十一月十六・十七日
この二日は寝不足で体調を崩し。
最悪な気分で過ごしていた。
ただ寝不足以上に。
ちりあくた君。
という作者と出会いの方が今、最悪な気分にさせられている理由でもある。経緯としては『ここでは猫は好かれない』というエッセイを読んで、また適当な事をほざく作者が湧いたなというのが第一の抱いた感想となる。何故かというと、作者を猫に見立て読者に媚びないという姿を書いていたからだ。
俺がいる家の周りに多数の野良猫がいる。
餌を与える者に媚び、外に出れば猫撫で声を上げて近づいてくる猫の姿を知る身からすると彼の話は美化し過ぎていて笑い話にもならないのだ。そんな野良猫の中で生き残るのは賢い猫と力がある猫となる。人に媚びようと自力で獲物を捕らえようと生き残るのは二種しかいない。人に媚びる馬鹿な猫は大きくなろうと道路に飛び出して轢かれて死ぬ。力のない猫は他の野良猫にいじめられて死ぬ。
もちろん、彼が言いたいのは。
そういう話ではないのだと理解している。
彼が語りたいのは作者の在り方だ。
孤高で媚びずに気まぐれ。
そんな野良猫は存在しない。飼い猫がそういう所作をするのは飼主が自身を手放さないという信頼からなる余裕でしかないのだ。それを誰にも飼われていない野良猫に求めるのは酷だと俺は思う。俺からすれば彼が語るのは『武士は食わねど高楊枝』つまりは痩せ我慢だとしか感じない訳だ。その上で、それが芸術や美学などと語るのは笑い話でしかない。
物語・キャラ・構成・演出・設定。
文章表現以外に考えるべき物はある。
というよりも、文章は技術でしかなく。
技術で飾ろうと中身がなければ価値はない。
つまり、中身を演出する総合した技術にこそ。
機械的で緻密な美が宿る。
俺が理解できた文章の美は、それだけだ。
では、彼が的外れな事しか語らないから。
最悪な気分だと、そういう訳ではない。
逆だ。
彼の物語が評価されないからだ。
俺からすれば。
創作は三種に分けられる。
『本当に面白い作品』
『普通に面白い作品』
『残念な作品』
個人的に作品の八割が『普通に面白い作品』だと俺は感じている。では『本当に面白い作品』と『普通に面白い作品』を隔てるのは何か。そう考えた場合に浮かぶのは金を支払う程の価値があると思える作品か否かという事になる。金を払うというのは価値があると認めるという行いだ。そして、俺は彼の物語に金は払うかと言えばNOなのだ。
少しだけ肩が軽くなり。
読み終わろうと聞こえる波の音。
心地の良い作品だ。彼の作品は良い作品だ。
だからこそ、最悪な気分なんだ。こんな優しい作品で中身があるのに俺は彼が評価されていない理由が何となく思い浮かぶのだ。彼の作品には続きを読みたいと思わせるだけの力がない。要するに物語だ。彼が中心に添えるのはキャラや物語ではなく日常であるから次を誰も求めない。そこで満足してしまう。仮に彼が素朴な少女の日常が出会いにより、少しずつ変化して新たな日常を手に入れる物語を描けたなら。
彼の物語は読まれると思う。
でも、それを彼は求めてはいないだろうし俺は責任を持てないから彼には言えない。ただ彼が今ある日常を大切に思いながら変化してゆく日々とその先にある未来に視線を向けられたなら少し世界は広がるのかも知れない。彼の作品を読んで、中身があり面白いだけではいけないのだと突きつけられた気分だ。
読者に次を求められる作品か。
ちりあくた君と出会えて色々と学べたけど。
ただ彼の描いた物語を、まだ足りないと。
そう感じたくなかった自分がいる。
ああ、最悪な気分だよ。




