屍の神1
「うーん……。やることがない」
ベッドの上で大の字に広がるリコが、呟いた。
フィズの茶会から、数週間。リコはすっかり暇を持て余していた。
死んだ時の記憶はあるのだから生き返ったのは間違いないし、結界や御霊還り、ましてや顕現した神などいないのだから、違う世界に来てしまったことも間違いはない。
それでも正直どちらも、まだ実感が湧いていなかった。
生き返された瞬間を味わっていないし、自分が魔法を使えるわけでもない。ただそうなのだと言われ、そうなんだと一先ずは納得した風を装って、何もすることのないままぼうっと日々を過ごしている。
「……ねえ、ウゴルくん」
「はい、何でしょう。リコ様」
「他の屍姫たちって、普段何をしているの?」
傍に控えていたウゴルに、リコはぐでんと寝返って訊ねる。
衣食住を提供してもらい、お世話をしてもらうのだからと四六時中きっちりと姿勢を保ち、お姫様然としていたのは最初の数日だけだった。慣れないことはなかなか続かないものである。
かといって、いつも通りに自分で食事の用意をしたり、ビブルたちの手伝いをしようにも、電気のないらしいここでは勝手が違うし、ロバの世話などはやり方すらわからなかった。それでも、ビブルであればじっと見守っているだけなのだが、ウゴルの場合は簡単にできることさえも、いいですから! と道具を取り上げられてしまうため、リコはこうして退屈極まり、ベッドに沈んでいた。
「そうですね……それぞれ本やご趣味の、例えばお裁縫でしたらそのような道具を入塔時にお持ちになっているので、そういったもので暇を潰されたり、慣れ親しんだ侍女とお話されたりしているのだと思いますよ」
「ええっ……退屈でたまには他の何かをしたいって思うことはないのかな」
「元の国にいらっしゃった頃も、たいていはお城やお屋敷の中で過ごされていたでしょうからね。お買い物できる商品が庶民的になったくらいじゃないでしょうか」
リコは持ち込んだ物などもないし、話し相手といえばウゴルかビブルだ。いくら仲良くなれそうだと言っても、毎日毎日フィズの下を訪れるわけにもいかない。
何よりそんなお姫様お嬢様な生活をしていなかったので、籠の中の鳥ではいられない。必要な際に部屋で大人しくしていることは不得手ではないが、一日中何も仕事をしないのは性に合わないのだ。
そこでふとリコは今の言葉を反芻し、起き上がる。
「……ん? お買い物? 町とかに行けるの?」
「はい。城と塔からは結構離れていますが、門の近くに小さな町がありますよ。もっとも、屍姫様は何か御用時があってもご自身ではなく、使いの者に行かせると思いますが」
町。そこで自分が働けるとは思わないが、見知らぬ風景を見て回るだけでも退屈しのぎにはなるだろう。
「……私、行ってみたいな。その町に」
「え!? は、はい、畏まりました。今ご用意して参りますね」
リコの言葉を聞いて、ウゴルは驚きながらもバタバタと支度を始める。
可能ではあるようだが、やはり想定外のことだったらしい。リコは申し訳なくも、自身でも外へ出る支度を始めた。
「ごめんね、ウゴルくん。年上のお姉さんなのに運んでもらって……」
「い、いえ……。屍姫様が手綱を取る方が珍しいですから」
パカパカと蹄の音が鳴り響く。御者席に座ってロバに繋がる手綱を取るのは、もちろんウゴルの役目だった。
一人で中に入っているのも何だか嫌だったので、リコも同じ御者席で、ウゴルの横に座っているのだが……今、少しだけ後悔している。そのせいか、ウゴルがどことなく緊張しているように見えるのだ。
しかし、走り出した今、わざわざ止めてもらって乗り直すというのも憚られる。リコはじっと代わり映えのない景色と、ロバの走る姿を見つめていた。
一人でロバに乗って町へ向かうという選択肢があればよかったのだが。そんなことをした暁には砂の上に転がり落ちて、灰になってしまうだろう。
ここで再び死んでしまった時、灰になるとフィズは言っていたのだから。
「それよりも、本当によろしいのですか? 町に直接出向かれるなんて」
「うん。私、他の屍姫たちみたいに別にお嬢様やお姫様じゃないもの」
