オーバーじゃなくてアンダーなんだ。
しばらくの間、何が起こったのか分からなかった。
意識が宙を舞う。
目の前で起こった出来事が、あまりにも非現実的すぎて、理解が追いつかない。
夢うつつのようだった。
「あー。あー。自分で引いたクジなんだから、文句言わない」
担任の男性教師が、不精なあご髭を撫でながら、面倒くさそうに言う。
「でも先生! いくらなんでもコイツの隣とか、ありえないんですけど!」
「はぁ? それはこっちのセリフだっての……。渡辺の隣とか……、ないわ……」
「ああん? 田中のくせに何言ってんの?」
「いや、もう、すでにその罵倒の仕方が頭悪すぎて……。っつうか、そんなだからお前はなぁ――」
後ろの方から、満更でもなさそうな男女の声が聞こえる。
いつもならさっさと爆発しろとしか思わないところだけれど、今日はそんな感情すら湧いてこない。ただの雑音にしか聞こえなかった。
僕は改めて、手にした紙切れを見る。
四つ折りにされた跡の残る、小さな紙切れには、大きく『1』と書いてあった。
数学上では小さなその数字が、今の僕にはやけに頼もしく見えてしょうがない。
「「やり直しを希望します!!」」
「めんどくさい。却下」
「「ええ~!?」」
二人の息のあった抗議は、即座に切り捨てられた。
いいぞ、それでいい。
やり直しなんて、なってたまるものか。
だんだんと意識がはっきりとしてきた。
夢みたいな現実をようやく自覚する。
そうして初めて、自分の心臓が早鐘を打っていることに気付いた。
これが心臓が飛び出そうってことなのか、なんて他人事のように思うのは、まだ現実感がないからかもしれない。
右隣から感じる圧倒的な存在感に、僕の身体は芯まで緊張していた。自分の席なのに、身体のあちこちに変に力が入って、どこか落ち着かない。
季節は冬。それも寒さが増すばかりの12月だ。
エアコンなんてない貧乏な公立学校の教室で、暑いわけがないのに、身体中からじっとりとした汗が噴き出してきていた。
持っている紙切れは、いつの間にか手汗でしわしわになってしまっている。
制服の下が汗で湿って気持ち悪い。
嫌なわけ無いのに、この場から逃げ出したいような気分だった。
……そんなもったいないことしないけれど。
「…………………………」
ちらっ。
自然に、あくまでも自然体で、右隣の席を見やる。
重力を感じない、細くて柔らかそうな髪が、ふわりとしていた。
ショートボブというのだろうか。色素が薄いせいで少し茶色がかった髪が、襟首できれいに切りそろえられている。
そこから伸びる細首は白く綺麗で、どこか艶めかしい。
彼女は正面の黒板の中心の方を向いていて、僕の熱烈な視線には気付かない。
髪の向こう側に見える横顔が、儚げで、まるで新雪のように美しい。
――僕の絶賛片思い中の女子生徒がそこにいた。
ちなみに話したことはほとんどない。たぶん一目惚れだった。
たぶんというのは、もう長いこと片思いしていて、きっかけを思い出せないからだ。
彼女とは小学校が一緒だった。たぶん小五の頃にはすでに好きになっていた。
だから通算で5年間くらい片思いを続けていることになる。
……我ながら女々しいやつだとは思う。
でも僕みたいな臆病者は、きっかけもなしに好きな女の子に話しかけることすらできない。
きっかけさえあれば――
そんな言葉に逃げ続けて5年。初めて巡ってきた大チャンスだった。
………………。
僕の目線が彼女から離れようとしない。
気付くと胸の高鳴りは収まり、身体の緊張も解けてリラックスしていた。
彼女を見ていると、いつもなぜか心が安らいだ。彼女の穏やかな雰囲気がそうさせるのかもしれない。
いつも遠くから見ていた彼女の横顔。
でも、今はそれが、こんなにも近くにある。
このままずっと、何時間でも眺めていられる気がした――
「――!!」
不意に彼女と目が合った。
彼女の柔らかな髪がふわりと揺れる。
「? どうかした?」
彼女の大きな瞳が、無邪気に僕を見つめてくる。
至近距離で聞く彼女の可憐な声に、脳が痺れるようだった。
「へ!? は、い、いや! なんでも!!」
あわてて視線をそらして前を向く。なぜか背筋がピンと伸びてしまった。
「……んー?」
挙動不審な僕の反応に疑問符を浮かべる彼女。
姿は見えないけれど、きっと首をかしげて、可愛らしい表情を作っている気がする。
視線をそらしてしまったせいで、そんな彼女の姿が見れないことを、今更後悔した。
……というか、そんなことよりも。
(なんだあの反応は! キモすぎるだろう!! 挙動不審すぎるわ!)
