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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

汚い鏡

作者: merongree

 僕への執着の仕方においてその子は特別だった。その特別さの嵩のぶんだけ、僕が、その子を特別あつかいしたということはなかったけれど。彼の、あの特別さはその当時僕にとって、檸檬を齧るみたいになんだか新鮮だった。だからたまに思い出す。つぶった目の裏側に漂う、強い光線の痕跡としてただよう影を見るみたいに。好きとも嫌いとも感じることなく、自分の身体についている怪我の痕跡の痛みみたいに、ある特別な震えとして愛している。

 でもどんな傷だろうと、最後はその痕跡を肌のうえで見失うように、彼の姿かたちもだんだん僕のなかで輪郭を失ってきている。そのことに、僕は自分の背が伸びてしまうことに抵抗しないのと同じように、今のところ何ら抵抗はせず、ただ見守ることにしている。彼はしだいに僕のなかで人間ではなくなり、あの僕を見つめていた目の、奥でしずかに軋んでいた歯車の音になりつつある。

 また僕に触れるのをためらって、まるで彼じしん胸の奥で紐で縛っているかのようだった、あのしずかな動悸の音にも変わりつつある。確かに眼の前にあった彼の色彩や手触りは、その丸い記憶から剥がれおちるようにみるみる失われ、それらを受け止めていた僕の暗い筒のような身体のなかで、しんしんと降り続ける闇の一部になって収まっている。

 いずれ見たものも聞いたものもぜんぶ、食べたものみたいにまるごと消化してしまうんであろう僕の、僕に無遠慮な身体の奥から、あえて彼という体験だけを拾い上げて、名付け直すことを僕は考えたりはしない。でもこんな風にときたま思い出す、それは僕が何度も経験しそうになった、僕の死にたいする僕が自分に許している抵抗の仕方だから。

 彼との体験を思い出すとき、僕は彼に望まれたように僕の生がありえたことを想像する。そしてこんなに硬い手触りで、僕が生活していることが、そのときに起こった脱線事故の続きのように感じ、かろうじて受け入れることが可能になる。彼は僕にこんな風に利用され続けることに抵抗はしないだろう、僕に死なされたっていいぐらいに僕が好きだったのだから。

 僕はあんな生活が出来ていた頃だったので、すべてがまだ背が伸びる前のことだったと思う。だから十二、三歳だったと思うが、僕ははっきりと自分の年齢を確かめたことがない。必要になるのはいつも見た目の年齢だけで、それは外套のように僕から引きはがすことが可能なもので、必要に応じて余計に増したり減らしたりしても良かった。

 年齢は僕の裸ではなく、僕の外套だった。僕はただ生きて行くために、他人の視線を必要とした。そのためにはみすぼらしい、孤児のかっこうではいけなかった(そういう場合のほうがもてる場合もあるけれど、他人が孤児に払うお金なんて本当にしけたものだ。僕はより多く得るために努力することも、それで成果をあげることだって出来た)。

 僕は娼婦をみてその格好や化粧の仕方をことごとく真似た。彼女たちのけばけばしさは、よく個性的だと見間違えられるけれど、それはよく見れば臆病さを感じるほど、何かに忠実な模倣だった。彼女たちが流行を作ったと言われることもあるけれど、それは決して彼女たちの方法が創造的であったからではないと思う。彼女たちの化粧は伝染病のしるしのように明るく不吉で、また誰の顔も同じように爛れさせてしまう単純な力強さに満ち、要するに誰にでも行える、病気に罹って起こるぐらい単純なプロセスであったから流行ったのだと思う。なにしろ男の子であった僕でも、彼女たちの真似さえすれば、外套を羽織るみたいに自分のやせぎすな正体を包み隠すことが出来た。もともと母親似だったけれど、ともすれば眼ばかりが目立つとげとげしい顔立ちも、彼女たちを真似て甘ったるく力強い線を重ねてしまえば、猫が猫に見えるように女の子の顔だちに見せることが出来た。娼婦として見られるうえでとくに大事なのは、特別に見られることではなく、群にいる動物らしく見られることだ。

 娼婦として生きる上で、僕は有利だったのか不利だったものか。身体がもともとそれ向きではないということはさておき、顔は特徴的すぎて重荷だったと思う。僕はもともとの顔だちが派手で、顔のなかに指輪を嵌めているみたいだったから、化粧によってはその血の匂いのするような特徴をうずめてしまう必要があった。そしてただ地味に見せるのではなく、何とか十六、七の少女らしく見せなくてはいけなかった。大人用にあつらえられた外套というものは、子供の丈に短く切ってしまったとこで何だか煙草を子供が加えているみたいに不格好なものだ。

 僕の眼鼻はまさにそれだった。子供が持っていてもどうにも似つかわしくないのだ。それに男の子のものというより、どうみても女物のそれだった。それも、子供を産んだ女のような眼が、幼い僕には予め備わっていて、それが僕の年齢がはっきりしない理由の一つだった。幼いときから僕のそばにいた人たちでさえ、僕がいったい何歳なのかと思いながら僕を育てていたのだ。彼らの記憶のなかにいて、彼らを見る僕の眼は三つやそこらの子供のものではない。お前がひどくやけどをしたあの時、お前は一体いくつだったっけねと人が言い、僕の親も含めて誰もそのことをはっきりと答えられない。

 しかし僕は、自分が大人用の外套を着て生まれたことを、こんなおびえたような大人の反応から教えられてゆっくりと理解していき、そのことを過剰に恐れたりはしなかった。いずれ僕には相応強い年齢というものが来る。初めて名前で呼ばれるみたいに、そのとき僕は自分じしんが何として生まれたのかが分かるだろう。

 でも問題はそれが分かるより前にも人生があり、僕は自分を他人に許させて生かさせなくてはいけないということだった。僕は自分が、自分の身体の名前のように与えられている年齢に到達するより以前に、僕を生かすために適当な年齢に自分を見せなくてはいけないと一人で生きることになったときに知った。そのときから一生懸命に、それまで遊びでしていた化粧をし始めた。自分を生かすために役に立つと分かったから。

 僕は自分を生かすために娼婦になり、化粧をし始めたと言ったけれど、それ以前の赤ん坊のころから続いている生活というものもあって、そのときから化粧はすることはしていた。そうは言ってもたわいなく、おもちゃをいじるように僕がしていたことの一つにすぎなかった。僕の顔というのは母親似だと話したけれど、似ているなどというものでなく瓜二つで、僕は自分が母の雛であると信じて疑わなかった。男の子が自分をすぐに戦わせ、英雄であると誤解するみたいに、僕はしょうらい大きくなったら母の姿になるものだと思い込み、望み、信じたし疑わなかった。男の子たちが木や石を持って戦うみたいに、僕は自分を鏡のまえに座らせ、母のように髪を結った。

 僕と同じところに住んでいた女の子たちがおもちゃにするみたいに僕を着飾らせ、僕を女の子として扱ってくれたので、僕はますます得意になっていった。僕のお母さんもまた、生活のありとあらゆることにそうだった、あの無感動な態度を保持しながら、僕の女装をたまに手伝ったりしていた。

 僕の名前も、物ごころついたときには女の子の名前で呼ばれていた。おそらくお母さんは、僕が男として成長してしまう未来を消極的に拒み、女の子になってしまうことをどこかで願っていたのだろう。僕を小さな女の子の姿に葬る呪いみたいに、僕を着飾らせ、僕を女の子の名前で呼び愛した。僕は、僕を取り巻くひとびとに可愛がられ、僕のこの日々に何の疑いも持たずに過ごした。幸福と名付けても全然いいころだったと振り返って思う。

 七歳ぐらいの頃、他人が勝手に僕のこの生活に名前をつけた。いまだに誰だか分かっていないのだけれど、僕を本物の女の子だと思い込んだ誰かに誘拐されそうになり、殴られて失神している状態のところを見つけられた。

 僕を見つけた、僕と同居していた女の子は顔が血だらけになっている僕をみて死んだものと思ったらしい。凄い悲鳴をあげられて僕は死体のようにけたたましく取り上げられ、早速調べられたけれど実際には一命は取り留めていた。顔に酷く痣が残ったぐらいで、あとお腹にも踏みつけられた痕があったけれど、そのほかは無事であるといことが調べられて分かった。

 犯人は男の子には用事がなかったのだ。何故だかそのとき履いていた靴が片方出てこなかったので、あるいは足の先ぐらいは彼の気に入ったのかもしれないのだけれど。

 僕は鏡をみて悲嘆にくれた。僕にとってその事件とは、女の子に間違えられたということでも、殺されそうになったことでも誘拐されそうになったことでもなく、ただ単に顔をひどく傷つけられたというだけのことだった。殴られて折られた歯は子供の歯だったから、またすぐ大人の歯が生えてくると慰められたけれど、子供の顔に残った痣が大人になっても残るのではないかと心配だった。

 大さわぎする僕を鬱陶しがったおばさんの手助けで、湿布を当てたり氷水で冷やしたりしたけれど、鼻から眼のふちにかけて紫色のうすい影がどうしても残っていた。僕の心配はたかだか僕の顔の痣のことだったけれど、周りの大人の心配はそれとは別で、僕の存在がそんな風に彼らの生活に、突然の闖入者を招き、警察まで招いたりして騒々しさのたねになるという発見であるらしかった。

 泣きべそをかいている僕は慰められるように隔離され、他の女の子たちやお母さんと共に寝る部屋で寝なくなった。僕は残されていた鏡のまえで、お母さんの化粧道具を持ち込み自分を白く塗った。誰にもその作業は邪魔されず、僕が大人しく声を立てずにいるという点でその行為は薦められるものですらあったと思う。僕にとって最初の化粧は、他人に見せる自分を創造する行為ではなく、むしろその逆だった。他人に見つけられないようにと取り計らわれた独房のなかで、もはや自分しか見なくなった自分の悲しい顔から、自分の見たくない部分を隠ぺいするための小さな作業だったのだ。それが全くの逆になろうことなど、あの紫の痣と戦っていたといには全然考えもつかなかった。