なんとか国の王女様と言っていたシルフィーを始めとした彼女たちが町に下りるには、何人もの警護を引き連れるのが普通なのだろうが、リコは食材を買いにスーパーへ行ったり、日用品を買いに薬局へ行ったりが日常だった。
世界が違えど、自分の価値が変わることなどない。リコの顔には心配という文字はなく、ただ町への好奇心だけが浮かぶ。
そんなリコの様子に首を傾げながら、リコの珍しい要望ともあって、ウゴルは受け入れることにした。
「そ、そうですか……? でもまあ、塔から屍姫様が下りていらっしゃるなんて珍しいことですから、住民たちも歓迎しますよ」
「そうなの? 他所から来て突然仰々しく屍姫なんて呼ばなきゃいけない人のこと、歓迎するの……?」
「屍の神の領域では、出る人も入る人も、御霊還りにまつわる人以外はありません。それほど変わったことは起きませんし、屍姫様たちが持ってこられる神様への貢物の幾つかは町に出回りますから、皆屍姫様たちにはいつでも興味を持っておられますよ」
「……私、貢物なんて何も持ってきてないよ」
知らされていなかった新事実。他の屍姫たちは入国料なのか生活資金としてか、儀式の料金か。きっちりと物で支払っていたらしい。
リコの声のトーンも一気に落ちる。今まで何も渡していないのに、生活をさせてもらっていたのだ。突然やってきたこともそうだが、これではスーディアが目の敵にするのも仕方ない。
と深刻に思えば、ウゴルはそれを一蹴するように笑い飛ばした。
「あはは。それは強制じゃなく、勝手にそれぞれの国が神様のご機嫌を取ろうとやっていることですから。偶然の産物を喜びこそすれ、それが無かったからといって屍姫を悪く思う者はいません。神様がお決めになったことは民の総意。神様のお決めにならなかったことは民の意思ではありません」
「……本当にここでは、神様の意思が第一なんだね」
当然のように言いながロバを操るウゴルに、リコは改めて感心する。自分もこの世界に生まれていれば、同じように思っていたのだろうかと問われると、すぐには頷けそうもない。
「それにリコ様の服は他の国にはない大変珍しい物だったと伺っておりますよ」
「あっ。そういえばあの時着ていた服、無いと思ったら……まあ、いっか。そのくらい」
あんな上下数千円の安物で喜んでもらえるなら、その方が有難い。
しかし、どんなに珍しいものでも、それで生活費を賄えるはずがない。やはりこれは労働でも何でもして返さなければと、リコは考える。
「……あ。そろそろ着きますよ。ほら、見てください」
「わ、本当だ!」
会話をしている内にもう目の前まで来ていたらしく、ウゴルは前方に見え始めた町を指した。高い灰色の壁を背にして、その三分の一にも届かない象牙色の建物がばらばらと広がっている。
砂煙が時折その姿を隠そうとするが、それほどまでに小さな町ではなかった。
馬車に揺られていた時間は、二時間より少ないくらいだったろうか。徒歩だともっと掛かることを考えると、それなりの遠出かもしれない。
更に数分馬車を走らせ、町の入ってすぐの所で降りると、近くの店で馬車を預かってもらうことにした。そこからは二人でゆっくりと歩き出す。
「まさに砂漠の町って感じだね」
大通りに連なる建物は一番高い物でも二階建てで、殆どが同じような四角い形をしている。窓は塔と同じ木窓で、壁の材質は石のようだ。そこに隙間やら表面に砂が張り付いて、石の灰色を消していた。
道も石で整えられているものの、それは大通りだけのようだ。そこから外れればすぐに、踏みしめる場所から小さな砂煙が舞う。
ところどころに木々や雑草が生えているが、青々と多くの木々が茂る場所は少ない。ただ、何処から収穫しているのか、店先には見たことのない果物やそれを絞ったジュースが並んでいた。
「砂漠の町の風景をご存知とは、リコ様は南の大陸に行かれた経験がおありなのですか」
「あ……いや、そんなんじゃなくて。テレビ……あー、本とか絵で見ただけ」
「そうですか。でしたら是非色々とご覧になってください。ここは活気があっていい町ですよ」
嬉しそうに笑って手を広げるウゴルに、何だかリコまで嬉しくなってくる。
きょろきょろと風景や活気を楽しみながらも、リコは笑顔で頷いた。
「うん。そんな気がする。ウゴルくんもよくここに来るの?」
