Ep04-02-01
第二章 景虎が消えた日
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景虎の月一戦第四戦の幕が上がる。
待ち受けて戦う、などという奇妙な約束を相手方に取りつけられた景虎は、動かない。右足を前方に捻り置き、やや腰を落とした、開始前と変わらぬ体勢。右手はまだ鞘になく、指で左肘を抓んでいた。この指を離して鞘に落下させれば、抜刀の初速に落下速度が加算される。
まさに万全。
同じ条件での訓練を申し出ていたクロムエルが達した結論がそれだ。
実際、手の落下速度を初速に乗せ抜き放つ景虎の抜刀は、本気で振ることのあまりない景虎の振りの中でも速い部類に入るし、カウンターとして用いられたこれを、防ぐことや避けることが可能だとはとても思えない。なぜなら、振りかぶるといった一切の予備動作のない、刀を射出するがごとき攻撃で、柿崎景虎その人が敵を引き込み隙を狙い定め、一刀のもとに斬り捨てに来るのだ。そんなものを防ぎ躱す手段が、そもそもあるのかすら怪しかった。
スピードの勝負では分が悪過ぎるのだ。
いや。それでも景虎より速い攻撃で仕掛けるだけならできなくもない。
ただし、待ち受ける景虎を斬りに行くという仕掛けの性質上、振っている時間、攻撃側の剣の移動距離のほうがどうしても長くなってしまう。さらには、攻撃側がどう効率良く仕掛けようと、引き込んだ相手に対してのカウンター動作をするだけでいい景虎は、半分以下の挙動をすれば万事片付いてしまうのだ。実質、二倍の速さで動かなければ五分にすらならない。
急いでいない景虎の刀捌きに対してだって、速さを倍にして対峙するなんてのは人間の限界を超えるのに、何にどう都合をつければあのカウンターよりも速く自分の攻撃を当てることができるのか。いくら考えても、クロムエルにはそのアイデアが浮かばない。
案の定、今回景虎と相対すこととなった、ティラート・ロー・サイルーグは、なんの工夫もなく、一直線に突っ込んで来るだけだった。無骨。愚直。景虎や芙実乃の印象、過去三戦の戦いぶり、聞こえてくる噂、どれを取っても、そんな人物像しか浮かんでこない。仮に異能を隠していたとしても、騙し討ちで使えるような厚顔さとは無縁とさえ思えてくる。
だから、全力の自分を見せる、というのがただただ正直な申告なのだろう。
おそらく、勝負が駆け引きの要素の多い展開になると、全力なんてものは出せずに終わることが理解できているのだ。学年でも屈指の実力者であることは疑いないし、人間同士の戦いを主軸に置いているようだから、それがわかっても当然か。
さすがに初撃だけで景虎を斬り伏せられるなどとは思い上がっていないだろうから、受けか流しか躱しを経てからの繋ぎのパターンを用意しているはず。見所はそのどこで景虎が相手を崩してゆくか、だ。が――。
隣りにいるアーズが、不審そうに確認してきた。
「これもうトップスピードだよな。ちょっと早過ぎねえ?」
アーズが問う早さとは、トップスピードの速度ではなく、トップスピードに到達するタイミングとしては尚早なのではないのか、というものだ。確かに、ティラートは試合場の端から端まであった景虎との距離をおよそ四分の一進んだ段階で、つまり四分の三も残しているのに、すでに全力疾走に入っているように見えた。
「バダバダル戦でマスターが見せた急制動を真似て……にしてもおかしいな」
景虎があの時に見せた足運びは、一歩の距離を徐々に長く、一歩にかける時間を徐々に短くするというもの。歩数のリズムに意識を凝らせば、徐々に速まるテンポに精神が次第に追い詰められてくるし、歩幅だけに意識を凝らすと、そのテンポアップには対応できなくなる。両者を統合した予測をもとにしなければ、対等な駆け引きにすらならない。全力疾走の一定速度で近づくだけでは、それの著しい劣化版にしかならないのだ。
