップが壊れなかった一年を過ごしたわたしには、あの時の話は事実なのだとわかった。母はわたしが、そのことを一年忘れてしまった理由をこう語ったわ。それは世界を元に戻さなかったからだ、と」
「…………世界を元に戻す?」
「主観的には戻すでなく、近づけるのほうが正確に近しいと思う。だからわたしはこの能力がわたしの中にあるうちにもう一度カップを割った。一年前と直前、そして母の手が離れたあとの、都合三度カップを割ったことになるわ。そうしてわたしはこの能力の所有者になった。するとね、その夜にも、母はカップが割れたことをわたしに謝ってきたの。祖父か祖母のせいだと思うけど、怒らないであげてってね。そう。母はその時には、この能力のことだけ、能力を使っていた記憶だけが抜けた状態だった。芙実乃さんなら、なんとなく納得できるでしょう。だって、現在の能力の所有者はもう芙実乃さんになっているのだから」
「わたしが……所有者……?」
「継承中、ということになるでしょうけど、そう。一度目、カップが壊れてない世界に変化した時の、わたしの体験を話すとね、暫定的にでも能力の所有者はわたしだったから、カップのことを母に聞いても、まるで心当たりがないって顔だった。わたしも当初は変な夢でも見たのかななんて思ってた気がするけど、いつの間にかそれも消えてた。その期間は十日ほどだったらしいわ。つまりその十日のうちにカップを割っていれば、わたしは世界を元に戻したことになって、一度目で能力の継承まで済ませられてたことになる。母が十日だとわかったのは、母に能力が戻って記憶が戻った時が、カップを割らせた日から十日経ってたからってこと。ただこの日数は、元の世界の記憶を留めておける時間とは一致しないし、どんな変化の世界でも等しく十日になるわけでもない。あくまでもその時が十日だったというだけ。実際、わたしが母の買い忘れをなくすよう世界を変えた時は、六日くらいで能力は戻って来てた。渡す時につまらない使い方をしてって母に呆れられたけど、本当の目的は能力のことを覚えている母と話すためだった。こうして、手を重ねている瞬間だけは二人に能力の記憶がある状態にできるとも教えられてたから」
「じゃあ、世界が変わっても、すぐアニステアさんに能力を渡し返せば、この話し合っている状態には戻せるんでしょうか?」
「いいえ。それはたぶん、渡すこと自体がまだできないと思う。芙実乃さんはすでに所有者ではあるけれど、変化した世界では、世界を現状の形に近づけない限り、能力を渡された事実がないことになる。だって柿崎様が召喚されてない世界で、わたしが芙実乃さんに能力を渡す理由はないから。だから変化後の世界が定着しつつある段階で、芙実乃さんの記憶、能力に関する記憶でなく、いまの世界に関する記憶のほうが、柿崎様が召喚されてない世界のものにすり替わってしまう。そうすると世界を変える能力は、所有者としての蓋然性が高いわたしに戻ってくることになる。そして、変わりつつある世界のわたしはそれまで芙実乃さんとの面識もないはずだし、能力のことを聞いたとしても初耳という顔をするはず。本当に申し訳ないのだけれど、その時点のわたしを糾弾しても、なんの心当たりもないのにって、芙実乃さんのことを理不尽だとひたすら信じ込んで、自分の正しさを少しも疑わない言動をするのだと思う」
どういう絶望なのだそれは、と、芙実乃は血の気の引く思いでアニステアを見つめる。
アニステアは、後ろめたさが色濃く滲む、苦笑の顔で続けた。
「とても厭な思いをさせることになると思うけど、でもどうか、ありったけの恨み言と思いの丈を言いに来ておいて欲しい。芙実乃さんからはそのうち、そんなことを言った記憶さえ失われていくけど、それでもわたしには、自分が正しいと思って芙実乃さんに取り合わなかった記憶を残したまま、柿崎様を、あの神々しい人を存在ごと消し去った悪事の記憶を持った、いまのわたしに戻るから。果てが見えない人生で一生、その記憶を抱えていくから……」
