屍の神の領域1
「……! ……!!」
何かを言っている。喚いている。じっと耐える耳に届こうが届くまいが、内容はいつも一緒だから、聞こうとする必要はない。
ドン、と背中に衝撃。
体が一瞬宙に浮き、頭から順に、胸、手足と痺れるように強烈な痛みが走る。すぐに視界が赤黒く染まった。
いや、それは視界だったのだろうか。意識ではないのだろうか。
そして古澤リコはそこにいた。
目が覚め、体を起こすとさり……と地面が小さく鳴る。胸まで伸びた黒い髪と細い体の一部から、ぱらぱらと薄い茶色が落ちていく。それは砂であった。一面、砂であった。リコの目の前には、砂が広がっていた。
「……え」
風が背後からふうと吹き、ふわりと砂煙が巻き起こる。遠くも近くも、それだけだった。
「……私、死んだはずじゃ。それに、ここはどこ……?」
東京の一般的な住宅にいたはずのリコが砂漠の真ん中にぽつりと倒れているなど、どういうわけかわからない。
だが立ち上がった足は確かに自分のものだし、一歩歩けばまたさり、と砂が鳴った。
何よりリコは階段から突き落とされ、死んだはずだった。痛みは覚えている。それなのに……。
きょろきょろと辺りを見回しても変わらない。誰もいない。助言もない。目的もない。ただ、リコは今、何故か生きている。だから一歩、一歩、歩を進めた。
きっとまた死ぬのだろう。裸足のままふらふらと歩き続ける。まだ喉の渇きはないが、水もない。オアシスも見えない今、この身一つで歩くことしかできない。足が擦り切れて動けなくなるのが先か、疲労で倒れるのが先か、それとも干からびるのが先か。
一歩、一歩。どこへ行こうというのか、歩き続ける。
もしかすると、ここが死の国なのかもしれない。天国も地獄もなくて、この砂漠に放り投げられるのが死者の末路なのかもしれない。リコはぼんやりした頭で思った。
歩き、歩き続け。日が傾いても景色は何も変わらない。
(まさか、死んでからもこんなに辛いなんて……)
やがて疲れ切ったリコの体もゆっくりと傾く。
どさり。体の周りから砂煙が立ち上る。リコの目は前方の何もない空間を捉え、閉じていく。瞼が完全に閉じたと同時に、リコの前に突然暗闇がもぞりと現れ、収束していくようにうねった。暗闇は形となり、灰色のローブに身を包んだ男に変わる。
男はじっと黒い髪を砂の地に広げたリコを見下ろしてから、体の下にそっと手を差し入れた。力を入れると軽い体は簡単に持ち上がる。
男はもう一度、今度はリコと共に暗闇と化し、その場から消えた。
リコが再び目を覚ましたのは朝だった。窓から差し込む光が意識を刺激したのだろう。
「ん……」と小さく唸るようにしてから起き上がると、辺りを見回してきょとんとする。
砂漠の真ん中ではなかった。上等ではないけれど、砂よりはずっと柔らかなベッドの上。天井や壁は形の整えられた石造りで、どこかの民芸品のように模様の入ったタペストリーがぶら下がっている。小さなテーブルには火の消えた燭台が置かれ、窓にはガラスもカーテンもなく、開けられた木の戸が付いていた。他に目に付く物といえば少し汚れたクローゼットと暖炉くらいだろうか。
少なくともどこかの家の中らしい。死んだと思えば砂漠、そして知らない家の中。次々に変わっていく場所に混乱し、固まってしまったリコの耳に、ギィ……と扉の軋む音が聞こえた。
振り向けば、長く白い貫頭衣とヘッドスカーフを纏った老婆の姿があった。腰は曲がり、手は後ろに回され、顔は皺だらけでぺしゃりとしている。その顔は少し、ブルドッグに似ていた。
「お目覚めですか、第五の屍姫様」
老婆は想像通りのしわがれた声で言うと、恭しく頭を下げる。
「屍、姫……?」
「ええ。すでに四人の屍姫様が集まったところで、屍の神の結界を超え、よもやあなたのような方が現れるとは思ってもみませんでした」
しかしその言葉遣いとは裏腹に、声色は少し呆れたような、疲れたような、冷たい響きをしていた。
屍姫。屍の神。結界。
リコにはまるで思い当たる節のない言葉ばかりが浴びせられる。
「……あの。ここは、どこなんですか」
少なくともそれだけは、この老婆に聞けば判明するだろう。リコは何もしていないのに、何故か悪いことをしたような気分で縮こまりながら訊ねた。すると老婆の白く太い眉が片側だけくい、と上がる。
「ここは屍の神の領域。中央に建つ神の城、その周囲にある四つの巨塔。本来ならば屍姫様はそのどれかに住まうものですが、あなた様は予定外のお人。そこから更に外れにある、今は使われていない小さな塔に運ばせていただきました」
「え、と……」