それに何より、全力疾走を長引かせても疲れてしまうだけ。疲労の蓄積だけならともかく、筋力の出力まで落としてしまう愚を、それを景虎との戦闘中に引き起こしてしまう取り返しのつかなさを、知らない、考えない相手であるはずがない。
彼は愚直だが、戦いのマネジメントなら、前回までの三戦すべてで見事にこなしていた。
だからこの早い段階での全力疾走には、なんらかの意図が隠されているに違いないのだ。
クロムエルは左のワイプ、景虎の左手側から両者を映しているワイプの中のティラートを、脳加速の補助機能を使って拡大表示にする。欲を言えば、景虎から見えるはずの景色を映している下のワイプだけを見ていたかったのだが、諦めて視聴環境を存分に活用することにした。
ティラートはすでに剣を抜いている。彼を真後ろから見れば、上段で掲げられた剣が、背中側に傾きなく垂れて見えるはずだ。剣を体幹からずらしてしまうと、走りの軌道もそちら側へ寄せられてしまう。確実とは言いがたいが、彼はまだ攻撃態勢に入ってもいない。胸も両腕も後ろに反れてしまっているのは、速く走ることに注力している証と言えた。
ならば、いまもしティラートに瞬間移動を仕掛けられても、この体勢からの振り下ろしなら躱せる余地がある。クロムエルは瞬間移動の可能性を本気で疑っているわけではないが、景虎だったら頭の片隅くらいには置いているはず。待ち受ける景虎の守りを突破できるイメージがない分、クロムエルの想像は超常の方向にばかり働いてしまうようだ。
ティラートはその後も愚直な全力疾走を続け、景虎との距離は四分の一を残すのみとなる。
その時。
「跳……ぶ?」
些細な足運びの違いにアーズが気づいた。十分の一倍速で見てるから、右足のつま先が地面から離れるのが若干遅れ気味になってると、俯瞰で見てるとわかるのだ。つまりこれは、地面を長く踏み締めての跳躍の準備。ゆっくり見ると、ゆっくり見るなりの感覚の理解があった。
その、アーズの予見は、体感時間でもわずか数ロム後に、正しさが証明される。
距離を出すためなのか、ティラートの身体は、疾走時よりも高みを目指すかのように、宙に浮き上がってゆく。間違いなく跳躍だ。最高到達点がどこになるかで跳躍距離は変わってくるが、さすがにこのままで体当たりにできるほど跳べるはずがない。
だとしたら、手前のどこで着地するのが、ティラートにとっての最善になるのか。
ぞわり、と総毛立たせるような嫌な予感に、クロムエルは意図せず呻いていた。
ティラートの狙いがおぼろげながら読めてきたのだ。その読みどおりの最高到達点を境に、ティラートの身体は着地点へと落下していく。景虎に動きはない。いや、動けないと言ったほうが正解かもしれない。後の先を狙って待ち受ける、なんて約束の存在が、景虎から一歩踏み出すという選択肢を除外させてしまっているのだ。
なんの縛りもない対決であれば、こんな隙だらけの跳躍など、着地の寸前にでも景虎が斬り伏せて終わる勝負だった。それによくよく考えると、その縛りがあってなお、一歩踏み出して仕留めるというのは卑怯でもなんでもなく、待ち受け戦法の一形態でしかないのに。
そう。本当に本気で待ち受けて敵を返り討ちにしようとしている人間なら、一歩も前に出てはいけないなんて、露ほどにも考えるはずがないのだから。
しかし、この時ばかりは、言葉の綾が絡み付き、景虎を自縄自縛に陥らせてしまった。
クロムエルとアーズの二人から漂いだした、してやられたという苦い空気に勘づいたのか、芙実乃が焦りを滲ませながら質問を投げかけてくる。
「これってもしかして、勢いに任せて景虎くんに斬りつけようってことですよね?」
