30歳センチなパーカー男が夜の散歩に500円握りしめゴートぅー異世界
右隣の部屋からは、流行の歌を歌う男の重低音が響くように聞こえる。左となりからは男の鼾声がこれもまた重低音で響くように聞こえる。
駐車場はベランダの背にあった。
右隣鼻歌野郎のベランダで、何か干しているのを見たことがない。物干棒はいつも所在なくそこにあった。洗濯が面倒になりコインランドリーを使っているのだろう。鼻歌野郎は、よく電話もしている。電話相手は女だな、と隣室ながら、なんとなく思う。鼻歌野郎と顔を合わせたことはないが、多分元サッカー部の、ピアスを開けたチャラ男に違いない。なんとなくだが、いけ好かないやつだ。あったこともないけど。とにかく、ろくでもない人生を送って来たに違いない。
左隣の鼾野郎のベランダには、定期的にYシャツが干してある。それもいくつも。会社員であることには間違いないが、こんな片田舎でこんなワンルームマンション、安月給に違いない。一度顔を合わせたことがあった。小太りの同い年くらいの男だ。よくわからんが、営業職だろうと何となく思った。図々しいデブはメンタルが強い。ストレスフルな営業職にも耐えられる。駐車場の一角に旧車のバイクが停めてあり、休日そいつがそれをいじっていた。外見とは違う趣味にほうっと驚きを覚えたが、しかし安月給に違いないのに旧車に金をかけて。とにかくろくでもない人生を送って来たに違いない。
ーーー簿記を取ろう。
布団のなかで、少し色あせた天井を見ながら、自分でも驚くほど突然思った。
起き上がり、自らのワンルームの城を見渡す。
いくつも並んだペットボトル。指定ゴミ袋に入った大量のゴミ。とりあえず買った加湿器からは、もやもやと蒸気が出ている。
そばに立てかけてある鏡を見る。
薄くなった頭皮。でこにできたシミ。やや下がった目尻からは皺が伸びている。しかし、年齢にしては幼い顔立ち。
ろくでもない人生を送って来たに違いない。
スマホを見る。
誰からも連絡は来ていない。
日付が変わるまで21分ある。あと21分で、30歳になる。ふと人生を振り返る。淡々とこなす毎日の仕事。無為に過ぎる休日。固定化した未来。こどおじは嫌だと実家を出たはいいが、実家には週一で帰る依存っぷり。なんの努力もせず、手の届く範囲で生きてきた。ジャンプはおろか、背伸びすらしてこなかったように思う。地元を出ていった友達。恋人もいない。趣味もない。時折昔の写真を見返しては、麻薬のようにしたる。新しい曲にも漫画にも手を伸ばさず、昔好きだった物をリピートする。今を生きていない。すでに思い出に生きている。
鼻歌やろうには女がいる。鼾野郎にはバイクがある。楽しみがあって、いい人生じゃないか。
今、俺には何がある。恋にも、趣味にも、仕事にも生きられず。
ろくでもない人生ではないか。
野球を高校でも続けてたら。ワンランク上の大学を目指していたら。あの子に勇気をだして告白していたら。何か、変わっただろうか。
いや、どうせ俺は俺だったろう。だけど、やっぱり思う。思ってしまう。もっと、走れた。俺はもっと走れたんだ。そして、まだ、走れる。
俺は、もっと走りたいんだ。
簿記を取ろう。
簿記を取ったら人生が変わるのか?そもそも俺は簿記を取れるのか?なんで簿記だ?資格を取れたところで、30歳未経験から付ける仕事はあるのか?そもそも簿記の何級からとればいい。なんで簿記だ?