 それから僕が恋人を作る事件を起こし、いよいよ最初の事件ですら僕が他人を誘惑したかのような、そんな言い方さえされて、お母さんは僕を布でくるんで人目につかないようにしながらその家を出て行くことになった。それからお母さんとその恋人と僕との生活が始まり、僕とお母さんとの二人きりになり、それからお母さんを死によって失い、僕は一人で生活せざるを得なくなった。僕はお母さんが病気で動かなくなってから、お金を支払わなくては他人の家に住めないということを教えられて理解していた。

 お母さんが死んだときには僕には何のお金もなく、ただ遺産みたいに彼女にそっくりの顔だけが残った。お母さんが死体になった瞬間から、僕はその顔がもはや死体のもので、彼女じしんのものでは永遠になくなったことを見て知った。その瞬間にまた、僕は僕じしんの、僕だけの秘密のように、僕だけの顔というものを手に入れてしまった。

 もはや母と切り離されて、次第に成長していく僕の顔は誰に似ているものでもなく、僕じしんの創造物というほかなくなった。母の雛として生まれたかった僕が、母になる道を見失ったときに感じた恐ろしさは他の言葉でうまく言い変えられない。もしも母が生きていてさえくれていれば、僕は毎日母そっくりに化粧をしたと思う。でももはや母のない僕は、自分を何者にするかを自分で決めなくてはいけなかった。

もはや母になれない僕が選んだのは、彼女がとてつもなく嫌っていた娼婦に、自分の顔を似せることだった。失っていく記憶が現実に近づくことが永遠にない以上、記憶のなかの母に自分を似せようとして、どんどん違うものに自分を近づけて行く滑稽さを意識して自分で回避したのだろうと思う。僕はあえて彼女とは全く違うものに自分を近づけようとした。

 またそれで母になる道を失った僕が、別の人間として生きて行く未来を受け入れようと試みていた。僕は自分の生活を創造することを一度放棄して、他人の生活の模倣をすることで、ともすれば自分を殺してしまいたくなる意識から自分を逃がそうとしていた。どうしてそれほど自分に自分を殺させまいとしたのか、はっきりとは分からないけれど、強いて考えるなら、お母さんの意志を継ごうとしたように思う。

お母さんは必ずしも僕に積極的に生きていてほしかったわけではないし、むしろ消極的に葬っていた感じもしたけれど、僕を生んだ以上は僕を育て、出て行くときも僕を連れ出して僕を生かしてくれた。自由、自由になる、ということを、教えるでもなく自分で服用する薬のように口癖に言い、金持ちでも貴族でもなく、環境から自分を自由にできる人間が一番えらいのだ、と僕に言ってきかせた。

 僕は母によって与えられた、母の死という関係から自分を羽ばたかせたかった。僕の顔を何かに変えなくてはいけないとなれば、ここから生きていかれる人間の顔にしたかった。母の顔をあきらめるならば娼婦の顔が良かった。そうして強引にでも僕を生かすことが、すなわち母に似ることのように最後は思われたのかもしれない。僕が無我夢中でとっていた行動の奥にひそむ理由にたいする、願望を含んだ推測だけれども。

 死者には棺というものがあるし、胎児にはまだ顔もみない女のお腹があるし、何にでもそれにぴったりの器というものがあるものだ。また胎児がお腹を蹴飛ばして女のお腹に痕をつけるみたいに、中にいる人間がその容れ物を変形させることだってめずらしくない。僕が、さいしょはお母さんとその恋人と三人で住み、それからお母さんと二人で住み、最後には僕ひとりになったそのアパートも、僕だけになったことで何だか顔かたちをそれらしく変えたように思う。部屋のなかに冷たい池でもあるかのように寂しく、寒々しくて、またその小さくて暗い池の面に、その部屋のなかを歩いている人間の姿が映り、それを見ている他人の目によって絶えず非難されているような空気が立ちこめていた。

 支払いの期日になると、子供の僕がつかんで持ってくる何ともいえない不気味なお金を、大家のおばさんが黙って受け取っていた。痩せぎすでオールドミスのあまり気持ちがいいと言えない女のひと。おばさんというよりはお姉さん、と言ってやるべきだったかもしれないけれど、僕がその部屋を貧しくしているのと同様、彼女の内面が彼女の持つ外面を物寂しく見せていた。

 僕のつかんできたお金を受け取りながら、馬鹿みたいに「あんたお金あるの、」としばしば彼女が尋ねる。僕はわらって、彼女にたいする意地悪なサービスのつもりで「ないよ、」と言ってやる。彼女は子供の僕を働かせて持っている部屋が、自分の財産に一つあるのがわずらわしく、願わくば僕に救いの手を差し伸べたがっている。そんなことは僕にはよく知れていた。

 しかし彼女の援助を受け取ってやる気はさらさらなく、僕はなかば彼女にたいする当てつけのようだと自分で感じつつも、彼女には絶対に出来ない方法でお金をねん出し、彼女にたいする自分の独立を勝ち取っていた。この独立の方法は具体的にはとても困難で、化粧のように簡単に真似できることでないことを、僕は娼婦の女たちから学んで実行しなくてはならず、殴られるのとは違う酷い痛みや失神をいつも伴った。

 でも、それぐらいの苦痛があることでなければ、飽きもせず僕はほんとうは要らないとまで言われているあの苦行を続けられなかっただろう。そしてあの苦しさのなかでも、次第にうまくやる方法を僕じしんが体得し始めて来たことも、僕があれを継続できた理由の一つではあった。

 僕は平凡に、他人からお金を受け取ることしかできない、この大家の女こそ僕よりよっぽど哀れむべき不自由な人間と見ていた。僕は堆い苦痛のなかから取り出した、僕の自由をぴかぴかに磨く過程に没頭し、失神し、復活し、次第にうまくやる方法を自分で独創するまでに至った。

 お金、お金! それは娼婦よりも、あるいはお母さんや僕の世話をしてくれた女の子たちよりも、それまで僕が手に入れた味方のなかでももっとも強力で素晴らしいものだった! 何しろ死んでいなくなることがないし、心変わりして僕の手のなかにありながら敵になってしまうこともない。いつもきちんと、そこに刻印された値打ちのかずのぶんだけ、正確に僕に忠実であってくれる。そして僕の代わりに他人に向き合ってくれ、僕を他のひとから自由にしてくれる、素晴らしい僕の兵隊。彼らは常に誰かの所有物であり、どこかの家の軒下に収まっている。

 僕の家に彼らがいないのは、他人の家に留まっているしるしでもある。僕は他人のもとに赴いて、彼らを他人から引きはがして連れてこなくてはいけない。そのためには僕は自分の家に留まっているわけにはいかない。

 だから、あの大家さんの目ざわりになるぐらいに、僕は出かけていってはしばしば他人を僕の家に連れてきた。でも、誰か他人と寝ていると、あんまりその家が僕だけのものであるという気がしなくなるから、なるべくなるべく僕は他人の家で済ませて、お金だけを持ち帰るように心掛けていた。だから、なるべくお客さんを捕まえるところは、遠いところが良かった。自分の足で歩けないぐらい遠くにいって、僕の身体を投げ込んできて、外套を脱ぐみたいに身体を脱ぎ捨ててお金とだけ帰って来ることが出来たらどんなにいいだろう。そんな風にも考えたりした。

 僕は彼女にお金を払って借りているその家を、朝になるとふらふらと出て行く。それから昼間のうちは教会のまえに行って寝て過ごす。その辺りにいる他の浮浪児と紛れるためだけの目的で。目印に僕は真っ赤な毛布に身体をくるませて寝ている。目立ちすぎないぐらいに化粧をした顔を、毛布からそっとのぞかせていると、分かるひとには僕が特別な品物だとすぐに見分けがつく。あるいは僕じしんがそれだと分かっていないと考える大人もいて、僕にお菓子をくれると言ってくる場合もある。その場では僕は他の子供の目をはばかり、いきなり彼に飛びついたりはしない。でもそんなことをしなくても、お互いにそれと分かる目印の付け方がある。

 僕は夕方になると、約束した大人の誰かとの待ち合わせに出かけて行く。だから教会の前では寝ない。そこは僕にとって単に他人と出会うための場所にすぎず、また他の浮浪児と違って自分の家というものがある以上、わざわざ誰に何をされるか分からない屋外で野宿する理由もないから。でも、他の子供と打ち解けず、浮浪児のひとりの振りをしていた僕は、彼らからは、寝ている間に彼らに小銭を奪われることを恐れて身を隠している、とても臆病で守銭奴の人間だと理解されているようだった。それで、僕はべつに良かった。

 また僕には信仰心を教えられたことはなく、毎日訪れていながら中に入ったこともない教会に、格別な思い入れはなかったのだけれど、過去にもった恋人のためにたしょう、僕のその生活をそこですることに後ろめたさがないわけでもなかった。僕が前に住んでいた家を追放されるきっかけになったのは、カールという口のきけない男が、僕をやはり女の子だと思い込み、暴力をふるって恋人にしていたためではあるのだけれど、彼は決して僕にたいして悪意があってそうしたのではなく、自分が尊敬する友達に教えられたことを忠実に繰り返して、思い出のなかにいる彼の友達に親しもうとしたのだった。カールが本当に心から愛していたハンスという友達は、もともと口のきけなかったカールを他の子供からずいぶん庇ってやり、彼の運命の手綱を握っていたという点で彼にとってほとんど神か、その代理人みたいな人間だった。