とりあえず国の名前だけでも。世界地図でどの辺かだけでも聞きたかったのだが、老婆の回答は期待外れなものだった。
「この地に新たに運ばれた屍は、御霊還りの候補である屍姫様として扱う取り決め……。想定外であっても、一度決めたことは違えぬのが我らが神。本来ならば正規の手続きを踏んでいらっしゃった屍姫様以外、結界によって入っては来られぬはずですが……入ってきたものは仕方がありません。歓迎しましょう、屍姫様」
歓迎とはこんなにテンションが低く、重苦しい言い方で使われる言葉だったろうか。リコは「はぁ……」とため息のような返答しかできなかった。
それに、歓迎すると言われても、今までの説明ではさっぱり状況がわからない。老婆としてはしっかり説明しきったという様子だが……。
「あの、すみません」
「まだ何かご質問が?」
「屍の神って、なんですか。それに屍姫とか、御霊還り、とか……」
今度は先ほどとは逆の眉が上がった。その下の目は微かに驚きを表していた。
「まさか、知らずに侵入したとでもいうのですか。いや、屍が自力で這いずれるはずもない。知っているからこそ、誰かに手引きをしてもらったはずで……」
もごもごと考えを口に出す老婆だが、リコはその様子を気に留めることはできなかった。
屍。老婆はそう言った。屍姫や屍の神といった、揶揄の可能性もない言葉。やはり自分は死んでいたのだ。そして何故か生き返った。
「屍姫とは」
ようやく考えがまとまった、あるいは考えることを止めたようで、老婆ははっきりと語り始める。
「まさに近年亡くなられた女性の亡骸。その中でもこの屍の神の領域へ送られた、運良く選ばれた貴い方々のことです。我らには広くとも世界から見れば小さな場所ですから、死んだ者を誰も彼も受け入れるわけにはいきません。結界を張り、ぐるりと高い壁で囲んだこの中へは十年に一度、四人の屍姫を受け入れております」
そうやって厳格に人を拒まなければならない理由。拒まなければ、人がやってくる理由。リコの頭にはすでに浮かんでいる。
嘘のような話だ。まるで、死んだ後に夢を見ているような。
リコの俯いた顔と握りしめられた細い手首を見て、老婆は一つ頷いた。
「左様。この領域では、神の力で屍となった者は生き返るのです。しかし、それはこの地だけに限られた仮の生。ここを出て、外でも生きられるようになるのは、御霊還りの儀を受けられたお一人のみ……。選ばれなかった者は灰へと還るのです」
生き返る。その言葉に、リコの胸はざわついた。
死にたいと思って死んだわけではない。砂漠で目覚めたとき、目的もなく前へと歩き続けたのがいい証拠だ。体はどちらかと言えば、生を求めているらしい。
リコの瞳に希望の光が灯ったのを見て、老婆は複雑な面持ちになった。想定外であるリコが希望を持つことに嫌悪しているのだろうか。それとも、憐れんでいるのだろうか。そこまではわからない顔であった。
「本来は御霊還りの儀までの間、身の回りの世話をする者、必要な物は亡骸と一緒に祖国から送られます。選ばれるのはそれぞれの国で一人。漏れなく身分や財のある方ですから、そのまま塔へと入られ、生活を始めていらっしゃいますが……」
言わずもがな。リコはこの身一つしかない。細かく言えば服は着ているのだが、それだけだ。ポケットにビスケットの欠片もない。
「そういうわけで、あなた様の世話をするよう私が城から送られたのです。失礼ながら、お名前を教えていただけますか、第五の屍姫様」
ようやくカツンと靴音が鳴り、老婆がリコへと近づく。老婆が間近にやってきても、そのくしゃくしゃな印象と静かに感じる圧力は変わらない。
「古澤リコ、です」
「フルサワ・リコ……? 変わった名前ですね。しかし家名をお持ちとは、少なくともある程度の身分はお持ちのようで。私はビブル。そうお呼びください、フルサワ様」
「あ……たぶん、私の国以外の言い方だと、リコ・フルサワになると思います」
「ではリコ様。早速ですがお支度を。屍の神と、四人の屍姫様がお待ちです」
名前の順番などどうでもいいと言うように、ビブルはクローゼットから少し豪華な模様の入った上質な布の服とスカーフ、飾り紐を取り出してリコに差し出す。突然涌いて出た屍姫だ。本来の屍姫たちが早く顔を見せろと思うのは仕方のないことだろう。
リコは服を脱ぎ、慣れない服のためビブルに着付けを手伝ってもらいながら、まだ現実についていかない頭でぼうっとどうでもいいことを考えていた。
(そういえば何で私、外国なのに言葉が通じているんだろう……)
きっとそういう世界なのだ。おそらく、地図のどこにあるのか、ここが何という国なのかを聞く意味もないような。
もはや、そう思う他なかった。