六月五・六日
物語を八頁程書いて消した。
導入が不自然に感じたからだ。
という事で、面白い漫画を読んできた。
基本的に物語の導入は二種類に分けられる。日常と転換点。俺が小説を書く時は何かイベントが起こり連続的に物語を転がしてゆくという物語全体の転換点となるような話から書いている。
ただこの二日で書いたのは転換点とするには物語としての説明が少なくて、日常としては説明しないといけない部分が多過ぎた。これは何を描くのかを中途半端にしたまま描こうとした結果だ。
何が言いたいかと言うと。
大暮維人の凄い所は絵ではなく。
自然と読み進ませる構成力だと。
そう感じたという話だ。
コミカルな読み口で物語を読め、気がつけば追うようにページを進めている。世界観も物語もどれも曲者揃いのくせに読むのが重苦しくはない。もし彼のように物語を描こうとするのなら彼のように物語を描こうとしなければ描けないだろう。
要するに。
参考にしようと考えた相手を。
間違えたという話だ。
そういう意味では藤本タツキの短編集は一つの考えを物語として描こうとしていたのが。知る事で変化する物に面白さを見出したのだろうというのを伺えて中々に面白い作品だと感じている。
17-21は物語を主体として面白いと思う物語を形にするというアイデアを主体としている一方。22-24は登場人物の変化を主体としており『普通』と評した人魚ラプソディは主人公周りに変化がないからこそ普通だと感じているのかも知れない。
そう感じた。
さて、この二日はネームを書いて消しただけだが色々と学ぶべき点も見えてきた。俺は小説を書く時は一人称視点で書いているのだが漫画に、そのまま落とし込むのには文章量が多くなり過ぎる。というか短編の形にするには書き過ぎているのだろう。
仮に俺の小説を漫画にするのなら。
ある程度の工夫を考えた方がいい。
それもそれで面白そうというか、その方法でネームを書いていたからこそ今回のようなミスを引き起こしたとも言えるのだが。まぁ、今回の件で何も考えずに書いた事により学びを得れた。
ジャンプルーキーの投稿を目指し。
行動していこう。
 