アニステアが左手で目頭を押さえると、テーブルには幾粒もの涙が落ちた。芙実乃が両手で挟んでいる右手も酷く震えていた。彼女の罪悪感は本物だ。芙実乃や景虎が恨まれているとかは一切なく、心の底から申し訳なく思われている。許されようとも思ってないかもしれない。
アニステアとは現状、手だけでなく、魂まで重なり合っている気がするからわかるのだ。
だからこその疑問が浮かび上がってくる。
「どうして、この世から消すのが景虎くんじゃなきゃならないんでしょうか?」
「わたしのパートナーの名前は、ウルト・ティスクオム。心当たりはある?」
「……すみません、初耳のはずです」
「いいの。なんとなくは察してたから。わたしのことにだけ気づいてないって可能性もあったから聞いてみただけ。芙実乃さんはきっと、ウルトの負けた試合なんて見てないのね。でも、これを聞けば因果関係はわかるはず。ウルトのね、一勝一敗で迎えた前回の第三戦の対戦相手は、クロムエル・テベナール。バダバダルさんが転校してしまった現状で身体評価が一番高いはずのあいつが、一勝一敗になんてなってなければ、ウルトは勝率五割を割り込むこともないまま、まだ十二徒の可能性を残せていたはずなのよ」
景虎と芙実乃には申し訳なさしか持ってないアニステアだが、クロムエルに対してだけは、憎しみ混じりの強い憤りがあるようだった。
「あの、じゃあ、三回戦のクロムエルさんを負けさせるとか、景虎くんに対しての勝ちを返上させないとかの世界に変えるのでは、だめだったんでしょうか?」
「残念だけど、わたしからすると、その改変は元に戻される可能性のほうが高い賭けになる。確かに、ウルト戦でのクロムエルに決め手を迷わせるくらいはできるでしょうけど、そのあと改めてクロムエルが勝ってしまえば、わたしは望みが叶わないだけでなく、能力をただただ失う。また、彼に勝利を返上するのをためらわせたところで、一瞬後に彼は決断し直して世界を元の流れにするはずで、能力を失うのはその場合も同じ。例えばわたしは、母の買い忘れを防ぐ程度の世界の改変を、元の世界の生前では繰り返していたのだけれど、それは、失敗しても能力をわたしに返すのがわかっている相手であり、世界を変化させれば元の世界に戻す行動を性格的にしない、という確信があればこそ。買い忘れなら、店でお金を払ったあとに気づかせても、面倒くさくて買い足さない場合だってあるわよね。だからどのタイミングで何を思うようにするか、というのをどう相手に想起させるかが、世界を改変へと導く重要な鍵となるわ」
それで芙実乃は、景虎を呼べる言葉を発する直前に、その言葉への自信を喪失されるようにされたのだ。アニステアにとって多少の賭けになるのは、芙実乃がその状況でも、元の言葉に信念を持ち直すこと。過去の芙実乃がそうであってくれたなら、世界の改変は起こらず、能力が芙実乃に渡されたこの事実も消えずに、渡したアニステアからは能力に関する記憶が消えるということになるのだろう。芙実乃の希望は、その分の悪そうな賭けに勝っていることだ。
しばらく経つといまの世界に関する記憶が消えてゆく、と言うのだから、芙実乃は実際に過去に戻れるわけではないに違いない。それが可能なら、芙実乃は過去で元々言った言葉を言えば世界を戻せるわけで、こんな説明はアニステアにとっては百害あって一利なしのはずだ。
それでもアニステアは、そこを誤解させないためになのか、さらにこんな例を挙げてくる。
「それと世界を改変しても時間が戻るわけじゃないから、わたしは食事前に豪華なメニューが用意されるように普通におねだりして、食後にダイエット食を望んでいたように世界を改変する、なんて使い方ばかりしてたわ。自分自身の行動変化を直接促せるわけじゃないのが、この能力の汎用性のなさよ。過去の自分に試験勉強させるよう母の過去を変えたりしたけど、変革された世界の勉強した記憶は、現在の自分にはないから学力は身についてない。テストの点は微増してたりもするけど、繰り返せばずるずると成績が落ちるのが目に見えた。だから、こんな大事になりそうな変化もだけど、母以外に能力を使うのも初めて」
