六月七・八日
あれから一切の進捗はない。
前に書いたゲームのシナリオを。
書き足したくらいだ。
別に考えたり悩んだりしながら書くような物語を書こうとは考えていないのだが。この前の失敗は物語の始め方が中途半端で演出としてクソだという事で物語自体に何か不満がある訳ではない。ただ頭の片隅でこれを書いた所で。というのがある。
別に行動しない理由など行動する理由より万倍もあるのが常である。その一つでしかない訳だが、行動しようという部分に関わるとどうも。と書いていて気がついたが所詮は行動しない為の言葉だ。
先の行動も失敗として学べた。
このまま中途半端に終わらせるくらいなら失敗から学んだ分として形にすべきかも知れない。演出としてカス過ぎたので逆に面白い演出とは、どういう物なのかを考えて行動すべきだろう。
前回の失敗は。
何の説明もない状況から物語を開始して。
事件から一間空いた所でキャラが現れて。
唐突に世界観説明をした事にある。
物語の内容としてはクソ薄いので演出として表現する所に時間を掛けてもいいかも知れない。小説を書く時の癖で内容をギチギチに書くというのが俺の好みとしてあるのだが漫画として表現すると情緒というのがなくなり"独りよがりな作品"となるようだ。
後は俺は小説を書く時に相手の台詞や言動に対して考えるターンを用意しているのだが。このようなやり取りを推理漫画として『虚構推理』は個性として確立しているのだから面白い。ただ何で他の漫画で『虚構推理』のような討論や感情の機微を描こうとしている作品を見かけないのだろうか。
俺がこの書き方をしているのは、単純に俺が好きな作品の文章構成を試して俺の性分にあっていたからという理由でしかない。ただその作品がコミカライズされても似たような形はしていない。
この違いは何だろう。
加味すべき点があるとするならば。虚構推理の原作者が書いた他作品もコミカライズされていたのだが俺はそちらより虚構推理の方が面白いと感じた。何故、そう感じたのか考えた場合。
虚構推理は『如何に求める答えを用意するか』というのが主題にあるからだと俺は感じている。事実を証明し犯人を指摘する従来の謎解きとは、また違う面白さが魅力なのだ。人同士のやり取りや求める物の違いからなる前提条件。人狼ゲームやテーブルトークのような面白さが表現されている。
からこそ、何故。
似たような作品がないのか。
そう考えた場合に浮かぶのは文章量とページ数の兼ね合いなのではないだろうか。文章量が多ければ小説を読んでいる気になるし、週刊20ページ近くの内容を読者に覚えたままにさせるのは難しい。なら、内容が面白かろうと掲載すべき場所は変化する。なら、短編として描くには問題ないだろう。
物は試しだ。
小説的に文章の多い作品を書いてみよう。
物語は演出に失敗したアレを使おうか。
という事で、頑張ってくぞー。