そのハンスが、カールがある女の子に好意を持っていることに気付き、彼女を愛する方法としてその暴力を彼に伝えた。彼はハンスの言うことを忠実に実行し、女の子はその暴力に驚いて失神し、彼はまたそれを中止させようとしたハンスによって性器を切られたということがあった。ハンスは、他の子供たちのまえで、絶対にしてはいけない暴力とその結果のデモンストレーションとして、カールを利用したのだった。

 また彼はカールについて「みんなのために犠牲になってくれた」という言い方で、彼を利用して他の子供がしそうな罪をかぶせたということを公言し、自分の犯した悪さえ包み隠さなかった。怪我をしたカールは予定通り罪人として、彼らが住んでいた家を追放され、彼を拾った老人の手で、他の子供と隔離されながら成人した。

 彼はずっとハンスに認められたいという慾を抑えかねていたのだろう。二階から落下して泣いていた僕を、巣から落ちた雛鳥のように連れて帰り、彼の知る方法で愛した。彼のそれが、子供のときに切られたものであったために僕は生き延びた。僕ははんぶんほどのそれと、それなりに上手くやる方法を仕方がなく身に付けた。

 彼は相変わらず成人しても口をきくことが出来なかったから、僕は彼の事情を、彼の震える舌や歯にゆびで触ることで確かめていった。それから、彼がハンスをいまだひどく愛していること、ハンスが彼にしていることが、彼が信じられないものに対してほんとうは発揮したい暴力を、仕方なく向けているものだとカールには分かっているということ、ハンスが神と教会を好きであるということなどが、彼の震える舌から僕のゆびに伝わった。

 カールと僕が発見されたのは、カールが僕を土に埋めようとしたときだった。僕が逃げ出すことを恐れた彼が、他人の眼から発見されないようにと土に埋めようとしたので、僕は驚いて大声を出して逃げてしまった。カールは僕を殺そうとしたのではなく、単に隠そうとしただけのことだったのだが、同じ土地で他にも女の子が殺されて埋められていたので、カールがまたしても他人の罪を着せられて捕まった。

 たぶん、僕にしたことと、彼が幼いときに女の子にしたこととを調べられた上でのことだったから、彼はもう生かされてはいないだろう。最初は断種されて終わったけれど、たぶん二度めは生かされていない。

 僕は彼の死に、貢献してしまった部分が大いにあるけれど、彼の被害者として引きはがされてしまったから、彼が最後どうなったのかは全然知らされず関わることが出来ていない。せめて彼を苦しめたくないと思うのだけれど、彼をいじめたハンスにたいする抑えがたい憎しみもある。

 僕はこの仕事をしなくてはいけないと決めたとき、することのためにどうしてもカールとの思い出がよみがえった。カールが僕を喜ばせようとして、僕に綺麗な小銭を握らせたこともあった。そのことで僕のお母さんは、僕が売春したといって物凄く怒ったものだったけれど、警察なんかは僕がすくみ上がって言いなりになっていたという説をまるきり信じ、僕がお金をよろこぶほどの余裕を持って怪物みたいなカールに接していたとは考えなかった。

 のちに僕はまるきり、警察が考えなかったような、そしてお母さんが憎んだような生き方を選んでしまうのだけれど、そのときに僕が他人と出会う所としては、なるべくカールの思い出がよみがえるような場所は避けたかった。教会は正直に言って、カールがしきりにハンスを僕に説明しようとして持ち出した場所で、そういう意味で僕は遠ざかっていたかった。

 それにこのなりふり構わぬ、僕じしん決して嬉しいわけではない、自分じしんと他人を捩じ伏せるような行動の舞台として、彼がその美しさを説明しようとしていた教会のまえというのは選びたくなかった。この街で他人と出会おうとして、もっともよく他人が集まり、そして浮浪児に身を紛れ込ませることが出来る場所といえば、中央駅のまえか階段のうえのこの教会だった。

 僕は初め、前者の方に居てすぐに敵を作った。彼らがどうして僕をみていきり立つのか、その理由も分からないまま、僕は彼らのからかいや投石から逃れるために、彼らを防いでくれる長い階段のある教会を選んだ。長い階段があることをしきりに言い訳にして。また相手を選ぶだけの時間だけだと言い聞かせて、そこでは商売はしないことを自分に課して、夕方になると必ず自分の身体をそこから引きはがし、階段の下で自分が選んだ大人と落ち合うのを日課にしながら。

 駅前にいた街の子供から逃れてきても、教会の前だろうと僕は定住すると他の子供にけむたがられた。僕がしていることをはっきりと分からないまでも、他の子供と違うことぐらいはやはり彼らの目につくのだ。僕が朝、ふらふらと階段を上っていくと、僕が寝床にしているところに誰かが尿をかけている最中だったりする。僕が怒ったり、彼らに殴りかかったりしても、僕はひとりぼっちだし彼らはだいたい複数でいるしで、喧嘩をしても身体に痣を作ったりするだけのことだった。

 僕が過剰に悲鳴をあげることで、教会を訪れている大人が止めてくれることもあったけれど、あまりにひんぱんなので次第に彼らのうちの誰も、この浮浪児の小競り合いに関わるまいとするようになった。僕は誰か味方を作るか、あるいは無抵抗でいるかしか、自分に傷を残さない方法がなくなり、もちろん後者を取った。味方を作ってしまえば、彼をつなぎとめておくだけの力が別に要る。

 僕はあの大家のほかに、与えることによって僕の良いようにつなぎとめておく人間を持ちたくはなかった。あんまり無抵抗でいても彼らがなかなか僕を解放しないときは、僕は大げさに傷ついた振りをして急にうずくまったり、泣き方を変えてみたりした。初めのうちこそ彼らは驚き、手をひっこめたりしてくれたけれど、そのうちに僕になぶられていると感じたみたいで、あるとき彼らが街から呼んだ加勢の子供たちに、手ひどく殴られる羽目になった。僕から何をしたわけでもなかったのに、彼らはもとから黙っていた僕の何を恐れていたのだろう。

 あまり泣いて目が腫れて、あとで化粧するときに障ったりすることを恐れて、僕がふたたび毛布にくるまっていると、「僕が何者か分かっている」大人の手つきで、そっと毛布を引っ張る手があったから、せめてそういう他人が手に入るならばいいやと思って、僕が顔をあげると、そこに子供がいた。

 いつも僕に嫌がらせをしてくる周囲の子供の中には見かけない顔で、栗毛色の短い髪に汚れた顔をしていて、街の浮浪児だなと直感した。さっき僕を殴ったり踏みつけたりしたうちの一人だろうと思って、とっさに何かしても良かったのだけれど、むやみに抵抗して身体に傷が増えるのを恐れて、僕はただぼんやりと彼の身体が動くのを眺めていた。棒きれみたいな僕の身体を引き寄せ、彼が口の端に噛みついた。彼が接吻したのだと分かるまでにしばらくかかった。

 痛くなかったか、と、平然と彼はたずねた。周囲にいる子供は、たびたび僕を殴る。僕のかたくなな無言、睨みつけるような態度が彼らを怒らせる。黙っている僕をさらに黙らせようと、もっとひどい暴力をふるうことのできる仲間を彼らが街から呼ぶ。彼らの仲間が街から呼ばれて階段を上って来る、それで僕を殴る。その暴力にどこまで参加しているのか分からないけれど、そのあとで必ず彼だけが戻って来る。それから、僕に痛かったかどうかを訊く。

「まるで大家さんだ、」と、内心僕はあけすけに嘲笑してやるような気持ちで思う。僕から家賃のお金を引いておきながら、それがどうやって生産されるのかを見ていると胸がわるくなり、自分がその犠牲をよろこんでいないような顔をする。たんに搾取するだけの覚悟がすわっていないまま、何かの拍子で自分が恨まれるのではないかとこわがっているだけじゃないか、と僕は勝手に解釈していた。「痛かったよ、」と僕はしょうじきに言ってやる。

 でも、彼はそのあとでどう、自分の行動を僕に説明したらいいのか分からないでいるみたいだった。きっと彼は接吻さえどうしたらいいのか、よく知らなかったのに違いない。他の仲間に紛れて、僕を殴ったり踏みつけたりした後、僕に何と言ったらいいのか分からず、僕をいたわる言葉すら考えつかず、ただ痛くなかったか、痛くなかったか、とばかりうつむいて繰り返すので、僕のほうが次第にくだらなくなって笑ってしまうのだった。僕が笑えば、彼は自分が赦されたと誤解して喜んでもよさそうだったが、さすがに僕は自分を殴った相手にたいして平然と笑うことは出来ていなかったらしく、僕が声を立てると何だか彼はかえっておびえたような顔でそっと僕を覗き込むような顔つきをした。

 後から彼が非難されるもとになる、僕たちの逢瀬というものは実際はこんなもので、彼はやって来ては困惑し、僕からの言葉をのぞみ、僕が彼の質問にただそうだと言ってやるだけのことだった。僕のほうでもべつだん彼にそれ以上の関心がわくはずもなかった。浮浪児がお金を持っていないことなんか火を見るより明らかだし、ただはねつけることで余計な波紋が僕の生活に訪れるのを消極的に拒んでいるだけのことだった。

 彼は僕に、彼らに加わるなとも言われず、また自分で加わるまいともせず、たびたび頼まれてやってくる襲撃に加勢し、それから決まって引き返して詫びるでもなく、見舞いに訪れた。

「べつに痛くもかゆくもないよ、」といつもの通り言ってあげたあとで、「きみが子供だから」と付け足して説明してあげたことがある。子供に殴られるぶんには、べつに気絶はしないのだ。殺す気で殴っているわけでもないから。

「それに、もし気絶するほど殴られたとしても、お金を持っていない相手に嫌われたところで僕は怖くなんかないね」と説明した。彼は僕の仕事を理解していなかった子供らしく、どうしてかと尋ねてきた。だから僕も正直に言ってやった。