実際、それは嘘ではないのかもしれない。アニステアは悪事が露見しないかだけに苦悩するという、良心の呵責を一切覚えないような腐った性根の持ち主ではないと思う。バートナーが負けるのに耐えきれず、景虎を消すという手段を取らざるを得なくなったに違いなかった。
「でも、三戦目でトップのクロムエルさんと試合を組まれるというのは、一勝一敗の戦績の中では最下位ってことになるんじゃありませんか? だとしたらこの改変に意味は――」
「そうね、どう転ぶかの把握を、わたしができてるわけじゃない。だけど、この学園での影響力を考えると、柿崎様以上に変化を起こせる人間はいないのは明らかなの。一つ目は、柿崎様が身体評価順を覆して勝利を続けていること。つまり柿崎様は、試合を重ねるごとに一人また一人と、上位から一敗に堕としている。本来なら二戦目は二千四十九位から最下位までで争われるところに、無敗でトップでいるはずの人を堕としてしまうのよ。ここが順当でさえあってくれたなら、わたしのパートナーが一勝一敗の三戦目で戦うのは、同戦績のトップだったとしても、千二十五位止まりだったはず。そして、一勝二敗の中でわたしのパートナーはおそらく身体評価が最上位。三戦目に千二十五位相手なら、バダバダルさんやクロムエル・テベナールと戦うほど自信を失いはしないわ。むしろ、わたしのパートナーこそが千二十五位である可能性だってないわけじゃない」
「……ちょっとその、計算方法がわかりません」
「芙実乃さんはポイント戦の扱いをまるで気にしてないからよ。前戦ポイント戦だとね、身体評価にかかわらず、ポイントの低い順に最下位から配置されることになるのだと思う。ポイントランクの人数を数えてみるとね、初戦は実戦とポイント戦が半々だったの。そこで歴代でもトップのポイントを叩き出していたのが、ピクスア・ミルドトックさん。初戦実戦勝ち組の中で身体評価最下位だった柿崎様が彼と試合を組まれるのも、不思議ではなくなるわ」
「ポイント戦の歴代トップが、全体のトップになってたわけじゃないんですね」
「わたしたちもそう考えて、ポイント戦に無警戒で二戦目に臨んだ。相手方が一万ポイント譲渡してのことだから避けようはなかったのだけれど、ウルトはその試合で優勢になると、戦意を喪失した相手にそれ以上は攻撃を加えず、優勢勝ちになったのよ。おそらくはそのせいで、ウルトの一勝一敗の中での順位が最下位になって、相手がクロムエルになったのだと思う。彼の優しさが仇になったのね。彼は魔物と戦った勇者として名を残しているのだから無理もないわ。クロムエルみたいな人殺しではないんだもの」
そう言えば、アニステアは第三戦で、パートナーが頭を割られて脳が飛び散ったと言っていた。一戦目では重傷で止めての敗戦だったとも。アニステアのパートナーを殺した唯一の対戦相手は、クロムエルだったのだ。クロムエルは精度ならあると思うが、全力で振るのを自在に止められはしなさそうだから、殊更惨く殺そうとしたわけではないのかもしれない。しかし、それを目の当たりにしてしまったアニステアの恨みつらみは、致し方ないものがあった。
「理解できてきてるわよね、芙実乃さん。柿崎様と話せる時間は、学校施設の終業時間が限界の最大値。ただし、柿崎様がここに来た瞬間、絶対にわたしはこの手を抜くから、そこが現実でのリミットになる。それは、貴女に起きた異変を柿崎様に喋っても喋らなくても同じ。貴女はそれをはぐらかしたまま、ここから退去させられるまで、柿崎様となんでもない会話を続けてもいい。もっと頭に整理をつけて、打開策を二人で話し合うのもかまわないわ。わたしはそれらには、一切の邪魔も、繰り上げての世界改変もしないと約束する」
見つめ合ったアニステアは、悲壮な眼差しを真っ直ぐこちらに向け、芙実乃に宣告した。
「だから芙実乃さん、柿崎様とのお別れをどういうかたちにするかは、貴女が決めることよ」




