Ep01-02-03
3
控え室を出た景虎の後ろ姿が、等身大よりも大きく壁に映し出されていた。中継の映像ではなく、壁の向こうの光を拡大投影した、観覧用のリソースを使える控え室独自のものだ。
バーナディルは投影の設定をそのままにしないで、景虎を三歩ほど後ろから追いかける映像として固定する。これで後ろ姿の景虎が、中央の円形ステージへと続く一本道を進んでも、画面の中で小さくはならない。身体の向きを変えても、背中を収める映像が映るのだ。
バーナディルは、両手を握ってそれを見上げる芙実乃に背後から寄り、ささやきかける。
「落ち着いて、頭の中でわたしの言葉を反芻してください。柿崎さんはこの試合で傷一つ負う心配もありません。会場には特殊な力場が展開され、細胞の一つ一つに引力や電磁力が上乗せされているような状態になります。対戦相手は怪力ですが、その三十倍以上の力でうまく圧迫するのでなけば、喉を締めることもできません。皮膚が裂けることもないのです」
食べ物を咀嚼して飲み込むような時間を経てから、芙実乃が不信感を顕わにした表情で、ぎこちなく振り返った。
「どうしてそんな……」
騙すような真似を、と続けたかったに違いない。しかし、バーナディルは芙実乃が喋りきるのを待たずに、セレモニーを主催する意味を語る。
「ここは強い者を競わせ育てる場所だと言いましたね。わたしたちはそれをなんの工夫もなくしているわけではありません。どれだけ斬り合っても血が流れない。そういう現実を生徒全員に理解してもらうために、セレモニーはあります」
「じゃあ、景虎くんにも知らせないのは――」
「代表の二人には本気で戦ってもらう必要があります。不自然な行動が散見すれば、それを見せたい新入生たちに妙な勘繰りをさせてしまいかねません。力場のことを知って観戦する新入生は、おそらく菊井さん、貴女だけでしょう」
バーナディルは、よろめいた芙実乃の肩を掴まえ、座り込みそうになるのを支えた。力が抜けてしまったらしい。椅子を出すか訊ねるが、遠慮される。景虎に危険はないと理解したはずだが、悠々と眺めていられる性分の子ではない。
バーナディルは公式の中継を、景虎の背中に被らない位置に重ねて映した。こちらでは、外部向けに進行状況のアナウンスなどが入り、会場のざわめきなどのボリュームは適宜下げられる。もっともいまはアナウンスもなく、綺麗、美人、男、女、かわいい、好き、でかい、気持ち悪い、怪物、かわいそう、やめさせて、などの多種多様な異世界語が飛び交っていた。
雑音の中を歩く景虎とバダバダルが、円形ステージの手前で止まる。
ステージ全体が円柱状のオブジェクトに覆われていたからだ。空間に白を溶かしたようだったそこが、霧が晴れるようにクリアになってゆく。だが、それと入れ違うようにして、中で黒い雨が吹き荒れる。ただし、飛沫は彼らの眼前までしか濡らさない。見えない壁がまだそこにあるとわからせるための実演だった。黒い水が引いてゆく。
圧巻だったのだろう。ステージを囲う新入生たちは、しばし押し黙っていた。アナウンスは、その沈黙が保たれるであろうすれすれのタイミングで入った。
「このように、ステージの境界は透明ですが、内部の物体は通らなくなります。武器などが弾き飛ばされてきても、観覧の皆さんに当たる心配はありません。また、この透明の壁に衝突した際には、衝撃を和らげる仕様で、今回の模範試合は行われます」
新入生たちから、納得や感心、安堵のざわめきがちらつきだした。衝撃が和らぐと言っても、壁からの反発力が返って来ないだけで、安全地帯でもなんでもないのに。もっとも、試合が進むにつれて、それは場外負けを許さないいわば檻なのだと、誰しも気づくに違いない。
「それでは代表生徒二名に、試合前の一言をいただきましょう」
景虎とバダバダルの二人の横にそれぞれ、同一人物のホログラフが現れて言った。新入生たちの平均よりやや年長の少女の姿をしている。セレモニーには別枠の予算もあるし、司会進行経験のあるタレントなのだろう。
試合前に喋らすなんて、職員のアドリブとは思えない。職員なら蹂躙された生徒が入学早々脱落した場合、その一因として指摘されかねなくなると考えるところだ。