「僕がここにこうしているのは、僕にお金をくれるひとに会うためだから。そのひとに気に入られることのほかは全部何だっていい。きみたちに好かれようと嫌われようと、そのひとと僕との間に起こることには何の関わりもないもの。僕がここを使うと決めた以上、きみたちが何をしようと僕がここからいなくなることはないよ。僕が待つひとが僕に会いに来なくなること以外に、僕が怖がることなんかない」

彼は、とてつもなく悲しそうな顔をした。僕は自分についてかなりあけすけに喋ったものの、あまりにも自分の生活と何ら関わりを持たない彼について罵った気は全然していなかったので、彼のそのいかにも打たれたような顔つきは意外で目を見張った。

「じゃあ、もし俺がお前にうんとお金を持ってきたら、お前、俺のこと怖がるのか」

 彼には慰めがいる、と思った。僕は子供ながら当時の生活のなかで、慰めの要る人間の真剣さ、というものにしばしば衝突して恐れを感じることがあった。彼らというものはまあ何と熱く、傷だらけで、周囲を自分の苦しみに感染させて巻き込むことに抵抗がないものだろうか。彼は、僕に気に入られたいという自分の希望さえも理解しておらず、ただ真似ごとみたいな硬い接吻をし、僕に自分が他の子供と違うことを分からせようとした。そのうちに自分の本意を、僕に怖がられたいことだと綺麗に誤解してしまった。

僕はこの理解にいまさら手を出すつもりがなく、また実際手の出しようがないということを分かっていた。もはや彼に、それは僕に好かれたいということなのだと教えてやるような気にもならず、ただ彼に向って「うん、」とだけ言った。彼にたいして僕がしてやれる慰めといえば、彼の望むとおり彼を怖がってやるということと、そのことによって彼が幸福になれると思わせてやることばかりだった。実際それは錯覚ではなく、殴っている僕が無抵抗に無感動にやり過ごそうとするのでなく、きちんと彼を怖がるそぶりをしていれば、彼は幸福になり得たのかもしれないけれど。

「うん、」と頷いたあとで、僕は彼に向って、僕のその肯定が自分の決意であることを自分に確かめるみたいに、言葉を付け足して話した。

「でも、それならほんの少しのお金ではだめだよ。ほかのひとがくれるぐらいのお金じゃ、僕はきみを怖いと思ったりしない。もし僕に持ってきてくれるなら、本当に僕が震えあがってしまうような、見たことがないぐらいたくさんのお金を持ってきてね。いままでに誰もくれたことがないぐらいに。そうしたら僕、きみを一番怖がると思う。きみを失うぐらいなら、自分のゆびだって切り落とせると思う。きみのほかに何にも怖いと思わなくなるぐらい、たくさんのお金を僕にちょうだいね」

 きみを一番に怖がる、と言う言葉を言ったとき、彼が一番になるために頑張ってくれなくてはいけない、と僕は心のなかでもちろん考えた。僕はこれを彼とだけの約束にせず、僕の周囲でひそかに僕に手心をくわえてあまり痛く殴らなかった、僕と親しくしかねていた子供に早速同じ約束をした。それから僕にたいする嫌がらせをまだ出来ない、幼い浮浪児をつかって噂を振りまくように仕向けた。彼との約束を反古にしたようなつもりは全然なく、他の子供も参加しなくては彼が約束を実行できないと考え、むしろ彼に親切にしたようなつもりになっていた。

 他の子供の会話から、とくに彼の行動に関することを分かれるようにしたいと考え、浮浪児の小さい子供に「あの男の子の名前は何ていうの」と尋ねた。僕という嫌われ者にたいして、軽い静止が彼らの間で働いたのをみたのは面白かったけれど、その制止のなかからロマ、という声がした。頬に噛みついたりされながら、また怖がると約束していながら、彼の名前を僕は分かっていなかった。彼が僕の畏怖を買うためにたくさんのお金を運んで来られるかどうか、その想像の素材になるまで彼は心底僕にとってどうでも良い存在だった。

 具体的に彼が頑張れるように、僕は考えていままで始めたことがないことを始めた。子供を相手にするということ自体、僕には発想がないことだったけれど、彼らは集団になったり他に負けまいとすると、相手を凌ぎたいというただそれだけの理由で非常に頑張ったりすることは、かずかずの小競り合いに巻き込まれるうちに僕が経験的に理解していたことだった。僕は子供には売らなかった自分の身体を、部分的に売ることを始めた。ゆびいっぽんが二十ドル、奥歯を五十ドルで売りに出した。

 彼らが一日ねばって、一ドルも集められないことなんかは分かっていた。要するにこれは他人から奪えということだった。お金が欲しかった以外にも、彼ら同士をぶつける仕組みにしたところに、当時の僕の考えがよく現れていると思う。僕は彼らがお金を持ってくることも期待していたが、それ以上にそれまで僕に向けていた敵意を、彼らの間で発散してくれるように仕向けたかった。そして手に入れることが困難になるほど、僕の値打ちが彼らの間で上昇することを期待した。

 もちろん、誰も僕を買ってくれないのでは意味がない。僕はお前だけは無料にしてやると言い含めて、僕に関心を持っていると分かっていた子供に、仲間の見ている前で僕のゆびを買いに来させた。僕はさも彼から受け取ったようにお金を捧げ、彼らのまえで大げさに数えてみたりして、確かにぴったりそろっていることを確かめると、身体ぜんたいで声をひそめるような仕草をして彼をさらに近くに呼び寄せた。

階段のうえに座っている僕に、このときばかりは彼が糸のついた人形みたいに引き上げられ、従順に寄って来るのを見て、僕は自分じしんの力というより、僕がふだん自分を生かすためにやっているあの売春行為が、僕に加えた力の意外な側面を見たような気がした。

 彼らがするように僕は他人を殴ったりしないが、あれをやっていることで僕はこんな風に彼らに恐れられるような、まるで大人の贋物みたいな力を彼らに向かって振るうことが出来るらしい。僕はそれこそ処女を扱うみたいに、僕の振るう力に何の抵抗も見せない子供を自分のところまで引き上げ、それから彼に口を開けるように言った。

 彼が大人しく口を開けるのを、僕を殴っていた彼の仲間がまるで承認するみたいにじっと階段の上や、途中にいて見守っている。何と滑稽で自然なんだろうとおかしくなりつつ、僕は彼の口のなかにゆびを入れた。口を閉じて、というまで、彼は唾液を口の端から垂らしつつ正体のない影のようになって突っ立っていた。

 僕は、こんなに無抵抗なものが自分に立ちふさがっているものの正体になったことがおかしく、ちょっと笑うことを我慢できなくなりそうだったけれど、促して僕のゆびを咥えさせたのち、ゆっくりとそのなかを掻きまわして、それから突然喉の奥を突いた。その子は無感動に階段に背面から倒れ込んだ。彼は自分の身体を支えることをすっかり忘れていた。その姿の滑稽さが子供たちの爆発的な笑いを誘い、その笑いの勢いが僕を彼にたいする勝利者にした。他の子供はみんな自分ならば上手くやると思ったらしく、自分が僕を買うと言ってそれぞれの巣穴に飛んで帰った。でもつぎの挑戦者はしばらく現れなかった。幼い子供の話では、その日金を掴みにいった子供は互いに奪い合って淘汰されてしまったらしく、喧嘩になって誰もひとりで階段を上がりに来られなかったようだった。それで僕には、全然良かった。

 僕の目的は、あくまでもロマに正直に言ったとおり、僕にちゃんとしたお金を払いに来る大人にめぐり合うことであり、その間に自分の商品である身体をむやみと傷つけさせないこと、痣や何かを残させないようにしておくことだった。彼らの一部が喧嘩するうちに、僕という商品をさておいてすっかり険悪になっているらしいのは良い気味だった。彼らが険悪になること、彼ら同士がつぶし合って淘汰されていくことに僕に異存があるはずもなかった。またそれほど仲間割れに至っていない連中でも、僕のゆびを買うために苦労することで、僕への執着を深めていっているようなのは傍目に見ていても面白かった。ただ僕を殴ることでうまく発散されてしまっていた、正体のわからない僕にたいする関心が、僕にお金を持ちこむ形で凝ってくれることにやはり異存はなかった。早く彼らの関心が金になればいいのにと思いつつ僕はしばらく夢のような平穏を過ごした。彼らとのやりとりが大人との間には何ら関係がないのだ、とロマに言ったのもやはり本当で、彼らとそんなやりとりをして平気で寝ている間も、僕の顔をみて僕に約束しに来る大人というのはやはりいた。そして大人に抱かれて階段を離れて行く僕を見て、やっぱりそれだけたくさんのお金を払いに来る人間がいるのだ、という噂が立ったことは、やはり僕の利益になった。

 とうとう僕の歯を買う子供が現れた。歯を買うだけのお金を手にしてきた、子供が。僕に向かって早くしろ早くしろとせがんでいたところを見ると、まだ僕に渡した時点ではほかに持ち主のいるお金だったのだろう。僕はいつも通り、受け取った後で合計金額を念入りに改めた。絶対に小銭が混じるものだから、慎重に数えないといけない。浮浪児の一人が独力で貯められるはずのないそのお金は、いつも誰かの手から強引に奪い取られた痕跡を残していて、まるで彼らそっくりで汚かった。彼らの飢え、争い、希望のなさを描いた短い絵みたいであり、彼らが何をしているのかを紙幣が僕に大声で、でもひっそりと密告しているみたいで手にするのが面白かった。最初こそ、仲良く僕にひどい言葉を投げ、石を投げつけていた彼らであったのに、今や彼らは貧しい以上にもう一つ別の病をそろって背負って苦しんでいる。

 でも、発症したのは彼らであり、たとえ僕が火をつけたにしても、あかあかと燃えている彼らの身体に、生活に、たっぷりと燃えるだけの脂があらかじめ染み込んでいたのだと思い僕は罪の意識をなんにも感じない。それ以上に、彼らをこのようにしたのが僕のささいな歯やゆびであるということが面白く、僕はその快さに浸るためにとてもお金をゆっくりと数えた。彼らにしてみれば僕がすこし彼ら脅しているようにも、見えたかもしれない。