絶対キモがられたと思う……。死にたい……。
「ねえ」
「はへ?」
彼女の声が聞こえて、反射的に振り向く。
またも間の抜けた返事をしてしまった。
「ぷっ、はっ、はへ? って……。ぷ、ぷぷぷ……」
突然彼女が吹き出してしまった。
左手で口を押さえつつ、身体を丸めて小さく肩を揺らしながら笑っている。
やっぱり今度こそキモがられたに違いない。…………死のう。
「ふっ、ふふふふ」
……と思ったけれど、無邪気に笑う彼女の表情が可愛くて、あまり悪い気がしなかった。
彼女が喜んでくれたのなら、僕がキモいくらい些細な問題だ。うん……。
「ご、ごめん……。きみの声が面白くて……」
一仕切り笑い終えると、彼女は身を起こしながらこちらを見上げて言った。
自然と彼女の視線が上目遣いのようになって、思わずドキリとしてしまう。
「い、いや……。自分でも変だと思ったし……」
「そうなの?」
「うん」
「あはは、やっぱり変なの」
彼女がまた笑った。
そこに一切の悪意はない。
彼女の笑顔は木漏れ日のように暖かい。
「え、えっと……」
そんな彼女の表情に見とれていたときだった。
「これからよろしくね」
にこっと、彼女が柔らかく微笑む。
不意打ちだった。
…………ぐふっ。
天使のような表情に一発KOをもらった。
(…………なんだこれは。天国か。ここが天国ですか)
(もう死んでもいいかもしれない……。……いや、ここで死んだらもったいなさすぎる。やっぱりまだ生きます。神様、僕をこの世界に生まれさせてくれてありがとうございます……!!)
僕は生まれて初めて神に感謝した。
「――というか、お前ホントに9番なの?」
彼女に夢中で、聞こえていなかった田中くんの声が、ふと耳に入る。
(まだやっていたのか……。まあせいぜいいちゃつくがいいさ。今の僕はリア充が目の前でディープキスしてても微笑ましいと思える自信があるよ)
仏の心だった。
「はぁ!? わたしが数字を読めないって言いたいの? ふざけないでよね!」
「いや、まあ、お前ならあり得るかもなーと。6と9を間違えるみたいな、ありがちなやつ」
「そんなわけ――………………ん? ねえ、そういえばこの線ってなんなの?」
…………んん?
「……え? お、お前、まさか――ちょ、ちょっと見せてみろ!」
「なっ、なによ? だからこの数字の上にある――」
………………いや、そんな、まさか、な。
「やっぱ6じゃねーか!!」
「ええっ!?」
(ええっ!? はこっちのセリフだ!!)
僕は恐る恐る、隣の席に目をやる。
彼女がどこか居心地悪そうに、こちらを見ていた。
「……あのさ。その……、これって6、じゃないの……?」
彼女の手には大きく『6』と書かれた紙切れがあった。
……ただその数字の上には、邪魔くさい一本の線が引かれている。
「ええっと……、その……、それは9だね……」
紙切れとか球体みたいなものに数字を書くと、6と9って見た目的に区別つかないじゃん?
だから大抵数字の下に一本線を引くよね。
……つまり、まあ、そういうことだった。
「………………っ……!」
彼女の顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
顔から火が出るようっていうのはこういうのを言うんだなと、他人事のように思うのは、現実を受け入れたくないからだろうか。
「忘れて!」
顔を赤くしたまま、僕に向かって突然彼女が叫んだ。
そんな顔で見つめられると、こんな状況にもかかわらず、ドキドキしてしまう。
「え?」
「やっぱりきみとはよろしくしない!」
「ええっ!?」
よろしくしないって表現はちょっとあれだとか、そんなことを思う暇もなかった。
彼女は逃げるように席を立つと、さっさと机と椅子を運んでいってしまった。
ウソ……だろ…………?
こんな……。こんなことって……、ないだろ……。
上げて落とすくらいなら、最初から上げないでくれよ……。
僕が放心している間に、渡辺さんが隣の席に来ていた。
どうでもよかった。
「お、なんだ渡辺。田中の隣じゃなかったのか。良かったじゃねーか」
鈍感な担任が的外れなことを言う。
「そこなら文句ないだろ?」
ちらっ。
僕はなんとなく右隣の渡辺さんを見た。
表情が死んでいる。
虚ろな目同士、目が合った。でもお互いに興味もないので、そこには誰もいなかったかのように視線を戻すだけだ。
「…………まぁ、はい。別に何とも」
渡辺さんが乾いた声で答えた。
……あれ。なんかこれ、僕の心だけ一方的に傷ついてない?
泣きたかった。
やっぱり神様なんていない。
そんなことを悟った中学三年の冬だった。