先に動いたのは、バダバダル側のホログラフだった。背伸びまでして、マイクをバダバダルの口に近づける。それで拡声するというのでもない、シンボルとしてのマイクを、だ。健気に見えるよう、自己演出しているのか。
当然、撮影する施設では会場とは逆に、彼らのホログラフが立っているはずだ。
「意気込みをどうぞ」
「ふはっはぁ! 捻り潰してやるぜ!」
「ありがとうございましたー」
背伸びしていたホログラフが消え、公式中継が、景虎側のホログラフが動き出すカットに切り替わる。視聴者へのアピールにしてはやけにあっさりしていたな、とバーナディルはふと思う。軽い疑問符を頭に浮かべながら見ていると、挙動がおかしいことに気づいた。
もじもじしているみたいだった。そうか。ホログラフとはいえ、景虎が間近にいるはずだ。バダバダルの相手を早々と切り上げたのは、一刻も早く景虎の許に駆けつけたかったからに違いない。容姿がきっかけでも、好意的になってくれるのなら、その逆よりは遥かにましだ。
ただ、注目された挙句の果てを思うと、バーナディルは気が気ではなくなる。
「あの、わたくしは勘違いなどしていませんが、視聴者の反響が大きいようで、訊ねさせていただきますね。その、ご性別は男性でよろしかったでしょうか?」
「見てのとおりだが」
景虎は心もち身体を捻るようなそぶりを見せた。腰の剣を見えやすくしたのだろう。おそらく武器を携帯する行為が、男性特有という意識があるのだ。
司会もさすがの勘働きで、意図を読み違えたりはしなかった。
「はい。プロフィールに間違いはなく、男性とのことです。素晴らしいですよね」
画面を通じて、司会が同意を求めてきた。視聴者のニーズに応えようとするプロ意識と、年相応のミーハー感が垣間見える。こんな学校からのオファーを受けるタレントなのだ。少なくとも、反異世界人主義とかではないらしい。もっとも、異世界人に反感を持つようになるのは、社会的に報われてないと思い込んだ中高年世代が主流となる。若年層ではそういう親に懐疑を持たず育った少数派だけがそんな偏りを見せる程度だ。
ただ彼女は、セレモニーがどういった趣旨で行われているのか、あまり理解してないのかもしれない。若い女の子なら、戦闘の配信動画に興味がなくて普通だし、無理もないが。
「改めて、意気込みをお願いします」
マイクを向けられた一瞬、景虎が首を動かさない範囲の周囲に目を走らせた。誰に対して何を言うかの逡巡がそうさせたのか。優しげな微笑みが、一層の開花を見たかのように彩を濃くする。だが、その表情と正対する感慨の表れのように、瞼は閉じられてしまった。
「毘沙門天よ、ご照覧あれ」
神への祝詞。
人も世界も視界から排除して、その言葉はつぶやかれた。
ホログラフの少女が、中継されているのを忘れた顔で、感嘆の息をもらす。
「美しい響きの……お祈り、でしたね。ありがとうございますっ。わたくしも貴方の勝利をお祈りしています」
中立の立場を逸脱した失言に慌てながら、ホログラフが消えた。進行は同じ声のアナウンスが、取り澄ました口調で引き継いだ。両者がステージに足を踏み入れた時点で、透明の境界が展開する他、注意点や合図に関する事柄が並べられる。
バダバダルの表情が、屈辱と怒りにまみれ、獰猛な喜色まで滲み出てきた。
「試合、開始してください」
両者が、歩みをはじめる。
一歩、二歩、三歩。互いに相手に直進してゆく。
ただし、乱れずゆったりとしたバダバダルと較べ、景虎は一定しない。徐々に、徐々に、気が逸っているのか、歩調が早まってゆく。その足取りが早歩きから小走りになりかけたくらいで、バダバダルが足を止めた。
迎え撃つ体勢。
足を広げ、肘を頭の高さまで掲げ、両手で大剣を振り下ろす構えだ。
あの体格と身体能力から繰り出される渾身とは、いかばかりのものになるのか。バーナディルの全身が粟立ってくる。景虎は剣を抜いてもいない。無防備に突っ込んでゆく。その速度はおそらく、あと少しで景虎の最高速に達するのではないか。
だが、距離がもうない。その数歩手前でバダバダルと接触してしまう。
残り、三歩、二歩、一歩。その瞬間、バーナディルは時が止まったような感覚に陥った。
バダバダルの大剣が振り下ろされ、景虎が吹き飛ばされる。バーナディルの視界に黒い欠片が乱れ飛ぶ。虹の精霊たちが戯れる。錯覚。
何が起こった!