 それにしても紙幣と比べると硬貨というのは、彼らにいかに乱暴にされてもその外貌を崩すことなく、冷たい鏡のように輝いていて、僕にはむしろ硬貨の方がえらいもののように感じられた。それは雌の貨幣であるように思われた。横顔を彫られている人間たちは、みな豊かな髪を女のように凝った纏め方をしていて、鈍い鏡のような丸い金属のなかにぼんやりと描かれると、豊かな乳房をもった女神のようにも思われた。女の子の人形遊びが好きだった僕は、硬貨の方をいちいち愛着をもって取り上げたり眺めたりしていたけれど、彼らには僕がいかにも用心しながら数えている仕草に思われたらしく、ふいに不安になったのか怒ろうとしたり、またそのことで僕の機嫌を損ねたら困るとばかりに途切れるように黙ったりした。

ふと夥しい硬貨の群れを見て、誰かが僕への贈り物のようなつもりで綺麗な硬貨をくれたのかとも思ったが、これはうぬぼれの強い僕の想像の失敗にすぎなかった。彼らは商品の僕を獲得したいとは思っても、誰も僕を喜ばせたいなどとは思っていないことぐらい最初から明白だった。散々の喧嘩の季節のあとで、僕は彼らの間で深い憎しみの対象になり、彼らのうちの鈍感なのがそれを愛着と間違えているといった具合で、誰も僕から関心を買いたいなどとは思っていないのだった。そんなことを最後まで考えていたのは、「僕に恐れられたい」と願い続けたあの頭のわるい子供だけだっただろう。かわいそうな僕のロマ、彼の名前よりも、あのくぐもった喉の音や、怖々と触れてくる手つきのことばかりが、彼の名前みたいにはっきりと頭のなかを過る、僕に恐れられたかったかわいそうなただの子供。僕のお客さんにならなかった子供。

 この、とうとう現れた歯を買いに来た子供、というのは誰だったんだろうか。ロマでもようやく名前を訊いて分かったぐらいなので、僕はあんまり他人のことをいちいちわきまえてはいないのだけれど、ロマでなかったことははっきりしている。それから、そのときえらく天気が良かったことも覚えている。何だか血のように青い空が広がっていて、僕はとうとう現れた歯を買いに来るだけの略奪をしてきた子供に、何の感興も湧かずにただ向かい合っていた。正確に言うと、彼でなく彼の背後にそびえるように流れている青い空を、まるで血を流して横たわっている動物の血管の透けた腹のように眺めていたと思う。それは僕にたいして想像という形でなく、空がそのように擬態しているかのように起こっていたことだった。僕も動物を見ているような気分であることを不思議に思うぐらいの神経の震えがあり、真っ二つにされた丸太の断面を見るようだ、とも自分で思い直した。

 僕は、目の前の子供を突き飛ばすことが出来ても、自分が全然相変わらず無力であるということを、このそびえるような青空、何者かの死体のように動かしがたいこの真っ青な幔幕を見て感じていた。僕がたとえばこの子供をここで殺害しようとも、僕は自分にそのつぎの瞬間から起こることに何の影響もくわえられないだろう。何だかそんな気がして、僕は今からしようとしている征服がふいに馬鹿馬鹿しいものに感じられた。

 話してきたとおり、僕は彼らの競争心をあおることで、僕に対して征服慾を起こさせ、僕の値打ちを彼らの間で上昇させることに仮に成功していた。誰も僕に好かれたいとは思っていなかったけれど、僕を手に入れたいと願っていることは確かで、彼らは僕を手に入れるための苦労を惜しまず、せっせと仲間割れもしていた。ここまで上がって来る者は、少なからず他の子供から略奪してきた、小さな征服者だった。その征服者が、この階段を上がって来るときばかりは、不思議と大人にたいしてするように従順になる。僕は自分を強い者にしてくれるこの舞台装置を有難いものに思ったりもしたけれど、この歯を売る段になって何だか凄く馬鹿馬鹿しく思えた。僕の無気力さは見ている彼らに伝わり、僕を買おうとした彼は自分が弄られているように思ったのか、結構怒っていることが伝わってきた、あくまでも僕の機嫌を損じない程度にだけれど。

 僕は確かに彼から受け取ったお金が足りていることを確かめると、彼をそっと手まねきした。ゆびを買った連中がみんな突き倒されていることを分かっている子供たちは、歯であればいったいどんなことになるのか、固唾を呑んで見守っていた。大半が、彼が無残に弄られて死体にされることを期待しながら。

僕が彼の首の後ろを掴んでいたので、子供たちはいっしゅん僕が彼を締め上げているものと期待したらしかった。喜んで僕の方を覗き込んだ連中が、僕が彼に接吻しているのを見つけて酷い悲鳴をあげた。僕はまるで石になったみたいに硬直した彼の身体を掴み、強引に自分の口元を押しつけ、舌をその口のなかに入れた。彼が全く何も分かっていないのは明白で、だから身体をまさぐるのとほとんど同じぐらい馬鹿な苦労をしたのだけれど、舌で触って促してやるうちに、ようやく彼の舌が僕の歯に触れた。僕はさらに彼にだけ分かるように合図し、舌の先で僕の奥の歯に触れるようにと促した。

 子供たちは僕が彼にしていることを見て、理解が出来ずに泣き叫ぶみたいな声をあげていた。僕にはあんなにもあっさりと、ある日突然降りかかってきたあの暴力から、どうしてこんなにも遮断されて守られている子供たちがこれほど多くいるのだろうと思うと、僕はふいに彼らが妬ましくも感じられた。名前の分からない、ただ硬直している男の子である彼の舌が僕の歯に触れようとした瞬間、僕は彼に応えるみたいに彼の口の端を噛んだ。その痛みに抵抗しようとした彼があおむけに倒れた。歓声が噴水のように起こって、目の前の青空が真っ二つに割れたような感じがした。

 久しぶりに誰かに蹴飛ばされて目が覚めた。僕はあんまりしばらく殴られていなかったもので、何だか夢でも見ているような気がとっさにしたほどだった。既に僕が突き落とした子供も、歓声をあげていた子供もいなくなり、僕の周りに定住している子供もなりを潜めている時間だった。僕はうっかりと夕方まで寝過ごしてしまったものだと気がついた。僕を蹴飛ばした人間の後ろで、あかあかと夕焼けの太陽がかがやいていた。僕は彼を見るより、あれが沈みきるまえにここを出なくてはいけないのだと漠然と思ったりした。それからもう一度彼に額を蹴飛ばされてまた我に返った。太陽のために全然顔が見えていなかったのだけれど、僕を蹴ったときによくよく顔をみて、それがロマなんだと分かった。

 彼の全身に、彼がそうしなくてはならない理由が滲んでいる感じがして、その後のことは平凡な成り行きであるような気がした。彼がどういう理由に駆られているにせよ、僕にとって気になるのは、このあとどれぐらい傷をつけられるかということだった。約束はしていなかったが、そこに行きさえすればどうにかなるという当てがある日だった。そう言えば、僕の事情をゆいいつ分かっている彼は、ほどほどにして僕を解放してくれたりしないだろうか。

 ロマはそういう僕の声が聞こえでもしたみたいに、また僕を無視するみたいに、いきなり僕の首のあたりを踏みつけた。とっさに僕は息が出来ないと感じ、また身を守るために毛布をかぶりなおそうとして伸ばした手をさらに踏みつけられた。彼に少なくとも、この暴力の動機があることは明らかで、僕はとっさに凄く何となくだけれど、彼は僕のゆびなり歯なり持ち帰ったり、確かに僕を征服してやったというしるしがない限り、彼らのいる群れに帰れないのかな、と漠然と思った。

 僕はそう理解しながら、確かめるようなつもりで彼の顔を見ようとした。そのとき自分が、懇願するみたいな目つきになっていないかとすごく心配だった。そうして怖々と自分が秘めているものを怖れつつ彼を見上げると、彼は可哀想になるぐらいに、彼を縛りつけているものを露呈していた。それから僕の頭蓋骨を蹴飛ばすみたいに顔を蹴って、倒れ込んでうずくまった僕の胴をさらにめちゃくちゃに踏みつけた。それだけでなく、彼は僕に向かって汚い言葉をたくさん並べた。そのなかに売女、をさらに酷くした言葉があって、彼がその言葉を忌み嫌っているらしいこととか、彼の僕にたいする触れ方にへんな恐れがあることとかからも、誰か良くない他人が彼に僕のしていることを吹きこんだのだと理解が出来た。またこれは彼の個人的な報復のようなものではなく、彼の背後にいて笑いを抑えながら見ている連中に向けて示されているものなのだとも、理解が出来た。

 つまり僕は彼らを焚きつけ過ぎ、彼らに喧嘩させすぎ、僕との接触をあんまり高価なものにさせすぎた。僕の周りで寝ていた子供の誰かが、街の子供に、僕がしばしばロマとは接触していることを知らせたのかもしれず、またロマの不注意で僕にたいしてあんまり乱暴しなかったことを見つけられていたのかもしれない。いずれにせよ五十ドルで売っていた僕の奥の歯を、ロマだけがこっそり受け取っていると分かったら、あれほど戦争していた彼らにしてはみれば面白くなかったのだろう。彼らはロマを袋叩きにしてもよさそうだったと思うが、もともと仲間だったロマを苦しめるよりは、彼らをうんと苦しめた僕を痛めつけさせ、またロマに潔白を証明させるほうが彼らのやり方にそっていたのだろう。

