「13日の金曜日」
ゴルゴダの丘の由来は、イスカリオテのユダの裏切りを受けたイエス・キリストが十字架に
磔にされたとされている。そしてその日は13日の金曜日であったとされるが、詳しくはゴルゴタ
の丘でイエス・キリストが十字架にかけられたのは、西暦30年4月7日午前9時頃だとされる。
イエスが十字架にかけられて3時間ほど経った正午頃、太陽が光を失い、あたりが闇に覆わ
れた。そして午後3時頃、イエス・キリストは息を引き取った。
それから三時間後、ユダヤの神殿の垂れ幕が裂け大地震が起きたと伝えられる。
この時からキリストは神の化身と囁かれるようになったと云う由来説だ。
では、どちらが正しいか定かではないが、今回は敢えて13日の金曜日を採用とする。
その13日は更に処刑されるにあたって其処には階段があり、それが13階段であった。
それ以来今日まで13日の金曜日は不吉な日とされて来た。
それにちなんで日本では。
戦後最悪の殺人者は獄中結婚して、その一子に十三と名づけた。
それから2年後、その殺人者は処刑された。その最後の願いとして処刑日を13日の金曜日
と指定した。この時、十三はまだ三歳で母からは父の存在について知らされる事はなかった。
父が名づけた不吉な13という名前を背負った少年は、やはり不幸な幼少時代を過ごした。
戦後最悪の殺人者と結婚した山根里子は、世間から非難を浴びた事は言うまでもない。
当然の如くその一子、十三にも及んだ。ついに母、山根里子は苦痛に耐え切れず焼身自殺
してしまった。その殺人者が何故その日を選んだのか、それはキリスト信者であったからだ。
そして孤児となった山根十三は、あるキリスト協会の牧師の下に引き取られた。それが8才
の時とされている。
その牧師は戦後最悪の殺人者の子として知られる日本では、もはや育てられないと判断し
その牧師の知人に山根十三を託したのだ。その十三はイタリアのフィレンツェという町に移った。
そこはかつてイエスキリストが最後の晩餐会が行なわれたサン・マルコ美術館がある場所だ。
その近くの教会の牧師の下で十三は美術の勉強を学ばせされた。
十三はそれから何度もサン・マルコ美術館に足を運びレオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐
を始め沢山の宗教画「受胎告知」「東方三博士礼拝」「キリストの洗礼」「磔刑」「復活」「最後の
審判」など観て十三は自分の進むべき道を見つけた。
やがて山根十三は30歳にして初めて、絵画の個展を開くまでになった。
だが彼の絵は懺悔を捧げる絵ばかりだった。イタリアの文化を受けて育った十三は、教会で
罪を問う人達の悲痛の悲しみが浮き出ていて、人々は彼を変人と蔑む者が多かった。
悩んだ十三は親代わりであるベアート・ジョナード牧師に相談した。十三は父の生い立ちを
一切知らせられず生きて来たが、やはり父の血がそうさせたのか父の罪が懺悔となって現れた
絵なのだろうと不憫に思い、十三と同じ女流画家仲間と結婚させた。
十三は初めて本当の生きる意味の素晴らしさを知った。やがて子供が産まれ十三の絵も
変わっていった。今度は人物像の絵は捨ててキリスト教会とその周辺の絵ばかりの風景画を
描いた。それはヨーロッパ全土まで広げ、やがて人々は彼の絵を絶賛するようになった。
それから数年、山根十三はゴルゴダの丘に立っていた。自分の生い立ちを知ったのは。その
数日前の事だった。ある図書館に調べ物をしている時に、日本の犯罪史が書かれた本を見て
自分が戦後最悪の殺人者の子である事を知った。
そんな父でも私をこの世に送り出してくれた父だ。そして母にだけは愛されたのだ。
何故そんな恐ろしい殺人狂になったのか知る術もないが、イエスキリストだけは敬愛していた
ようだ。私は父の命日でもある丁度その日、13日の金曜日にゴルゴダの丘に立って祈った。
「私は父の罪を償うべきか、イエスよ応えてください」
それから山根十三は自分の描いた絵の、収益金の大半を日本の孤児院に送ったそうだ。
了
13日の金曜日に、ちなんで思いついた作品です。
小説と言うよりも自伝めいた物になりました。
登場者は勿論架空の人物でありフィクションです。