景虎が無傷、なのは当たり前だが、場所が飛んでは、いる。ただそれは、後ろにではなく、右斜め前だ。いつの間にか剣を抜いているが、持っているのもやっとのように、身体も刀身もふらふらさせている。
「景虎くんは、黒いお花を散らしてるの……?」
下で芙実乃がつぶやいた。おそらく、景虎が握る柄の下部分を指して、それを言っているのだろう。白地に映える黒い菱形が、彼がそれを揺らすたびにひらひらと手の中から零れ落ち、渦風に攫われた花弁のように舞い散って見えるのだ。
バダバダルが哄笑した。
「そんなひょろっちい剣じゃ、俺に傷はつかねえみてえだな」
バーナディルは耳を疑った。待て。それは当たったという意味か。風圧に飛ばされたかに見えたあの刹那、景虎は剣を抜いて、あまつさえ当てていた、と。
折りよく、公式の映像にその場面が静止画で映る。確かに景虎の剣の切っ先は、バダバダルの頚動脈を捉えていた。勝っていた。これが実戦なら。出血の海に沈んでいたのは、バダバダルのほうだった。バーナディルは景虎の顔に注目する。
変わらない表情。つまらないのに、場を華やがせるために微笑んでくれている、くらいの穏やかな安堵を感じさせてくれる顔。汗もなく、呼吸すら過分にしていない。巨魁な大剣を振り回す大男を前にして、遠く聞こえる音楽に身を委ねているかのような落ち着きようだ。
バダバダルが片手で大剣を振り上げる。景虎はずっと剣をふらつかせながら、身体さえよろけそうなくらいに見えた。
だが。
バーナディルにはわからない、戦士ならではの駆け引きがあったのだろう。
つぎの瞬間には、残像さえも目に映さないほどの斬撃がステージを叩き、その横を歩く景虎、という場面に切り替わっていた。
バーナディルの認識が改まる。強い、のだ。景虎は。想像の埒外にあり、背筋を凍らすような何かを持っている。異能だろうか。だが、芙実乃の態度とも照らし合わせれば、そのようなものは彼らの世界にはない。
幻視を誘うような動きも、意図されたものではないはずだ。
景虎が強く、その強さに理由がある前提で考えれば、その正体くらいバーナディルには見当がつけられる。白と黒を人の目の中で入れ替え続け、スペクトルを乱れさせて起こる現象だ。黒い花弁の正体が、強烈なコントラストで残像となった黒の菱形なら、虹の精霊の正体は、その菱形と光る白地が目の中でぶれた瞬間に起こるハレーション。それらは、芙実乃が後づけで備えさせてしまったもので、元々の剣の性質ではない。
ならばなぜ、景虎はまるでそれらを引き起こすためのように、剣をふらつかせているのか。それは、筋力の節制であると思われる。剣を揺らしながら持つことによって、使う筋肉の種類を絶えずシフトしているわけだ。構えて静止している時間分、筋肉に継続した負荷がかかってしまう状態を嫌い、ああしているのだろう。
だからすべてを、普通に、歩くように行う。これでは筋力は育たない。肺活量は増大しない。運動不足ではないだけの身体ができあがるはずだ。渾身の勝負へのアンチテーゼの体現者。
それこそが、柿崎景虎、なのだ。
「いぎゃっ――ぎゃあああ!」
絶叫が轟く。景虎がバダバダルの目を突いたのだ。それも二度。
早業、とは、こういうことを言うのだろう。速度に拠らない手際の良さ、滑らかさが感じられた。そう。感じられた。つまりは見えていた。バダバダルの斬撃のような絶対的な速度がない証拠。一切の無駄を省いた、ただ目を抉るためだけの挙動。
バダバダルは大剣を落として両目を覆い、喚き続けている。
無理もない。あのステージでは、肉体の損傷こそなくなるとはいえ、痛みを感じる脳の機能にはなんの作用もない。目を突かれれば、拉げた眼球で、突き刺している当の剣が見えたりもする。想像しようとするだけでもおぞましい、歪んだ景色と痛みに苛まれたはずだ。
景虎が浮く。
いや、浮いたようにしか見えないが、跳躍だ。高い。おかしい。明らかに彼の身体能力を超えて跳躍している。しかし事実として景虎は、背を丸めているとはいえ芙実乃の倍近い体格の、バダバダルの頭を越した。
そこで一閃。
浮きながら、剣を持つ手を替えていたから、左での一閃だ。刃のない反りの内側で、バダバダルの後頭部に根元近くから当てて、斜め下方へと振り抜く。バダバダルは目を覆いながら、前のめりに転倒する。打撃ではあるが、おそらく、曲線をあのように使うことによって、掴んで引き倒した場合に似せたベクトルを生じさせた。