なかなかに的を射た読みだと、クロムエルは感心した。芙実乃は景虎のことをよく知ろうとしてるし、同世界人の感性なのか、クロムエルよりも景虎の剣の本質を理解しやすいところもあるくらいだ。クロムエルの説明を聞いて、クロムエル以上の正解に辿り着くことさえある。
心配のし過ぎで面倒にも感じられることもあるが、自分にない発想を出してくることもあるという意味では、似通った結論を出しがちなアーズよりも実りが期待できる話し相手だった。戦闘音痴に戦闘の基礎を教えるような時間もまったくの無駄にはならない。
景虎の危地とあらばクロムエルとて目が離せないが、脳加速補助を受けているのだから、話をしながらでも見るほうへの集中は途切れないだろう。クロムエルは会話に応じておく。
「はい。どうやらそれが、相手がしたかったことのようですね。妙な約束さえしてなければ、マスターはこの瞬間にも前に踏み出して、無防備なところを狙い打てたはずなのですが、いまのところそうするおつもりがないのかもしれません」
「だったらこれを、こんな勢いの突進を、景虎くんは避けなくちゃいけないってことでしょうか?」
「そうなります。受ければおそらく刀を折られるレベルの強撃が来るので、受け流すのも賭けになるかもしれません。また、そこまで引き付けてしまってからだと、的確な反撃で相手に致命傷を与えられたとしても、敵の攻撃が止まることはない。即座に意識を断つほどの反撃ができれば無傷で凌げる可能性もありますが、そもそもの相手の剣が相打ちを覚悟して振られてくるはずですから、掠りもさせないというのは困難を極めるかと。それにマスターの場合、意識を断つような攻撃が、相手を吹っ飛ばすのと同義にはなりませんから、勢いのついた相手への反撃自体が、想定のうちにあったのかどうか。畢竟、避けの勝負になるでしょうね」
芙実乃が言葉に詰まる。実際に息を詰めてしまったのかもしれない。どうしても観戦に意識が集中してしまうため、あまり表現に気を配ることなく、思ったことを正直に説明してしまった。脳加速処理の影響が相まってるのだろうから、以後も気をつけられるかどうか。
景虎の指が肘を離す。刀を抜く初動中の初動。俯瞰の映像なら左右どちらからでも見られるのに、迷わず左を見ていた理由は、左側からでないとこの挙動を見逃すからだ。
しかしクロムエルはここで目線を移し、景虎の視点から見える下のワイプからの映像で相手を観察することにした。理由はもちろん、景虎が何をきっかけにして刀を抜く判断に及んだのかを確認するためだ。幸いなことに、左のワイプで視界がいっぱいになっていた脳加速補助のほうの拡大処理が継続され、景虎とほぼ一緒のスケール感で相手を見ることができた。
ティラートの体勢には、変化の兆しが見えはじめている。空中での直立のバランスを自ら崩そうとしているようだ。振る体勢に入ろうとしているのか、柄の先は跳躍の方向にぴたりと合わせたまま気持ち右へずらし、左に首を傾け、剣を右肩に掛けるような構えを取ろうとしているらしかった。
景虎はこれを見て刀を抜くことにしたのかもしれないが、遅い。返り討ちを想定して刀を納めたままにしておいたのだろうから、受けの構えに回すには遅いのだ。
「まだ指も柄に掛かっちゃいねえし、上からの攻撃を止めるのには間に合わねえよな?」
同じ結論に達してたらしきアーズが訊ねてきた。アーズよりも景虎との訓練期間が長いクロムエルなら、景虎になんらかの手段があるのか知っているかもしれない、と考えたのだろう。しかしいかな景虎とて、純粋な直線距離まで縮められるはずもない。
「躱しが優先される局面だと、マスターなら当然ご承知のはず。だからいま刀を抜こうとしておられるのは、躱しのあとに仕留められるのに、取り回しを良くするため……」
明言はできなかった。クロムエルには、この勝負の決着のかたちが見えてなかったからだ。