 僕はロマが知らされた言葉を聴いて、傷つくというより可笑しくなった。彼らがいかに、僕が簡単に触れさせられた危険さから守られていたか、その単純な罵詈雑言からはかられて、そのことのほうが間接的に僕を苦しめた。僕はロマに攻撃されたことで、ロマを憎いとは思わず、むしろあんなに苦しげに僕を殴らなければ帰れない立場のあることに同情した。彼の家というのはつまり金で買うものでなく、振る舞いによって仲間に借りている実に不自由なものだった。

 僕への殴打でようやく自分の居場所を取り戻せるというのなら、全然殴ったらいいのだと思った。僕が手に入れたいものと彼はそもそもかかわりがないのだから、彼の気の済むようにしたらいいのだと思った。でも、それにしても彼は僕を殴るだけで、巣に帰れるのかと思うと、ふいに彼を妬ましく感じた。それから誰かがはやし立てる声がして、ロマはその命令を聴くのを躊躇したみたいだった。

 僕は正確に、彼らのうちの誰かが何といったのか分からなかった。でもその代わりにロマが選んだのが、僕の髪の毛を引きぬくことだった。僕はお金を持ってこないやつには、髪の毛いっぽんだって渡さないと宣言したことがあり、これだけでも屈辱と言えないことはなかった。ロマは僕の頭を踏みつけておいて、僕が背中まで垂らしている黒い髪を掴んで引き千切った。何だかずいぶん大げさな音が耳元でしたように感じた。


 だから彼がそのあとで戻ってきたことは、性懲りもない僕へのどうしようもない好意だったと言わざるを得ないだろう。彼はもう、馬鹿馬鹿しいぐらいに夥しい涙を落して、このときばかりは僕に謝った。彼が落とした涙が首についたとき、どうして涙というものはこんなに熱いんだろうと不思議に思ったのを覚えている。僕は彼が、僕への暴力のしるしに引き千切ったあとで、髪の毛がよけいに抜けて禿げてしまったりしていないかだとか、そんなことを漠然と心配した。彼はもはや、僕が彼をちゃんと見たりしないことを気にしてもいなかった。

 あんなに泣いて騒いでいたら、また誰かに密告されるよ、と思った。でもその場合に殴られるのはまた僕なのだろうか、と思うと、こんなに大げさに泣かないでもらいたいと迷惑に感じた。彼に抱きしめられるたびに、踏みつけられたときの情けない力の通った軌跡がみしみしと鳴って分かるようだった。僕は彼が僕に浴びせている言葉にはもはや関心がなかったけれど、彼が全身に残して行った力の足跡には目が行った。

 そして彼に向ってしがみつき、周りの誰にも聞かれないように注意して耳打ちをした。彼がしたその息を殺した返事の内容より、頷いたときの体重のかけ方を、僕は尖った針の先端でも見るみたいに注視した。僕をぎゅっと締めつけるみたいに抱きしめる、その最後の力の堆さについては、秤のなかの砂糖を眺めるみたいに調べた。僕は彼から降りかかる力を天秤の片方にかけ、もう片方には平均的な、僕に優しい大人の力を思い出しながらかけた。

 不思議に思われることに対し、僕じしんがその不思議に思う理由に共感できないとき、僕のほうが不思議に思い返す。どうしてそんなことが他人に、何の理由もなく信じられていて、僕はその病気に罹っていないんだろう。どうして僕だけが正常に物事を理解しているんだろうか? という具合に。子供の頃の僕に、味方になってくれる大人がいた、というのがその一つだ。

 僕がまだ小さかった頃の話をすると、決まって幾人か仕方なしに大人が登場するのだけれど、僕ではなかった他人というのはかならずどうしてか「ではあなたはそのひとの被害者だったんでしょう」というような反応をする。僕にはこれが不思議で仕方がない。確かに、僕は彼らに比べて金がなく、身体が小さく、暴力に訴えられればかならず僕は負けただろう(それに驚くと気絶する癖のため、僕は子供のころ実践によって自分を鍛えるという経験すらも手なかった)。でもそれだからって、そのはんたいである大人を征服できないということの証拠にはならない。むしろ僕は、自分の脆弱さが爪となり、尖った歯になって彼らの栄養のゆきわたった分厚い肉に食いついて痕を残すことが出来ることを、僕がはっきりと目覚めている間という短い間の経験だけでも分かっていて、幾人かはちゃんと征服していた。

 マトヴェイがその一人だった。といって彼は僕にとって、酸っぱくも辛くもにがくも何ともない人物で、人のいい牛みたいな感じの、食べるところは広大にあって、何となくのろくさく、でもどこか触れ方を間違えればうっかり踏み殺されて、でも殺意なんて明確な閃きに基づく殺人なんていうものとは縁がなく、ただ草を食うような習慣の過程で、不注意に僕を轢き殺してしまっただけなのだという風に周囲から片付けられるような、そんな人のいい男だった。年齢ははっきり聞いたことなんかないけど、だいたい四十半ばぐらいだっただろうと思う。奥さんも子供もいなくて、僕のような少女娼婦まがいを買ってもべつに波乱が起こるような基盤を持たないひと。

 何も子供が好きでそうなったというのではなく、また同性が好きでそうなったというのでもなく、彼はただ弱いものを一時的に保護しているのが好きで、そういう自分の志向からくる見ず知らずの他人の保護という習慣を、ただ一人の人間で埋め立ててしまうことがきらいだったからそういう生活をしていたのだろうと思う。彼はお父さんの持っていた酒場をそのまま引き継いで経営していて、僕は親の築いた生活を壊さない彼らしい選択と思って眺めていたけれど、見方を変えてみれば彼の酒場に来るのは彼にとって客でありはんぶん友人であり、三分の一ぐらいは家族と言っても差し支えないようなひとたちであり、ともかく一時的に停泊するひとたちばっかりだったから、彼にとっては先天的に彼の神経に合う環境を親に与えられていたということで、何も自分でそれらを破壊していく角なんか持つ必要がなくてああだったのかもしれない。

 彼は店の客を狙って来る娼婦のなかでも、とびきり頼りなさそうな、ぼろぼろになって傾いている家みたいな娘を選んできては、父親のような兄のような愛情を示し、庇護者らしくふるまって、また自分の正式な愛人であることを示すみたいに自分の店に堂々と立たせた。これが彼のする意地悪と言えばそうで、この仕打ちによりマトヴェイの恋人というのは大概すぐ、彼の友人たちにその出自をからかわれたり、仕事ぶりのまずさを叱られたりしてなぶりものにされた。

 彼女たちのうち少しでも反抗心を持てる者は、マトヴェイに対して泣いたり怒ったりして自分のされたことを訴えたけれど、彼と友人の間にはさまっている友情にひびを入れるほどその涙は強くなかった。ただ一時的に保護している弱った獣がいかに泣いたって、せいぜいマトヴェイにとってはそれを飼いならしている間のほんのつかの間の面白味にしかならなかっただろうと思う。

 彼は自分の友人たちの前に、恋人を堂々と立たせることを自分の誠実さだとほんとうに思い、また友人たちもそのように評していたけれど、実際彼女と彼の友人たちがそんな衝突を繰り返していても何もあきらめなかったところを見ると、自分の誠実さがどんな悲惨な家事を招いたとしても、そのことに何の責任も感じない人物だったんだろうと思う。彼はただ言われているような手順で小さな木に火をともしてやったのであり、それが油と結びついて他人の家を燃やすなどということは、他人の家と油との間に起こった悲劇なのであって彼には全然関連しないのだ。

 僕は、マトヴェイが繰り返すことを対岸の火事のように眺め、ほかの娼婦の狙う客にぶつからないように泳いでいたつもりだったのだけれど、客を掴みそこねてぼんやりしていたあるとき、うっかり彼に見つけられてしまった。僕は不思議なことに、彼がめのまえで情緒的に広げては閉じていく、あの弱った魚ばかりを狙った網に、まさか自分が引っ掛かるとは全然想像していなかった。それともあの角のような悪意のない、ただ事態にたいする身動きが鈍重なばかりに、酷い車みたいになって他人を轢き殺すあの誠実さの塊には、僕の知らないするどい眼がついていて、僕の身体には男性器があるという傷があることを見抜いていたのだろうか。

 

 何を考えてるんだい、と彼は僕におもねるみたいに尋ねた。僕は馬鹿なロマに乱暴にされた痕跡があるとは言え、それが自分が何かを考えた直接の痕跡にはならないと思っていたから、彼からこう問われたときには酷く悲しいような気がした。僕が彼に逢うときというのは、ほんとうにほんとうに誰も捕まる気配がないとき、このままだと子供に見つかって殴られるとかそういう恐れがあるときに、仕方なしに彼にしがみつくという具合で、お金を貰うのは僕であるにしても、安全な商品として僕が彼を買っているような感じがあった。

 彼が最初に僕を手に入れたとき、僕の身体についている傷は彼をさほど驚かさなかった。むしろ僕が不自然な理由でその商売についていることに、彼の関心の矛先が向かったのが分かったので、僕はしょうじきに「いまいる家に住み続けなくてはいけないから」と、たんなる自分の希望をまるで義務のようにいかめしく語った。彼のまえで言い張るには希望では頼りなく、ありきたりな弱者の悲嘆のように彼に栄養にされてしまう恐れがあり、僕じしんの義務であると言い張らなくてはいけない緊張を覚えたのを覚えている。

 僕に家族はおらず、いまの家に一人で住み続けるためには家賃を支払わなくてはならず、僕は自由であるために自分が打ち壊せるだけの不自由が同時に必要なのだと言い、彼はれいの夥しい、けたたましさのない広大な微笑をもって僕の要求を聞き入れ、ある程度僕に従いながら僕を抱いた。それから僕にありきたりの娼婦に渡すのと同じ程度にお金をくれた。

