Ep04-02-04
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脳加速の補助は解けたが、片手が最初から窓で、もう一方の腕もマチュピッチュに搦めてあるため、芙実乃はふらつきもせずに常速に戻れていた。ただ、いきなり脳の処理に補助が入らなくなったせいもあってか、現状への理解がまるで追いついてこないでいる。
景虎の対戦相手だったティラートが土下座で謝罪しているが、言っている内容は理解できても、どうして彼が負けているのかがよくわからないでは、思考を上手く前に進められない。
要するに、芙実乃は茫然自失としているのだ。
それでも、隣りにいるマチュピッチュとその奧にいるルシエラが呟く一言一言のニュアンスが、疑問から喜びに変わってゆくにつれて、ようやく脳がやるべきことを模索しだしてきた。
まずは景虎を迎えに……と思ったところで、試合場へ向かう時の景虎から、自分が戻るまで控え室で待つように、と言われていたのを思い出す。今回の試合場から教室へと向かう場合、結局もう一度控え室前を通ることとなり、控え室組が景虎を迎えに行くと、無駄な往復をするはめになってしまうのだ。
つまり、芙実乃が当面やるべきことは、景虎の帰りを待つことのみ。
正しく現状を認識しだすと、改めて、整理のついてない景虎の逆転劇について、疑問を解消しようという気にもなってくる。と同時に、若干の腹立たしさが顔を覗かせてもきた。
誰に、と問われればそれはクロムエルやアーズに対してであり、芙実乃はその腹立ちを紛らわすかのように、つい詰問口調で言い放ってしまう。
「防御は絶対、間に合わないはずじゃありませんでしたか」
だが、芙実乃はそれを言った途端、厭味や当てこすりに取られやしないかと、すぐに後悔しはじめた。攻撃的な意思は本当になかったのだ。が、多少言い訳をさせてもらえるなら、景虎の脚が斬られるだなんだとさんざっぱら脅されたのだから、正当な怒りの表明だと、見逃してほしくはあった。景虎の決着風景をまともに認識できなかったのも多分にそのせいなのだ。生きた心地もしないくらいの精神状態にした張本人への恨めしさがなくなったわけではない。
しかしクロムエルは、芙実乃の詰問に対しては、苛立ちも反省も感じてない様子だ。
「マスターのお考えには、そもそもわたしが及ぶはずもありません。それに、このような撃ち落としを防御のうちと思っている御方など、マスター以外にはおられないのではないかと」
普通の質問に普通の答えで返しているという顔をしていた。日頃からクロムエルは芙実乃を敬うよう接してくれるが、気持ちを汲んでくれているのとは微妙に違う。義務だけでそうしているとまでは思わないが、敢えてで言うなら、その間柄は店員と客に近い。その楽な距離感を崩すくらいなら、正当な怒りでも芙実乃が呑んでおくほうが、景虎を煩わせずに済む。
考えてみれば、脅されたと言っても、クロムエルからすれば、景虎に関しての楽観論を女性陣に聞かせるわけにいかない、というのもわからなくはない。安心させておいて裏切るくらいなら、心の準備をさせておくほうがましと思うのもわかる。されるほうとしてはたまったものではないが、クロムエルとてのちのち非難を受けることも覚悟した上で、悲観論を話すのだろう。それに、景虎の考えには及ばないというのが、やはり一番の理由なわけで、それなら読み違えていても致し方ないとしか言いようがないのだ。
そういうこともわかっているからなのか、アーズがフォローするように話に加わってきた。
「防御にもなってるって意味じゃ、俺ん時と似たり寄ったりのやられ方になんのか?」
「お前の場合は、剣を振っている最中の肘をずらされ、その動きでマスターは体勢を戻されておられたな。わたしも月一戦では、構えをどかされたのが決め手だったし、相手の腕を……、攻撃でも防御でも必ず主体として使われるであろう腕をどうにかするというのは、マスターにとっても崩しの基本理念なのだろう」
「崩しどころか、今回は直に手を壊してんだ。ってことは極論、腕を前に出してんのがだめってことだろ。身体を守るための腕であって、腕を守るための腕はどこで用意すりゃいいのって話にならねえか?」
「確かに。攻撃で近づけた手を狙われるとなると、ますます遠間から仕掛けるしかなくなる。そうなると、良くて牽制くらいの仕掛けにしかならず、攻撃手段を封じられたに等しいな」
「お前はリーチがある分まだマシなんじゃねえの?」
「マスターとて、長い剣を真っ直ぐに振り下ろす動きだからこそ捉えられるのだろう。起動変化の可能性がある程度残っていれば、剣を振る手の甲を狙おうなどとは思うまいさ」
芙実乃はここでようやく、決着の概要が掴めてきた。
「景虎くんは、敵の手の甲を斬ってたんですか?」