ティラートの左足が、地面を求めるように下に伸びだしていた。彼の意図だけなら読めているクロムエルからすれば、違和感のない挙動だったが、芙実乃は引っかかるらしい。
「敵は足を前に出せばもっと近づけそうなのに、どうして変な格好をしてまで着地しようとするんでしょう?」
「それはいま彼が足を置こうとしている位置が、マスターの攻撃圏内のまさに際とでも呼ぶべき最遠部だからです。そこから少しでも奧に行くと、マスターの刀に脛を断たれる可能性が高くなる。それでは釣り出しに成功したとしても、肝心の自分が剣を振りきれたものではない」
「つまり景虎くんは、届くすれすれにいる相手に攻撃するのを我慢しなくちゃいけないと?」
「それを我慢と言うなら、少し前に踏み出さなかったことこそ、我慢なのかもしれません。その我慢さえなければ、攻撃範囲は踏み出した分だけ前にずれているはずで、いま着地しようとしている脚を斬って剣を振らせなくしているでしょうから。本来なら、たとえ捨て身であれ、こんな渾身の踏み込みなどは、端から成功する見込みはないのですが……」
相手の渾身を消すか、見当違いのポイントかタイミングでやらせるのが、景虎の真骨頂とも言える。相手の隙を作り出す後者の印象が強く、記憶にも残りやすいが、本当に巧みなのは、守りの意識でしている前者のほうだ。それがあるからこそ、景虎は力や速さといった身体能力の差を、イーブン以上にして戦ってこれたと言っても過言ではない。
だが、ティラートはその景虎から、待ち受けさせる約束を取りつけることで、目立たないが圧倒的なまでの立ち合いへの支配力を、自身の初撃が放たれるまで打ち消すことに成功した。
勝負を、ほとんど反射神経で決まる性質のものへと、すり替えてしまったのだ。
ティラートの左足が、地面を踏み締めた。いや。着地なのだからその感想はおかしいのだろうが、彼はなんと言うか、足の裏をぴったりくっつけるように足を着いたのだ。着地失敗か。助走があまりに出来過ぎで、人三人分の身長を優に跳び越したくらいの飛距離があったから、景虎の攻撃範囲の境を越える勢いがついてしまったのか。クロムエルは当然ぴたりと合わせてくるものと思い、彼の意図を語りもしたが、こうなってしまうと、変な格好と言った芙実乃の感想のほうが正解だ。
苦笑めいた気持ちで詫びでも表明するか思い悩むさなか、突如クロムエルは戦慄する。
違う。失敗ではない。
案の定転びかけたと思った矢先、ティラートはつま先を踏み締めさせたまま、踵だけを撥ね上げた。反動で跳ねたのではない。明確な意思を持ってつま先と踵に力を入れたのだ。
もちろん、転倒することに変わりはない。
だが、単にバランスを崩したのでもなかった。彼はこの、つんのめる身体を逆に利用して、自らの剣を振る勢いにさらなる加速をつけ、方向までをも精細に角度調整してみせたのだ。
何もなければ、このあとの彼は為す術なく転倒して地面を転がるか、下手をすれば死ぬ勢いで地面に顔を打ち付けることになる。が、それすらも承知の上で、この捨て身に及んだ。
その分だけ、えげつない力と速さが、あの渾身の初撃には宿っていると言えるだろう。それこそ、人一人を頭から両断することすら容易い、というくらいに。
景虎は正面で待ち構えている。待ち構えさせられてしまっている。脇差にいまようやく指を掛けかけているが、まだと言えばまだ。触れることすらできていない。指を落とす段階で脇差を選んでいたということは、反射の勝負になることが読めていた確たる証。その判断の冴えはさすがとしか言いようもないが、あの段階ですら遅きに失した感は拭えないのだ。
この、さらなる加速まで読めていたのだろうか。
対処できるのだろうか。
クロムエルの頭の中では限りなく蓋然性の高い未来として、否が応もなく、景虎が真っ二つにされる光景が浮かんでしまうのだった。