 僕は彼の、僕にたいする尊重の仕方が気に入ったし、それからはもっと小さな暴君のように彼にふるまった。もっともそれは彼の許容するところであり、言ってしまえば彼に気を許しているというような態度のサービスであったけれど、こういう遊びを無言のうちにやり始めると、僕と彼とのうえに「本心を語る言葉は要らない」という理解がむくむくと仕方なく生える雑草のように芽生えてくるのがお互いに分かる。僕は彼に、なぜ弱い娼婦ばかり狙うのかを自分の観察した以上に彼に問いただしたことなんかないし、彼も僕の商売の理由を家賃の支払い以上に確かめようとはしてこない。僕じしんの我儘が彼に赦されていると分かった上でのことだけれど大いに定着し、凝固して彼との間で特別な友情のようなものに変わり果てた頃だった。

 僕がロマに出会った後、初めて家賃の支払いでない理由で彼を訪ねたのは。何を考えている、なんて言い出したのは、彼がほんとうにその答えを知りたかったためではなく、僕がそれほど彼のまえで無防備に自分の震えを曝け出していることにたいする、彼からの思いやりに満ちた警告だった。僕は彼のまえで裸であることを恥ずかしいと感じたことなど一度もないけれど、この考えばかりは彼に打ち明けたあと、どんな反応があるかと内心恐れていたので、彼に指摘されると恐れを一本の感情に纏めることがままならず、こんな時ばかり子供の身体の生理に頼ってとめどなく泣きだしてしまった。それきり彼も追っては来なかった。

 彼は僕が泣きだしたからというような格好をつけて、あまり僕を踏み殺さないうちに止めた。まだ月が出ているうちにといって、僕を抱き上げて僕の家まで送っていくと言った。

 彼は僕が店に現れてから、僕をともなって店を開けていたし、ほかの客には少女娼婦だと思われている僕と奥でどんな話をしているかは、他の客に想像されているはずだったけれど、僕については他の女と少し違うところがあると何だか色んな娼婦をいじめてきた彼の友人たちにも分かるのか、好色な冗談を言ってからかったりはしてこず、むしろ僕をいじかねている子供のようにふくれっ面をして、僕から一線を引いたところで睨んでいるといった有様だった。

 僕が犬か何かのように彼に抱きかかえられて店の裏から出るときも、律儀に彼らに挨拶していくマトヴェイを見て、わざと僕に向かって何か言った客がいたけれど、マトヴェイでなく他の客に制されていた。やっぱり僕は他人にはいつも通りに見えるらしいと分かり、内心僕はその平凡な客に感謝したのだけれど。

 月があかあかと、なみなみと注いだ酒の面みたいにたっぷりと輝いていた。あまりにもくっきりと顔を出した月からは匂いまでしそうだった。マトヴェイが過剰なおせっかいでない代わりに、その晩に出ている月はまるで彼が用意して出したもののような人工的な感じもした。店を出るとき、彼は余分に上着を持ってきて僕にかぶせた。警官などに僕が見つからないようにするためか、単に寒いと思ったのかそのあたりの判別も彼のばあいだとどちらともつかない感じがした。彼は僕に何にも言わずにずんずん道を行った。

 僕はかぶせられた上着のおかげで、どの程度自分の家の近くまで来ているかが分からず、ただ彼の足もとを飛ぶように動く影ばかりを見つめていた。彼の靴のそばを通り過ぎていく空しい影というようなものに、自分じしんが蒸発するようなすさまじい速度で変わりつつあるように思えた。僕はほんとうに僕の望みのとおりに行動するならば、彼が道を行くのに抵抗し、僕を昼のねぐらである教会へと連れていってくれるように頼むべきだったのに、まるで声を失ったみたいにそうしなかった。声になるべき考えは僕の胸のなかにあり、それは言葉になって出てこず、雪が溶けて道路の暗い染みになるみたいに、僕の喉の奥の暗い影になった。

 僕が上着をはねのけて周りの景色を見ようとしたとき、僕は自分でその動作がある行為の代わりになることを期待しているということに自分の動作の手触りで気付かされた。マトヴェイに、自分の行きたい先を告げる代わりに、僕は僕の行きたかったところを今一度確かめようとしていたのだ。僕の罪の告白にも近いこの行為は、僕がロマにたいして少しでも良心の呵責があるならば、ばっきりと堂々と、月が目にかぶさるぐらいにあからさまに行わなくてはいけない。はたして帽子を脱ぐみたいに彼の上着を自分からはぎ取ると、とても悲しいことに彼の肩の向こうに灯りに照らされた教会が凍ったように聳えていた。

 ただ照らされているだけの石の塊であるはずなのに、そのときははっきりと僕の肩を掴み、僕が動揺するぐらいに大声で僕を非難したような気がした。そこには僕が約束しておきながら、置き去りにされているロマがいるはずで、僕がこうして庇護者の腕に抱かれているそのときもなお、僕が言ったとおりに待っているはずだということ。仲間のまえで僕を滅多打ちにしたロマに確かに、僕は彼にだけ打ち明けるような内緒のそぶりで夜に戻って来るように言いつけた。

 彼は夢中で、ほんとうにいかめしく僕への忠誠心を頬に落としている涙の粒ほどにはっきりと露わにしてうなずくので僕はおかしくなったほどだった。彼に逢おうとして、その前に僕がよく知る家畜のような男を訪ねて半ば強引に自分を食わせたのは、ロマの石像にするような接吻の仕方をみて、ただの子供の僕の身体では彼の手に余ると感じたからだった。僕を踏みつける力の長さを推しはかっても、ともすれば女よりも使いにくい僕の身体を壊すのに、じゅうぶんな力とは言えない感じがした。

 ようするに僕は、彼に自分を投げ与える気で呼び出したのだけれど、彼に包丁を持たせて自分を裁かせるのではなく、自分ではない大人の力で予め自分をこなごなの血と肉の塊にし、スープのなかの原型を留めない魚の肉のようなものにして、彼の口のなかに自分というものの断片を押し込んでたっぷりと味わわせてやりたかった。僕の味によってそれが何かと分かるより前に、彼を内蔵から病気にするみたいに征服してやりたかった。

 これが、僕のロマにたいする思いで、僕がマトヴェイに隠そうとして露見していた企てのほとんど全部である。でも、僕が隠していたかったのはその企ての内容というより、僕がその企てを考え付いた理由だった。僕のゆびすら買えないロマから奪い取る金なんかなく、僕が彼を征服しようとする理由は僕に貢がせるためではありえない。だったらそれほど彼に執着する以上、僕は彼に恋慕していてもよさそうなものだけれど、僕は彼にたいしてそんな感情を持ったことはなく、もしかしたら恋慕へ昇華するかもしれなかった感情のむら気さえ、彼のあまりの子供らしさ、他愛なさのまえに何だか馬鹿馬鹿しく笑えるものに思えわれて糸の切れた首飾りの珠みたいにみんな失くしてしまっていた。

 ではどうしてこんなに、わざわざしたくもないことをやって、何でも本心を言い合わなくても済むようになった年上の友人にごまかしてまで、彼が抱けるような自分に自分を砕こうとしたのだろう。僕はストッキングを脱いだ女の足のように白く聳えている教会の壁を遠目に見ながら、彼に済まないと思うのと同時に、そんなところにいて庇護されている彼を死ぬほど羨ましく思った。

 どうしてもマトヴェイの目にその感情を隠したいと思った理由はつまるところこれだった。仲間に入らなくてはいけない仲間といて、彼らと共有のねぐらを持ち、群れで生きることが出来、他人の身体の味も知らずに生きているロマが、まるで僕の持たない視力を湛えている瞳を見るみたいに憎らしくてたまらなかった。そんな子供を汚す夢ばかりは、はっきりとこれは僕じしんの自由のための貯金なのだと言い張ったマトヴェイには知られたくなかったんだろう。

 それに僕は自分の憎しみを、そんな形で成就することをまだ恐れていた。そんな風に成就したあとで、僕を知ったロマを背負うのは僕じしんであり、あの数を知らない人間が何かを数えたがっているようなもどかしさを湛えた眼の子供はいなくなり、また僕がその肉を必要としない家畜が増えるだけのことだった。ふいに僕には他人に向かって言うことが一つだけしかないような気になる。

 僕はただ彼女の不穏な化粧の仕方に魅かれて近づいただけの娼婦に、ひどく同情されてまるで自分ならば可能だとでもいうみたいに、あなたの生活を代わってあげたいと言われたことがある。そんなに僕は深くものを考えて言ったりすることが好きではないたちなのだけれど、そのときばかりは尾を踏まれた猫みたいに、あなたに僕の身体みたいな不自由さがない限り僕の自由はいちにちたりとも務まらないんだと叫ぶみたいに言った。

 彼女は僕の言った内容より、僕が大きな声を出したことに驚いていた。その欠伸するようなたいくつな反応は全然嫌ではなかったし、むしろ彼女を好ましく感じたほどだったけれど、僕はその人間から受ける被害を恐れるあまり他人を侵略しておきたいと考える癖において、あんまり羨ましいと感じる他人は除かなくてはいけないとこの時に思った。

 ロマを征服したあとでいったい何が残っただろう。僕は自分の自由の通る道を、金をかけて舗装して保護している。そこに彼が横切って猫みたいに魅かれ、僕の車輪の染みになって何メートルにも渡って僕の自由の行く道を汚していく。

 彼はそんな風に僕には不要なもどかしさだったと思って、マトヴェイが僕を寝床に置いた後僕はしんしんと闇のなかに溶けるように寝た。マトヴェイは出ていくとき、ドアの音を殺して閉めるまでの気遣いを示し、僕にとってこの眠りが、僕が彼に逢うまでに持っていた目的にたいして投げつける石みたいなものであることを痛いぐらいに感じさせた。半ば僕は意地になって、籠城するみたいにその眠りのなかに朝がふけるまで居続けて、僕を苦しめた意識は長い眠りのなかで諦めるみたいにようよう解散して行った。