「え? いえ、斬ってはいませんね。抜ききってもいませんでしたし。マスターは、脇差の柄で相手の手の甲を砕いてしまわれたのです。これは同時に防御にもなっていますから、相手の攻撃を横に弾き、マスターの脚を傷つけることもなくなりました。刃で刃を逸らし合う攻防なら普通……ですが、芙実乃殿は逆に見たことがないかもしれません。マスターの場合ほとんどそれをやりませんから。ただ刃と刃、柄と生身という違いはあれど、防御の文脈で考えれば両者は等しく攻撃を逸らせることになりますし、後者であれば相手の無力化すらできてしまう。相手方が棄権したのも、それでかと思いますよ」
「柄で横に弾いてたから相手はあんなに転がってたんですね。ものすごい威力だったってことですか?」
「すげえ威力……なのか、あれは? いや、実際吹っ飛んでるし……そこ、どうなのよ?」
芙実乃の疑問にアーズが即座に反論しかけたものの、芙実乃の見解を覆すだけの材料に窮したようで、その続きをクロムエルに丸投げにした。
「威力――は、確かにない……ようで見た目よりはある、か。それでも芙実乃殿、あれはマスターのお力で吹っ飛んだのではなく、相手の自滅要素が強いかと。そもそも彼の攻撃は、当たろうが当たるまいが、振り終えた途端に二転三転する勢いのもの。マスターはそれを横に弾いてはいましたが、相手が一度だけ横転したのは、相手の受け身に近い身のこなしもあってのことだと思われます。ただ、彼は彼でそうしなければならなかったほど、そのまま転倒するのが危険だったということでもあるわけですが、マスターの攻撃は、骨を砕く威力ならあっても、人を転げさせるような押しの強さがあったとは思えません」
「それは、景虎くんが力があまりないからってことじゃなくて、柄での攻撃なんかでは、誰がやったって人は転ばせられないという意味合いでしょうか?」
「はい。例えばわたしはマスターより重い物が持てますが、わたしに同じ真似ができたとしても、相手を飛ばすどころか、手の甲を砕く威力だって出せないでしょう」
その答え自体には満足したが、芙実乃はこの事象に物理的な整理をつけられなかったため、そこを掘り下げることにした。
「どうして景虎くんのほうが威力を出せてしまうんでしょう?」
「一番の要因は得物の重さですね。振って使う分には武器は重いほうが威力も高くなるのですが、真逆の使い方、柄で攻撃する場合だと武器の重さは重りにしかなりません。大雑把に言いますと、攻撃に使いたい部分の真逆に重さがあるわけですから、ゆっくりにしか動かせない。振る場合に最適な重さの武器では、柄での攻撃には向かないということです」
荷物の詰まった旅行トランクを振り回せば大層な威力にもなろうが、それを持つ取っ手で殴り上げてもせいぜいが持ち上げた力が伝わるだけで、荷物の重さは威力に加算されない。こうなると、逆に景虎がなぜ柄に威力を加えられているのかが不思議になるが、クロムエルはまだ景虎以外にそれができない理由を話しただけで、説明は続いている。
「それに対し、マスターの刀は重さで斬る武器ではなく、切れ味と技術で斬る武器。とりわけ脇差ともなれば、長さも短く、そもそもの重心も柄に程近い。わたしはわたしの剣の柄で殴るより拳で殴るほうが相手を殴り飛ばせるでしょうが、マスターは拳と刀で同等、脇差だと適度に加えられることになる脇差の自重が拳より威力を増すほうに働くのかと」
「そういうことなら、脇差と似た長さの短剣を使うアーズさんも、威力を上げられる?」
アーズは首を捻りつつ、頭の整理がついてないような喋りだしをしてきた。
「お嬢、そりゃ難しいぜ、たぶん。振る軌道をちょいと手前にずらすだけで刃に当てられるから、やろうとしたことがないっていうのもあるけどよ、実際問題、その威力は骨を砕く程度だし、ピンポイントで骨に当てなきゃなんねえのと、その骨を見つける苦労もあるだろ。なおかつ、骨が砕かれても敵の攻撃が止まんねえ場合のほうが多そうだし、それで止まると確信できるような相手なら、そんなリスキーな真似する必要もないしな。あと、柄の構造が、俺の短剣だと突き刺しと投げがしやすくなるようにって、少し角度がついてんのよ。そんな柄頭で殴りつけたら、手から短剣が抜けちまうし、その分威力だって落ちることになる。角度が逆についてるくらいじゃなきゃ砕くなんてとてもとても。罅入れるくらいがぜいぜいだっての」
クロムエルが頷いて、補足してくる。
「それにマスターのあの攻撃は、単に振り回しただけではないですしね。技術的にも威力の嵩上げがありました。後方への移動、身体の回転、抜刀の長さ、それらを複合した速さがあの瞬間の脇差の速度。この速度が威力に直結するのは言うまでもありませんが、物を速く動かせば動かすほど、進行方向に重みが伝わりやすくもなります。何も考えなくても、速く動かせれば自然と荷重を前に寄せて来られる。力が強ければ強いほど、言い替えれば力の量が多いほど、物を速く動かせるわけですが、マスターはこの、力の量さえも補ってみせてくれました」
「力の量を補う?」
「ええ。武器の重さは重りだと言いましたが、マスターは脇差の重さを、鞘の括りつけてある腰に担わせることで、腕の力に余裕を作り出しているのです。だから、腕の力を余すところなく抜く速さに転換することができた。瞬間的な速さを得ることもできた」
