5 -彩花-
その絵と出会ったとき、彩花は十二だった。
怒りとも無力感とも言い難い煮え立つ気持ちを抱えながら、綾香はその時のことを思い出す。
一目見たとき、どこかの国のお伽話を思い出した。
人を氷にしてしまう悪い魔法使いのお話。
きっとこの絵を見ていれば、自分も氷になってしまう。
そう思いながらも、目をそらせなかった。
あのお話の若者と同じだ。恐ろしくても惹きつけられてしまう魔法にかかってしまったのだ。
「私と同じくらいの年の子が描いたんですって。すごいわね」
魔法を解いてくれたのは姉の声だった。
日溜りのような声が、少女の中の氷を溶かしていった。
その展示場では、資金調達も兼ねて展示作品が印刷された文具なども売られていて、生まれてはじめて展示場で買ってもらった絵葉書は、今でも額縁に入れて部屋に飾っている。
「よかったわね」
喜ぶ彩花の頭をなでる姉はさして興味なさそうに思えたが、実は姉の方が強い魔法にかかっていたことを後になって知る。
後日、姉は父に隠れてあの冬椿の作者が考案した着物を購入していたのだった。
大和屋の娘であることやその影響について父から説教を受けている姉を見ながら、彩花は言葉を失った。
姉はおよそ出来た人間だった。
欠点というような欠点はなく、わがままを言ったところを見たことがない。
駄々をこねてばかりの彩花とは大違いだ。
姉は歩く広告塔だったから、両親はあまりほかの店でつくられた服を身につけるのを嫌がっていた。
「そもそも、服というのは個人の意思で決めるものです。他社のものを認めないのは、大和屋の品位を下げるだけではないでしょうか」
父に真っ向から言い返す姉は、いつもとは別人のようだった。
結果的に、それが父の興味をひき、彼が店にやってきた。
姉はいつも静かな目線を周りに向けていた。
「ねぇ今日のお客様、かっこよかったわ。どこの方かしら」
「お客さまを変な目で値踏みしないの」
「えー。そんなの、つまらないわ。お姉様はあの人かっこいいとか、思うことはないの?」
「そうね。ないわね」
何も求めない、何も感じない。
それが最善の生き方であるとわかっているみたいに。
でもあの人が来てから姉はよく笑うようになった。
口を開けば、なにかとあの人の話ばかりだった。
「ねぇ、辰巳」
「うん?」
「辰巳って、花澄お姉様のことすきでしょ」
洗い場にいた辰巳にそう聞くと、洗っていた小鉢類を派手に落とした。
すぐに顔を真っ赤にして、そんなものじゃないとか、そもそも不釣り合いだとか、並べ立て始めた。
実にわかりやすかった。
「私はお姉様と辰巳はお似合いだと思うわ。だって、辰巳と話しているお姉様、楽しそうだもの」
心からそう思った。
だから、なにかと姉が好きなものを辰巳に伝えたし、できるだけ二人っきりになれるように全力を尽くした。
縁結びの神様になったような気持ちで、彩花は満足だった。
けれど、それは余計なおせっかいというものだったのだ。
嫁いだときの姉の目は、また人形のようなうわべだけの笑みを浮かべていた。
あの人も、そう。
あの人の描く絵は単調で、人の心を動かすような力はもはや持っていなかった。
姉が大きな商家へ嫁ぐのは変えられない。
だったら、最初から悲しまなくて済むように、むやみに意識させるべきではなかった。
辰巳が仕事を降ろされていくのを見るたび、心が痛んだ。
私のせいだ。
あんなに素敵な絵が描ける人だったのに。
振袖の図案を辰巳に描いてもらいたいと駄々をこねたのは、きっと罪悪感からだ。
姉と違って、辰巳が喜ぶことは分からない彩花には、ただ、機会と時間を与えることしかできなかった。