屍の神の領域2
使われていない小さな塔は、存外高いものだった。何度も螺旋階段を降り、ビブルがこれから住むのだろう部屋や物置部屋、応接室、炊事場などを通過して外に繋がる扉へと辿り着く。閂は抜かれており、ビブルが片手で押すとぎぃ、と鳴った。
途端、眩しい光が溢れ出す。窓から日が射していたとはいえ、他は壁に囲まれている部屋とは比べ物にならない明るさだ。
慣れるまで目を細くして手で陽を隠しながら、城に続くという石畳の道を歩く。
塔の横にはロバもいたのだが、リコは乗れないと断った。乗ったとしてもビブルがロバを引いていくため速度は変わらない。二人で長い道をひたすらに歩いていけば、行き倒れた砂漠とは違い、遠くに塔が見えてきた。
四つの巨塔と城は、リコが使う予定の塔よりも大分距離が近かった。それぞれが小さくあるものの、城の前からは三つの塔が見える。裏側に回ればもう一つが見え、城に登ればリコの塔以外全てが見えるのだろう。
そして城は見上げるほどに大きかった。屍姫が住むという巨塔よりは低いようだが、それでも生まれてこの方、初めて目にする立派な城に少し気後れして、リコはぼうっと立ち竦んでしまった。
「リコ様。何をしておいでです。ついてきてください、迷いますよ」
「っ! は、はい!」
厳しい声がリコに飛び、慌ててビブルの背を追うようについていくと、金糸で縁取りされた赤い絨毯や美しい調度品が目に入ってきて、ますますリコを委縮させる。しかし、壁に填められた燭台の輝きは鈍く、絨毯から一歩でも出ると、むき出しの石床がビブルから与えらえた靴にカツンと当たる。
廊下の長さや広さ、置かれた物の一部はとても立派なのに、細かいところまでは行き届いていない。なんともちぐはぐな城だな、と考えながら歩いていれば、前を行くビブルの足が止まった。
「こちらです」
扉には装飾が施されているが、やはり少し味気ないもので、どちらかといえば頑丈さと大きさが目立つ。両脇に立っていた男たちがそれを力強く押すと、一気に空気が変わった。
中央には四人の美女、その後ろに控える彼女たちの側仕え。端には警護なのか、美女や側仕えを見張る男たちがおり、一番奥には城主らしき者が鎮座している。
彼女たちは扉の開く音に気付くと、一斉に入り口へと振り向いた。
並びの左端にいたのは艶やかな青髪を腰まで伸ばした、キリッとした切れ長の目の女。
その隣の女はリコと同い年くらいで、愛想の良い笑みを浮かべている。髪は孔雀石のような色をしていて、くせ毛なのかポニーテールの先がくりんと曲がっていた。
ふんだんにフリルの付けられた真っ白なドレスを纏うウェーブがかった金髪の少女は、女たちの中でも特に若く……というよりは幼く、ほんわりとした顔でリコを見ていた。
残る一人の一番年上らしき赤髪の女は、勝気そうな金色のつり目をしているが、褐色の肌に映える真っ赤な口元は笑みを浮かべており、青髪の女より幾分かは近づきやすそうだった。
そして、その上の玉座に座った男は……男、なのだろうとリコは思ったのだが。灰色のローブを纏い、顔は化け物でも模ったような不思議な模様のお面で隠され、全く容姿がわからない。
四人の美女たちは年齢や雰囲気は違えど、高価なドレスや装飾品を身に纏い、上品な立ち振る舞いをしているのに対し、その奇妙な格好で彼女たちを少し高い位置から見下ろす男の存在は酷く異質であった。
「その方が第五の屍姫?」
唇の弧を更に強くして、赤い髪の女が一番にビブルへと問いかける。
ビブルはリコ相手とは違い、彼女に心の底から恭しく答えた。
「ええ。左様でございます、アイーシャ様」
「……本当に、どこの馬の骨とも知れない者を屍姫にするつもり?」
今度は冷たい声と鋭い目で青い女が静かにリコを侮蔑する。他の三人も思うところはあるのだろうが、これほどまでに敵意を剥き出しにしているのは彼女だけであった。
「それが決まりですから」
「そんなもの、神の領域でしょ。神様が見なかったフリをしてくだされば良いのでは?」
「そうはいかぬ。その約束があるからこそ、この地は攻め入られぬのだろう」
