老魔女さん。
視界が閉じる。
お婆さんの重みと、リンの手の温もりは、未だにあった。
小さな光がまぶたを刺激する。目を開く。隣を見ると、リンと目が合った。リンが、はっと俺の手を離す。婆さんは、いない。
辺りを見渡す。馬車が目の前を通る。広い道だった。土の地面には轍が出来ている。厚着して通りを行く人々は、一様に肩を少し上げ、足早だ。薄い光とセピア色のにじんだ冬の空気が、それらの光景を覆っている。不思議と寒さは感じない。音はある。が、なんだろう。匂いも、感じない。ララも、ノアもいない。
「どこだ、ここは」
「わ、わかんないよ」
とリンの声には不安が隠さずにあった。
まじでどこだ。いや、なんだか見覚えがある道なんだが。しかし、どこにいけばいい。
向かいの通りに、小さな丸い影が。お婆さんだ。
「リン、あっちにお婆さんがいる」
「う、うん」
と二人で通りを渡る。
声をかけようとしたそのとき、お婆さんは細い路地を入って行った。裏路地にはぼろい定食屋が並んでいた。寒いだろうに、外にせり出したカウンター席で、男たちが立ち食いしている。
路地の先に、お婆さんがいた。
「お婆さん」
お婆さんは俺の声かけにを反応することなく、視線はずっと路地の向こうにあった。
路地の先に、細長い川が蛇行していた。そこでようやくピンときた。ララとビールを飲んだ川沿いの道だ。
「ここは、昔のバンフレートですか」
「そうさな。あんた、移動魔法ずれたやろ、こっちの空間きてもうた」
お婆さんは、しかし視線はずっと路地の向こうにやったまま、答えた。
テレポートがまたずれた。しかし難しいな、瞬間移動。だが、こっちの世界とはどういうことだ。
お婆さんの視線の先。川の手前の通りに、少女がいた。ぼろい頭巾を被った、頬の赤い少女だった。疲れ果てた様子で、目は虚ろであった。なんとなしに、面影があるなと婆さんとその少女を交互に見る。少女は、小さなカゴを持っていた。その中にはマッチ箱がいくつもあった。手袋もせず、寒そうに手を時折擦りながら、マッチを売っているようだった。どこかで聞いた話である。
「死ぬわけではなさそうですが」
「誰が死ぬか!静かにしい!」
とようやくお婆さんは俺を見ると、怒った。
そのとき、ふらりと男が現れた。男の様相は、おおよそこの世界の人とは思えないものであった。汚れた作業着に軍手。タオルを頭に巻いている。無精髭に、口には火のついていないタバコをくわえていた。
「マッチくれんか」
と男はそのマッチ売りの少女に言った。
少女は、そのただならぬ男の見た目にうろたえながらも、マッチを渡した。
「ありがとうな」
男は言うと、しゅぼっとタバコに火をつけた。
上を向いてぷかあと口を開けると、まん丸い輪っかの煙が一つ、二つと現れた。
「天使の輪っかや。二人もおるで。わっはっはっはっは」
と金も払わずに、男は川沿いを、この世界の誰よりも偉そうに歩いていった。
少女は、男の大きな背中をどこまでも見ていた。その目は見開き、しかしすでに虚ろではなく、そして口はだらしなく開いていた。男の背中が、消える。少女は、はっと急いで立ち上がると走り出した。男の背中を追いかけて。
お婆さんを見ると、少女と同じ表情をしている。
「早く説明してください」
俺のことばもなんのその、お婆さんは、うんうんとなにやら頷いている。
リンはというと、何かに気づいたようで、辺りをしげしげと、目を蘭々と輝かせながら見ている。
「まあ、とりあえず行こか。ああ、仲間の二人はちゃんと洞窟のほうに戻ってるわ」
と白髪パーマのお婆さんは、少しずれた丸メガネをくいっとなおして歩き出した。
「洞窟の方?じゃあ、この空間はなんです?さっきの空間も、屍鬼?とかいうモンスターがでてきたけど」
「ここも、一つ目の空間もな、あたしの魔法のなかじゃ」
「魔法の中?」
歩きながらに、俺はアホみたいにおうむ返しで聞き返す。
「そうじゃ。一つ目のススキの原の空間はな、まだレベルの低い勇者の特訓場じゃ。昔勇者組合から仕事を受けてな。当時は屍鬼が猛威を震っとったでな。あたしの魔法をメインに、組合の連中の魔法も組み合わせてつくった大規模空間構築魔法じゃ。今いるこの空間は、まあ、なんじゃ、あたしのちょっとした趣味じゃな」
趣味?にしては精巧な作りだが、とお婆さんの魔法で創られたという町を、空を見る。幻術みたいなもんか?
「黒い波に飲まれそうになりましたが」
「二つの空間構築はちょっと無理があったみたいでな、壊れてきとるんじゃ。そもそも一つ目の訓練向けの空間は随分古いしな。ごちゃごちゃしてもうてあたしも間違ってそっちに落ちてもうた」
それでお婆さん、ススキの原に落ちてきたのか。
さて、さっきから、リンはちらちらとお婆さんを見ながらも、俺に隠れるように歩いている。ララがいない今、俺が構ってやらんといかんか。
「リン、なんかお婆さんに言いたいことがあんのか?」
「べ、別に」
とリンはそっぽを向く。
めんどくせえ。
「なんだ、老魔女さんがどうとか言ってなかったか」
「老魔女シリーズか?ほうか。あれはあたしが書いたから、まあ知らん間に主人公に似てきたんかの」
「え、ほ、本当に!?うち、めっちゃ大好きで!小さい頃からずっと読んでて!この空間も、老魔女さんに出てくる町並みに似てるなって」
とリンは途端にテンションが上がる。
「ほうじゃほうじゃ、よう気づいたの!もうずっと書いとらんのに、こんな若い子が!よう見れば服もメガネも老魔女よ。さっきは悪いことをしたの。ほれ、ついたぞ」
町の少し外れに、ぽっかりと世界から浮いたような小屋があった。
お婆さんに従い、入って行く。カランコロンと小気味良い音が室内に響く。
がらんとした部屋のなかには、奇妙な形のした壷や歪な杖などが雑に置かれている。その先に、絵本に出てきそうな魔女の大釜があった。
「わあ!」
とリンは、興奮気味に部屋をぐるりと見る。
お婆さんに椅子をすすめられ、大釜の向こうにある椅子に座る。
「まあ、なんや、息子があたしを引っ張ってこいって依頼したんじゃろ、勇者組合に」
「ええ、そうですね。おばあさんを連れてきて欲しいと。こんなところにこもって、一体何をされていたので」
「そうさな」
とお婆さんは、虚空を見ると、聞いてもいない身の丈話をはじめた。