僕がつぎに目を明けると、もうずいぶんと太陽が高くなっていた。早朝はいつも、それまでゆったりとのさばっていた夜を蹴散らすみたいに靴音高く怒鳴りこむみたいな緊張でやって来るけれど、その音ももう遠くまで過ぎ去ってしまったみたいで、僕はこんなにたるんだ朝であれば緊張しないで済むと思い伸びをしながらその中へ出て行った。ある種の客に対しても、僕はこんな気安さでその前に出て行く場合があった。彼らが年老いている場合にだった。

 だらりと開きすぎた花というのは、美しいと言われるところまで回復する気配が全然なくて、安心して眺めることが出来る。朝がふけて、昼間の南中のような想像しさに達する前のみじかい時間というのは、人間が夥しくいるという街というそのものが好きでない僕が街にいられる短い時間だった。僕は道具箱の中にいれた化粧道具を見るみたいに、太陽に明るく特徴を照らし出されている昼間の街の家々の、建築の工夫をしらじらしく眺めたりした。

 道を歩きながらのんきな僕は、どうして僕がいつもよりこうも快活な気持ちでいるのかということを忘れていた。晴天が誰かの財産のようにのどかに広大に広がっていて、その誰かの持ち物みたいにどこか造形に共通したところのある雲が点々と可愛らしく、その広大さをかえって引き立たせるように点々と青い絨毯のうえを汚していた。

 僕は自分がいま吸っている街の空気の旨さというものが、何に依るものなのかやっぱり掴みかねていて、ふと記憶をたぐろうとするうちに、自分は起床したあとに散歩をする習慣があったことを思い出した。それは夜の間はたらいて、朝になって体内の血を描き集めてくるやり方が分からないうちに、うっかりと敵対する子供に遭うと抵抗できないことを経験してから、彼らに対抗できる身体にしておくためにする朝の準備体操だった。そのために自分が歩いているコースを、少し外れていることにも頭痛の鎮まるようにようやくはっきりと思いだしてきた。

 僕は歩きながら自分の身体をようやく自分の頭のなかにはっきりと思いだして描こうとするみたいにいつも散歩をするのだった。そうしてあらかじめ自分の財産である身体をはっきりさせないと、昼間のうちに密かな交渉をして、またその交渉を目立たせないようにするためにまどろんでいる時、子供に襲撃されて自分の身を守ることが出来なくなるから。

 僕はふと、家のなかに忘れ物をした気がした。それからのんきに、教会の前にロマを待たせていたことを思い出すと、慌てて自分が階段へ向かって走り出したのを見た。僕は昨日、彼を憎しみから捨て去ったことまでうっかり忘れていたのだった。ただしその捨てた理由を感じたくないために、ひっしに階段を駆け上がった。そのせいで何も見ずに上がったのだろうと後から考えると思う。

 僕が階段を上がると、まるで待ちかねていたみたいに僕をいじめている子供たちがそこにいて、うわっとまるで幽霊でも見たみたいな声をあげた。ほんとうに僕を幽霊だと思っている子供もいるらしく、僕を見てなおほとんど死人が近づいてくるのを見るみたいに、叫ぶような悲鳴を身体から漏らす子供もいた。

僕は周りの子供の蒼白な顔や尖った視線にばかり惹きつけられて、むしろ自分の居場所のことを失念してしまっていたのだけれど、彼らが遠のいた後でふと自分の居場所を見ると、そこには僕のいつもくるまっていた真っ赤な毛布が、真っ黒なインクのようなものを大量に吸って膨れ上がっていた。

 髪の長い病気の女がそこにくるまって倒れているような感じであり、よくみるとそれは刃物らしいものでズタズタに引き裂かれていた。中に人間が隠れていないものか、丹念に執拗に調べられた痕みたいだった。昨日の夜と言えば月明かりもさえざえとしていて、遠目から見てもはっきりと教会の壁のいろまで分かるぐらいだったというのに、襲撃者には目がついていなかったのか、ずいぶん焦った暴力が集中的にそこに注がれていた。

 そこでまず最初の出血があり、僕がくるまっていた毛布は夥しく人間の血を吸い、刃物で切り裂かれたあと引き出された中身は、僕がいま駆け上がってきた階段のほうまで引きずられたらしく、黒々と人間の胴体ぐらいの幅で引きずられていた。ほとんど直線的に続いているところを見ると、引きずられる方に何の抵抗もなく、もうすでにただの出血する荷物になっていた可能性が高いように思われたけれど、あるいは抵抗さえしなければどこかで逃げおおせるという風にでも子供なりに考えたのだろうか。

 それにしてもいくら子供とは言え、全く動かない人間ひとりふんの肉の重さを引きずって行くのにはずいぶんと力が要ると思うのだけれど、僕を襲わせたのであろう子供の誰がこんな化け物を手に入れていたのだろうと思われた。

 僕の知る限り、僕のように主体的に商売をしていた子供は僕の周りにいなかったし、これほど執拗な暴力をふるう人間を雛のような彼らの誰かが掌握していたとも思えない。単なる変質者の犯行にしては、周りで寝ていた子供がそろって無傷で僕を見ているところを見ると、やはり僕ひとりを狙った暴力にしか思えず、僕がここで寝ているのは昼間だけのことで、夜には自分か他人の家に行くということを知らない街の子供の仕業という風にしか考えられない。

 街の子供であった場合、仲間の目にはっきりと分かるほどに僕をかばおうとしていた彼が、僕への襲撃を聴かされていなかったことは想像に難くない。でも襲撃者が街の子供の誰かであったなら、連れていく過程でロマであると気付きそうなものだけれど、全くその痕跡がないところをみると襲撃者とロマとの間に面識はなさそうである。

 また面識がないにしても、街のなかで少なくとも自分を生かしていたロマが全く抵抗もしていないというのはどういうことだろうと思って、僕は馬鹿馬鹿しい想像をした。僕はもしかしたら、その化け物だと彼に思われたのかもしれない。化け物のほうでは一生懸命、彼に向って言われたとおりの暴力をふるい、彼を粉々にして計画通りに連れ去ったのだろう。

 ロマはどうして何の抵抗もしていないのかと言えば、彼は苦痛を感じていただろうけれど、もしかしたら僕の復讐だと感じたのかもしれないのだ。この説はあまりに少し自虐的すぎ、却って砂糖菓子のように不自然でほんとうに出来ないような気もしたが、そんな場合もありえるなと思った。いまとなっては影も形もなくなり、ただゆっくりと動かされている血の痕跡になってしまっている彼には尋ねようもないのだけれど、もし攻撃したのが僕だと思ったのなら、僕を好きなくせに僕をいじめたことに負い目があったのなら、僕が暴力にたいして何も抵抗もしない家畜なんか気に入るはずがないことぐらい分かっていてほしかったなと思った。

 いったいどんな安楽な夢を見ていたのか知らないけれど、僕の毛布にくるまって眠っていたところを襲撃されたらしい彼は、暴力の雨のなかでうずくまって大人しく絶命して連れ去られた、ということしか僕にもはや知らせてはくれなかった。僕はしばらくその痕跡をぼうぜんとゆびでたどるみたいに眺めていたけれど、僕が生きているという風聞が伝わってこんな目に遭わされては困ると思ったから、無言のうちに階段を下りた。しばらく行くと聞き取れないほどの声とともに、小石が一つ背後から落ちて来た。

 降りてみると確かに、ロマの血はながながとのどかに続いていた。その上を、僕のかかとに当たった小石がぱらぱらと落ちて行った。僕はふと、かつて僕の歯を買おうとした子に歯を与えたのち、ここから突き落としたことを思い出し、「せめて彼の歯ぐらい」と思った。

 あのぐっしょりと血に濡れた毛布のなかには、髪ひとすじぐらい望めそうだったけれど、つぎに向かったらいよいよ僕の死に場所になりそうな所へ向かう気にはなれなかった。ロマの歯はまだ子供の歯があっただろうから、折れたり抜けたりして手に入り易いのではないかと思ってかがみこんだ。黒いふとぶととした帯の血のなかには、僕の期待したような彼の肉片らしいものは何ひとつなかった。代わりに上がってきた太陽の光に反射して、僕の好きな硬貨が見つかった。それは大ぶりな、紙幣にも値する硬貨で、僕のゆびを買うために集められたもののくず硬貨のなかにもこんな大きな硬貨は見つかったためしがなかった。ふと、僕の歯を欲しがっていたのはロマだ、と思いだし、彼のお金ではないかと思われた。

 階段を下りるほどに点々と、物言わぬ彼の身体からこぼれおちたと思われる硬貨が続いた。取り上げて拾ってみると、僕は彼の襲撃の現場に来ただけだというのに、何だかお金持ちになったみたいだった。他の子供はみんな血の勢いに驚いてよく見もしなかったみたいだけれど、拾い集めてみると、僕の歯の値打ちを超えてしまった。僕の歯の二、三本を買おうとしていたような金額で、いよいよロマらしく思われたけれど、こんなお金をたっぷり持っていったい僕から何を貰うつもりでいたのだろうと思うと何だか笑えて来た。きっと僕の尻の肉だ、と僕は自分を慰めるみたいに、つい口にだして言った。

 僕は彼の残した形見を、おもちゃで遊ぶみたいにつぎつぎと拾い集めて行った。階段をすっかり降りる頃には僕のポケットにみっしりと満ち、昨晩マトヴェイに貰ったぶんのお金とぶつかってぱちぱちと音を立てた。最後に拾ったお金は銀色の硬貨で、女のひとに見える豊かな髪の偉人が横を向いていた。僕はまるで鏡を見るみたいにしばらくその顔に見惚れた。僕はこんな姿になりたいというより、なる義務があるのだと思い、そして当座の自分の義務としては、僕のすむ家を維持しなくてはいけないことを思い出し、あといくらあれば次の支払いに足りるのか、家に戻って調べなくてはいけないと明るい道を急いだ。

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