それにしても、この一連の動きの幻惑的なことときたら。不可解な跳躍に、剣の持ち替え、左での大きな振り抜き。すべて宙で行われたその動きで、黒片と虹光がはらはらと撒き散らされたのだ。まるで黒花と妖精を傅かせているかのようだった。
もちろん錯覚だ。
だが、そこに美を見いだした瞬間、心が、身体が、視界が震え、黒い花片と虹の精霊の乱舞を幻視してしまう。野蛮なはずの戦闘が、白い床でしかないステージが、それらが精霊の花園であるかのような錯覚を強制する。
芸術の神にさえ劣等感を刻む生きた戦景色だ。
舞踊のカリスマでもこんなふうには踊れまい。照覧しているはずの毘沙門天という神はこの舞を捧げられているのか。なんという贅沢な神だ。貴方の信徒は空前絶後を凌駕している。
しかも、敬虔にして、なおも生贄を捧げようとしているではないか。
景虎がバダバダルの後頭部を踏みつける。剣は右に逆手。首元への無慈悲な一撃は、二撃、三撃と重ねられてゆく。狙いは頸骨。その一点。剣で切れぬのなら、負荷を集中させることで、骨を粉砕するつもりなのだ。
バダバダルは戦意を喪失したか、全力で許しを乞うている。あの様子では皮膚が裂けないことにも気づいてない。首の骨が砕かれると信じているのだろう。力場の恩恵のない実戦と較べれば相当にましだろうが、絶え間ないくらいに刺突を打撃として受ける痛みは、バーナディルなら一撃で心が折れているに違いない。
それほどの攻撃を加え、最下位の生徒がトップの生徒を泣き喚かせているのだ。これと逆の光景を見るために整えられたステージは、これを仕組んだ連中さえカタルシスに震え上がらせているのではないだろうか。
それでもまだ満足しないのか、景虎はやめてやらない。
バダバダルはたまらずに、両手で頸骨を覆い隠した。
それを見た景虎は、バダバダルに乗せていた左足を戻し、つま先でこめかみを打ちすえた。脳が揺れただろう。それでどうにかなるような身体には、異世界人も現地人もできていない。ただ、それを知っていたとしても、脳が揺れているさなかの現象に、恐怖を感じない人間などいるはずがない。
バダバダルは二撃目が入れられる前に、凶悪な左足からこめかみを遠ざける。左足は追う。横を向いたバダバダルが、こめかみを踏みつけられている態勢。逆手の剣が掲げられる。
するり、と丸みを帯びた軌跡で黒い花弁が舞い、剣の切っ先はバダバダルの耳の中に埋まった。残った刃渡りから察するに、目と鼻の後ろまで顔の内部を歪められて、切っ先が入っているのだろう。あの冷たい切っ先が顔の裏側に。切れることこそないが、顔の内部を歪められた痛みはなんの軽減もなく、正当に感じているしかないものだ。
バダバダルは狂乱した。断片的に翻訳される言語で、父や母を呼んでいるのが、かろうじて推察できるほどの狂態だ。手足をばだつかせる。その甲斐あって、こめかみと耳を固定させられた状態からは、どうにか脱した。が、手足をばたつかせるのはやめずに仰向けになった。まるで我を通そうとする幼児のようだった。
しかし、景虎はそれすらも許容してやらない。
バダバダルの上腕部の制服を右で踏み、左で目隠しをする。掲げられた剣は、なんの躊躇もなく開いた口から喉奥へと突き入れられた。
バダバダルの口からどろついた唾液が吹き上がる。
景虎は剣に重心を預けるような姿勢をとる。だが貫けない。力場が結合を強化する細胞に、外部も内部もない。力をかけても、喉奥の肉が撓むくらいにしかならないはずだ。
バダバダルはもがいている。噎せびかえりながらも、動かせる左手で景虎の剣を抜こうと狂奔する。だが、唾液をまぶしてしまった刀身は、彼の手を滑らせるだけ。景虎はその手を眺めながら、刃の根元からやや下の位置に、空いていた自身の左手を添え、少しだけ動かしてから微動だにしなくなった。
バダバダルは抵抗する意思を磨滅させたかのように、動きを緩慢にさせていく。
いや、酸欠だろうか。ここの人間の心肺機能と脳機能なら、爪の厚みほどの隙間さえあれば、窒息死も脳死もありえない。それでも、酸素の摂取が極度に低下すれば、意識を失う可能性はあるのかもしれない。何しろ初めてのケースで、バーナディルにも確信は持てなかった。
ただ、底知れぬ不安の泉が湧き出してくるような、焦燥感が止んでくれなくなる。
これ以上、何も起こるはずがない。否定というよりも、祈りに近い感情で、バーナディルは、その言葉を声にしないまま言い聞かせ続ける。
だが、その祈りも虚しく、バダバダルがぴくりとも動かなくなる。
景虎が剣を引き抜いた。
絶叫を奏でる演奏家として、最終楽章最終音の無音を鳴らし終えた、と言わんばかりに。




