三月十八日
十五日くらいに日記を書こうと考えていたのだが普通に過ぎていた。二十日くらいにまた書こうとするとまた忘れそうなので、もう書く事にした。という事で日記を書いていく。一週間近く前のはずなのに何を書いたか忘れているので重複する内容もあるかも知れないがそうした諸々も思い出す為にも書いていく。
基本的に俺は。
次回の旧ストキンproを目指し。
活動をしてゆくのが主目的となる。
ただ俺は怠惰なので遅筆だ。それは創作自体は別に嫌いではないのだが人が読めるような形にする作業に価値を感じないので、やる気が出ないというのが本音にある。金銭に関してもあれば越した事はないが別に使い道がある訳でもないのでやる気もでない。
やはり、伊藤ライフの言うように。
とりあえず、やるべきなのだろう。
という事で、進捗に関してはないのだが作業を再開する為にネームを読み返して二つの懸念点を俺は今いだいている。俺はまず設定を出してから物語の構成を考えて小説に起こしネームという形にしているのだが小説部分は書きやすいので一人称で物語を進めているのだが。ネームに起こす時に文字数が多くなり、心理描写も増えるので。
なんか暗い。
今書いているネームに関しては別にそれでいいというか敢えて鬱屈とした雰囲気を出すのに利用できているから問題ないのだが。これが二作三作と続くと読み味が同じになり面白く感じない。
物語にドラマ性を生むのは矛盾だ。
なりたいけどなれない。
したいけどできない。
そうした願望と現実の間で揺れるのがドラマ性。そこから物語を進ませてゆき、短編が終わると共に主人公が次へと進んでゆく姿に読者は物語の終わりと共に爽快感にも似た感情を抱かせれる。それは物語は終わるが主人公が次へと進めた訳でなければ読者は何とも言えない後味の悪さを抱くという事でもある。それは演出技法のひとつであると言える。
つまり、物語の結末とは演出でしかない。
この事から結末ではなく内容に何か物語を陰鬱とさせる理由があると分かる。そこで浮かぶのがドラマ性を生んでいる葛藤や矛盾という事になる訳だが、葛藤を描いたまま物語を暗くせずにいられるのかと考えた場合。俺は描けると考えている。
だから。
多分、そこではなく。
独りで考える事が閉塞感を生んでいるのだ。一人称で物語を描いているといつの間にか物語に陰が差している時がある。そういう時はいつも独りだ。ここから考えるべきは俺は物語や個人ばかりに視点を置くのではなく、もう少し交流を描くべきなのだろう。前に交流自体を主体とした物語を考えたりはしたのだが、主体とせずに物語として自然とあるような作品を考えてみるのも面白いかも知れない。




