十一月二十四・二十五日
という事で、この二日は。
つまらないので物語の『SF御曹司』を消した。
設定集だけは残しているが、文章は既にない。
三万字程度の内容だ。
気にする量ではない。
この一件で学んだのは俺が書いていたのは物語ではないという事だ。というのも、最近になり探偵物を書いている中で物語というのを考えさせられる事が増えていたというのがある。章同士の繋がりという部分もそうだが、物語自体の導入に無理矢理感を感じていたというのも消した原因の一つだ。
ネタ的な部分を含んでいたとは言え、導入を複数同時に用意した事により全体的に無理矢理感が生まれていたのも失敗だし、一人称視点で物語を進行させた事により読んでいると閉塞感が生まれていた。斉木楠雄のψ難風を目指していたのだが失敗だ。
俺には、どうやら。
一度に詰め込み過ぎる悪癖があるようだ。
これに関しても、物語自体を章単位で区切り、内容を絞るという方法で読み易くなるのだが物語構成を考えていないので詰め込みすぎた部分がある。物語として形を考えたと思える『探偵物』の探索部分に関しても練られていないので随分とアイデアだけで書いていたのだなと思う次第である。
大雑把すぎる。
というか、中途半端だ。
これは魅せたい部分をアイデアに焦点を当てていたという事なのだろう。登場人物も物語も何も考えていない馬鹿の文章だ。故に退屈だ。考えてみれば主となる物語にばかり意識が向いている為、過程となる物語が冗長な物語と化していた。つまり、序章だからと甘えた文章を書いていた訳だ。
そんなのが面白い訳がない。
やはり物語の始まりは『目標』を提示する形を取らねばならないか。いや、虚構推理のような物語もある訳だから一概にそうとは言えないか。そう考えれば目標からズレていようと読まれる推理物は特殊な位置付けの作品群と呼べる気がする。いや、待て。人が他者を想うという本能的な部分が存在する。
推理物は仕掛の他に動機など、他者を想うという部分があるからこそ推理物は物語部分が欠落していても読まれているのではないだろうか。他者に寄り添い、事情を考えて行動し解決する。そういう単純だが本能に寄り添う作品は他にもある。
勧善懲悪物だ。
こう構造だけ考えてみると、娯楽というのは存外と進歩していない分野なのかも知れない。ただ構造が単純であるからこそ、それをどう物語に組み込んで動かすのかというのが重要なのかも知れない。そういう意味では、やはり俺は物語を考えてなどいないまま書いていたという事になるのだろう。
はぁ、少しは考え行動しよう。
そう考えた二日間だ。