思考の逡巡は思考を鈍らせる。少し落ち着こう。
鼻歌は終ったらしく、右隣の部屋は静かになった。左隣からは、相も変わらず男の鼾声が重低音で響くように聞こえる。壁ドンの意味はいつのまにか変わってしまっていたが、いや、もとの意味での壁ドンをしようというわけではない。この安アパートを選んだのは、安月給の俺なのだ。この耳障りな鼾も、俺の人生の当然の帰結である。
スマホを見る。連絡が来ている。公式アカウントからだった。がくんと下がるテンションの折れ線グラフよ。
30歳まであと17分になっている。
ハンガーにかけた厚手のパーカーを着る。スマホを小さなテーブルに置く。財布から500円玉を取り出し、大事にそのワンコインを握ると、ポケットに入れる。情報からも開放され、最低限の身軽さで外に出る。
パーカー好きにはいい季節だな、と少し肌寒い気温とこの短い秋を思い、歩き出す。
車通りが時折あった。車道の向こうには、N川があった。N市をうねうねと蛇行するそこそこ大きな川である。二車線を挟んで、川の方を見る。浅瀬のきめ細やかな波が、対岸の外灯の光に切り取られたように反射していた。川向こうの、ほんのりと夜に浮かぶいくつかの家々のさらに向こうには、夜空よりも色濃い山々があった。
毎日そこに、この景色がある。この何気ない風景に、日常に感動できる自分は、やっぱり特別に違いない、この日常を楽しめるのが、自分なんだ。そう言い聞かせるのも、何度目だろう。ふっとため息をつく。パーカーのポケットに入れた手をさらに押し込むようにし、肩をすくめる。虚しくも飽くなき感情が、止めどなく漏れ出る。
寂しい。悲しい。なんだこれ。めちゃくちゃ寂しい。悲しい。
秋のせいか、30とかいう年齢のせいか。
そうだ。
小説を書こう。
土台数学が苦手だった俺に、簿記は無理だろう。なら小説か。中学生のときは文学少年を気取って色々読んでいたりもした。気取りたかっただけなので長続きはしなかったが。いやまてまて。小説は5年前に一度挫折している。
「俺はsomebody(斜体)になるぜ!」
と中学の英語の授業で、somebody(斜体)は、なにかすごいやつ、という意味だと習ってそんなことを豪語していた木村は、今や2児のパパである。んなことはどうでもいい。とにかく、俺はone of them で、somebody(斜体)ではないと理解しなければならない。そこを認められずに生きてきて、そして認めざる追えなくなったのが今だろう。結局変わらないといけないのは、変えないといけないのは、環境ではなく自分だ。俺はone of themだ。スペシャルな何かを持っているわけではないんだ。そこを理解しろ俺。小説を書くなら賞を取るための情報を集めなければ。ただ感性に従って書いてもダメなのは、5年前に証明済みだ。
なら最早小説の才能がないのでは?
簿記にするか。そもそも小説の賞レースは倍率がとんでもないだろう。
点滅信号を渡る。
簿記か、小説か。
これは究極の二択か?まさか人生の分岐点がここに?
いや、違うだろう。さっきも言ったはずだ。本質的に自己を変えなくては、どちらを選んでも同じだ。ていうか、分岐点ならもっとあっただろうよ。いや、どちらにせよ、本質的に自己を変えないと、結局元の木阿弥だ。そう、元の木阿弥だ。元の木阿弥。元の木阿弥って、どういう意味だ。
川沿いから外れると、自販機の稼働音のみが夜にあった。実家からは少し離れているが、昔何かの折りに、この自販機に親父と飲み物を買いにきたことがあった。まだまだ少年で手の届かない俺は、欲しいジュースのボタンを押そうとジャンプしたんだった。それでも届かず、親父が俺の両脇を持って持ち上げた。それで、俺はボタンを押すことができた。
でも、もう親父もいないんだ。
びくりと、自販機のそばのベンチに座っている爺さんに驚く。だるそうに足を組んで空を見上げている。右手の脇には、タバコのカートンを4つ5つと抱えている。
「吸えるとこへったなあ」
と爺さんはことばをこぼした。
なんだこいつは。
俺に待っているのは、こんな未来か。いや、普通に生きててもこんな爺さんにはならんぞ!まあいい、こんな爺さん気にしてる場合じゃない。必要なのは、そうだ、努力だ。努力なんだ!背伸びをしろ。手を伸ばせ。ジャンプしろ!もう俺は子どもじゃない!30歳まであと何分だ?行け、まだ走れる。俺は、まだ!
自販機の稼動音が、やはり夜に一つ響いていた。
俺はポケットの500円玉を強く握りしめ、空をきっと睨みつけた。
星空が痛いほどあった。
あと、30歳になるまで、何分ある。
時間がない。
走れ。走れ、俺!
星空よ、親父よ、見ていてくれ!俺は変わるぞ!
星空よ。
星空よ?
おろろ?
視界が揺れる。
夜が、ぐにゃりと、水に油をまぜたように、空が、夜が、夜空が、ぐにゃりと、明るい色に侵食される。
突如、強い光が射した。俺にスポットを当てるようにして。俺は、人生で初めて浴びるそのスポットに、目を瞑ってしまう。
なんだ?
光が和らいでいく。
自販機の稼動音は未だに聞こえる。
配役を間違えるなよ、などと思いながらも、目を開ける。
「は?」
辺りを見渡す。
星空もなく、点滅信号もなく。
椎の木の葉が、空を隠すようにある。落ちる木漏れ日のもとに、自販機が、世界から浮き出たように存在していた。コードもなにも繋がっていないが、不思議にも未だに稼働している。俺も、この自販機と同じように、浮き出て見えるのだろうか。まてまて、そんな悠長な感想を言っている場合じゃない。
とにかく、どこだここは。
落ち着け。
簿記か。小説か。
いや、まてまて。
そんな究極の選択してる場合じゃねえ!