重い荷物でも、つるつるの床に置いてあれば、実際の重さより軽く押し引きできる。
居合いなどという言葉すら知らなかった景虎だが、それを極めようという流派の研鑽に通ずるものさえ、我流で培われていたに違いなかった。
クロムエルの補足がさらに熱を帯びてくる。芙実乃は景虎本人が好きでたまらないのだが、クロムエルは景虎の技量的な部分こそが好きでたまらないのだろう。
「ただしそれでも、動かした物の重みを余すことなく対象に伝えるのは至難の業。しかも斬る場合ならそこそこずれていても簡単に修正できる角度が、力の動く向きまで合わされた上で、狙った位置に点で合わされなければならない。当てたくない角度で柄を当てても、骨を砕くどころか骨に罅を入れることさえできませんからね。この角度の芸術的なことときたら……」
陶酔混じりの男の声を気持ち悪く思いながらも、景虎の話なのだから、と芙実乃は我慢してなんとか合いの手を絞り出し、話の続きを促そうと試みる。
「ぴったり真横から突き立てたわけですね?」
「いえ、横合いと言えなくもありませんが、真横ではありませんよ」
「あれ? でも敵は最初真横に転がってたような……」
「相手の腕がちぎれ飛んだわけではありませんからね。真っ直ぐに振り下ろしている最中に、多少なりとも横合いから攻撃を受けてしまえば、腕は横にずれるしかなくなるんです。腕が肩で繋がっている以上、そうとしか動きようがない、ということなのですが……」
馬鹿にした口調にならないよう工夫されているのだろうな、とは思っても、別に悔しくなりはしない。景虎やルシエラからそうされれば焦りもするが、元々そうプライドが高いほうではない芙実乃は、馬鹿や愚鈍に見られても迷惑をかけたのだから仕方ないと思う質だ。
こくこくと頷く芙実乃を見て、クロムエルはさらに補足しようとしてくれる。
「あの時のティラート殿の振り下ろしは、本当に純度の高いものでしたから、余計に横合いからの攻撃に弱かったのだとも思いますよ。この現象までは上手く説明できませんが」
おそらくクロムエルは、走っている車に横から車が突っ込むと、重さを失くしたかのように滑ったりひっくり返るようなことが言いたいのだろう。止まっている物より動いている物のほうが、別角度からの力に弱くなる時がある。ということを、芙実乃もまた上手く説明できそうにないため、余計なことは言わず、逸れていた話の路線を戻すだけにしておく。
「えっと、じゃあ、真横でないなら景虎くんの脇差は、どう動いてたんですか?」
「そうですね。剣を両手持ちにして、真っ直ぐに振り下ろす、という手の握りを、正面でしてみてもらえるとイメージしやすくなると思いますが」
芙実乃は言われたとおりにやってみる。頭に乗せた腕を伸ばして目の前で止める感じだ。クロムエルの指示だからルシエラは見てるだけだが、マチュピッチュは真似ていた。細かなところまでは無理でも、話が通じている証拠だ。そんな二人を見て、逆サイドの奥でクロムエルが頷いているのだから、どちらもそこそこは恰好もついていると思っておく。
「では、その恰好のまま手の甲に注目してください。物を握って真っ直ぐ正面で手を伸ばしていると、どうです? 手の甲は斜め後ろを向いているでしょう。マスターは、その手の甲に、ほとんど垂直に柄を突き立ててみせたのですよ」
「ピ、ピー……」
マチュピッチュが怯んだように手を引っ込めた。芙実乃も思わずそうしたくなるくらい、リアルに柄が刺さる幻影が見えた気がする。確かに、この攻撃は想像すればするほど恐ろしくもあった。あの瞬間のアーズが呻いていた気持ちがいまになってわかる。しかし、戦闘音痴の芙実乃でさえ、脳から何かしらが分泌されるのか、高揚感が湧いてもくるのだ。
クロムエルもたぶん、ずっとそんな感じで喋り続けているのだろう。
「芙実乃殿はいまちょうど、腕を突き出してますよね。そこが円運動の中では横の端に当たるわけですが、振り下ろしの手は以後進めば進むほど、下に向かうと同時に前後で言うところの後ろに戻るのがわかるでしょうか」
芙実乃は頷く。時計の三と六の位置関係を思い出すと、下と横は同じだけ動くのがわかる。
「つまり、マスターの脇差は、先行していた相手の手を追いかけていて、相手の手は引き返そうとしていた。その瞬間の正面衝突でもあったことが、威力を高めた一因となってます。相手の振りが尋常ではなかったことも、逆に彼のダメージを大きくしただけに。また、遮るのには間に合わなくても、遮るより下で、戻って来もする手の甲になら、突き立てるくらいは余裕で間に合う距離にしてしまえる。それがわかっていたからこそ、マスターは終始慌てるようなこともなく、平常の、余裕のスピードでしか動いてなかったんでしょうね」
芙実乃は景虎が凄くなくても一向にかまわないが、凄ければやはり嬉しくなる。ルシエラ、マチュピッチュとともに、控え室に戻った景虎をミーハーに取り囲むのだった。