そこで仮面の男が口を開いた。
重苦しくも嗄れてはおらず、リコが思っていたよりもずっと若々しい声。
仮面で唇の動きは全く見えないが、声は間違いなくそこから発せられ、そこにいた全ての者の視線が集まった。
「それは大国の姫君や首長の娘、国一番の豪商の娘である其方たちであれば、わかっているはずだ」
「……それは」
「まさか神と煽てた者の前で、支配する領地が亡べばよいとは申すまい」
視線も表情も、仮面で遮られて何も伝わらない。それでも青い女はぐっと唇を噛み、それ以上の言葉を留めた。
「屍の神よ。お戯れはそのくらいに。この場は第五の屍姫様の顔合わせであったはずです」
「……そうだったな、ビブル。では各々、新たな屍姫に名乗るがいい」
屍の神と呼ばれた仮面の男はビブルの言葉に軽く頷くと、女たちにそう言い放つ。命じられた女たちはそれぞれに目配せをした。始めに前に出たのは、緑髪のポニーテールの女だった。
「まずは私から名乗らせていただきます。グランブルク国に御座いますリーネルト商会の娘、フィズ・リーネルトと言います。東の塔に住まわせていただいていますので、是非遊びに来てくださいね」
「は、はい、よろしくお願いします」
フィズは出迎えた時と同じく、にこりと親しみやすい笑みを浮かべ、リコにすっと手を差し伸べる。リコは戸惑いながらも何とか笑顔を作り、その手を握った。
青い女のような敵意もなく、近寄りがたさもない。裏もないようで、握手は無事友好的に終わり、リコはほっと一息吐く。
警戒や緊張をしていたのはリコだけではなかったのだろう。フィズとの挨拶が終わると、二人の様子をじっと見ていた金髪の儚げな少女が、静かにリコの前へとやってくる。
「では次はわたくしが。わたくしはアルクレアの第三王女、シルフィー・アルクレアと申します。今は西の塔をお借りしております。どうぞよろしくお願いいたします」
「よ、よろしくお願いします……」
どこの国かは名前を聞いてもわからないが、道理で気品あふれる所作で挨拶をするわけだ。フィズもリコに比べれば大分上品ではあったが、シルフィーは一挙一動が目に留まり、敵意を向けられているわけでもないのに、本来は一般人であるリコが近づいてはいけない存在なのだと思い知らされる。
再び体を強張らせて、リコはぎこちない動きで挨拶を受け入れた。
「……じゃあ、次はあたしかしら」
そう言って今度は赤髪で褐色の女が前に出る。
近くにやってくると、まるでモデルのような高い身長でリコは圧倒された。ドレスは髪色より少し鮮やかな赤で、そのスリットからはすらりと伸びた脚が覘ける。首や耳を飾る金の装身具や、高い位置からまとめられた巻髪がより色っぽさを漂わせていた。
「北の塔の誰か様は先に名乗りたくないようだし。……あたしはアイーシャ。見たらわかると思うけれど、南の大陸から来たサバトラ族のアイーシャよ。よろしくね」
見たらわかる、といわれてもリコには何もわからないのだが。リコはアイーシャに合わせて曖昧に返し、二人同様によろしくお願いしますと応えた。
アイーシャともシルフィーとも無事に挨拶が終わった後、アイーシャが後ろを振り返る。
「ほら、最後はあなたよ。名乗ったらどう、スーディア様?」
その視線の先にはあの青い女がいた。
「まだよ。先に名乗るのなら、この子が先じゃない。後ろ盾も何もない、身分なら一番下なのだから」
スーディアと呼ばれた青い女は腕を組み、相変わらずリコを冷たい目で見下していた。
だが確かに、突然やってきた闖入者であるリコが先に名乗るべき、という意見はもっともだ。
リコは獰猛な動物にでも近づくように恐る恐るスーディアに名乗る。
「あ……す、すみません。えっと、私はリコ・フルサワと言います」
「それで?」
「え?」
「どこの国からやってきたの。親はどのくらいの爵位をお持ち? 家はどんな名家なのかしら」
あからさまに、喧嘩を売られている。
いや、喧嘩などという対等なものではないのかもしれない。