「元々婆様……ビブルも私も、ここの出身のようなものですから。この領域に住まう民は全て家族、一族のようなものです」
「へえ……そうなんだ」
と返した瞬間に、どん、と軽い衝撃が下からやってくる。
どうやら前から走ってきた子供がぶつかってきたらしい。高い位置に小さな二つ結びをした少女が赤らんだ頬を向け、リコを見上げていた。
前方は大きな噴水を中心とした広場になっているようで、ここで後ろにいる他の子供たちと遊んでいたのだろう。リコは慌てて子供の肩を軽く支え、謝る。
「あ、ごめんね。大丈夫?」
一方、謝罪の言葉をかけられた子供は丸い瞳をきょとんとさせて、それから数秒の間を空けてにぱっと笑った。
「屍姫様だー!」
更には今ぶつかったことも忘れたように、バッとリコへと抱きつく。ついでに少女の後ろから、木の棒を持った少年やら砂まみれになった別の少女やらも駆けてきて、一斉にリコを囲み、あるいは少女と同じような言葉を叫びながら、その体に引っ付いた。
「わっ! え、えっと……」
「こら、お前たちやめろって! リコ様に迷惑だろ!」
「リコ様? 屍姫様、リコ様っていうの? わーい、リコ様っ!」
「だーかーらー……!」
「う、ウゴルくん、いいからいいから」
きゃっきゃとはしゃぐ子供たちを怒る気にもなれず、髪を引っ張るような乱暴な行為もなかったので、リコは苦笑しながらウゴルを止める。仕方ない、とため息を吐くウゴルも彼らのことは可愛く思っているらしく、口元は少しだけ笑っていた。
「でもどうして皆、私が屍姫ってわかったの?」
「町のみんなは知り合いだもん!」
「なー、ウゴルー!」
子供たちの中にも節度はあるらしい。リコはそれに守られていたが、ウゴル相手には容赦なくキックが飛ぶので、ウゴルに拳骨を返されていた。乱暴な少年たちはそうやってウゴルに引っ付いたので、リコの周りには豪華な服を興味深げに眺める少女や楽しそうに手をぎゅっと握る子供たちばかりになった。
「あのね、それにね。あたしたち、こんなに綺麗な恰好しないよ。お家にはこんなに綺麗な服はないし、お外で走ったら絶対汚れちゃうもん」
「お母さんに怒られちゃうよねー」
「でも一回でいいから着てみたいな」
ウゴルがいること。見知らぬリコがいること。そしてリコの豪華な刺繍の服で、自己紹介せずともバレバレだったらしい。ともすると、活気を楽しみ歩いている間に、大人たちからにこやかに向けられた視線も、屍姫とわかった上であったのだろう。普通に観光していたつもりだったのに、わかった途端何だかむず痒いというか、変な心地になってくる。
だがキラキラと目を輝かせる子供たちは純粋で、リコの頬も自然と緩んでいた。
「そっかそっか。でもね。私とウゴルくんはまだいいけど、他の屍姫様たちにはちゃんとご挨拶してから、お話したり遊びに誘ったりしようね。あと遊ぶ時に、暴力は振るわないこと」
「はーい! って言っても、他の屍姫様はここには来ないと思うけどね」
「私、屍姫様って初めて見たよ! ね、屍姫様も遊ぼ遊ぼ!」
そうやって子供たちに手を引かれるがまま、言われるがまま。リコは子供たちを抱っこをしたり駆けっこをしたりと広場でじゃれ合った。
久しぶりのウゴルやビブル以外との交流。それも可愛らしい子供相手で、リコにとっては楽しい時間だった。体力不足で疲れはするものの、子供たちが楽しんでいる姿を見るのも嬉しいし、退屈だから塔を出たわけで、体を動かすと気分もすっきりしてくる。
だが時間が経つにつれ、段々とウゴルが可哀想になってきた。やんわり注意したにも関わらず、やんちゃっぷりはあまり変わらなかったらしい。それに町もまだ奥までは見ていない。
そろそろ子供たちに別れを告げようと、リコが口を開いた時だった。
「あ、神様!」
「え……?」
唐突に、子供の一人が声をあげた。視線は、リコの後ろを向いている。
まさか。謁見の間の一番奥、一番高い場所で座っていた、あの仮面の男がここに……?
疑いながら後ろを振り向くリコの視界には、確かに玉座にいたあの灰色のローブが映った。しかしその上に仮面はなく、サラサラの白髪の下には死んだような銀色の目、それでも子供たちには柔らかな表情を向ける整った青年の顔があった。