言われたとおりに名乗ったのに、ずいずいと答えがたいことを訊ねてくる。
「……あなた、わかってて言ってるでしょ」
流石のアイーシャも呆れたように溜め息を吐いて、スーディアを咎めた。
「そうね。ただの平民風情と一緒にされるなんて、癪だもの。私はスーディア。スーディア・エル・グロット・フィスティニア。正確に言えばもっと名前があるのだけど、どうせあなたには覚えられないだろうから、この辺にしておいてあげる」
「あ、有難う、ございます……」
不要な気遣い、とは言えないがどうにも釈然としない名乗りに、それでもリコは無難に返すしかなかった。
話しぶりや所作、ビブルから受けた説明では彼女もまた高い身分の屍姫で、揉め事ともなれば何をされるかわかったものではない。
少なくともこの場ではアイーシャが咎めてくれるのが、リコにとっての救いだった。
「気持ちはわからなくもないけど、これから同じ屍姫として過ごす相手でしょ。もうちょっとくらい優しくできないの?」
「フン。これで自己紹介は終わったでしょう。神と話せないのなら、私はもう退散するわ」
スーディアは髪を靡かせ、くるりと出口に体を向けると、カツンカツンと硬いヒールの音を響かせながら玉座の間を去っていく。
側仕えたちが慌ててその後を追う姿を、残りの者たちで見送っていた。
「……では、これでこの場は解散とする」
所詮、死後の出来事だ。それも、一度は砂漠の真ん中に放り出されるような。
リコとしても、決して天国だとかふわふわと甘い夢のような話とは思っていなかった。
それでもこの先生き存える希望に、少しだけ。ほんの少しだけ、胸をときめかせた事実は否めない。
そしてそれは先ほど、完全に砕け散った。ゴリラに踏みつけられたガラスの方がまだマシなくらい粉々に。
あの場に集められた屍姫は全員、性格や見た目は違えど、高貴で美しい女たちであったのは同じだったのだから。対してリコは容姿も普通な一般人。あのキラキラとしながらも厳格な雰囲気に溶け込める自信など、何の取り柄もないリコには生まれるはずがなかった。
「お分かりになったでしょう。貴女様のお役目は、ただ屍姫として最期の日まで何事もなく過ごすこと。それだけです。そのためならば、私たちは協力を惜しみません」
「……」
「ウゴル」
何も返さないリコに構わず、ビブルがそう誰かの名を呼ぶと、ひょこりと扉の陰から少年が顔を現した。
「はい、婆様」
その姿は服装も相俟ってか、ビブルとどこか似ていた。性別も年齢も違い、髪などはすっかり色の抜けたビブルと比べて若々しく、短く切られていても元気すぎてあちこちに跳ねている有り様だが、血筋というものなのだろう。
「これは私の孫のウゴルです。まだ幼いですが、同じく城に勤めておりました。小間使いや町の案内、普段の世話はこれに任せます。お着替えやお食事の用意、ウゴルには任せられないことは引き続き私がいたしましょう」
「よ、よろしくお願いします、屍姫様っ!」
淡々と伝えるビブルとは対称的に、バッと勢いよく頭を下げたウゴルに、リコは思わず後ずさる。
元の世界で生きていた時に、人から頭を下げられる経験などそうなかった。自分が下げる方が多かったくらいなのに、急に、それも大分年下の少年から頭を下げられるなど、悪いことをしているような気分になってしまう。
「そんなに畏まらないでください。私、他の人と違って特別な何かがあるわけじゃないので……」
「いいえ! 神様の結界を通り抜けてくるなんて、それだけで凄いお方です。それに……」
「ウゴル」
「ひっ!」
弾丸のように浴びせられようとしていた称賛は、ビブルの一声で打ち止めとなった。
どうやらウゴルは、祖母の威厳に弱いらしい。
「リコ様も。ここにくる以前はどのように過ごされていたのか存じ上げませんが、少なくともここでは屍姫として扱われます。せめて、ウゴルに対しては敬語をお止めになるように。それから、私にも」
「は、はい……。じゃなかった……うん」
死んだ後のことなのだから、当たり前かもしれないが。
これからの生活は、前途多難かもしれない。