2 ー辰巳ー
三つ上の姉の影響で、辰巳は幼い頃から絵を描くことが好きだった。
姉の絵は辰巳にとって特別だった。
季節の移り変わる庭、雲が流れる空、道端に咲く花。
それらが木炭で薄墨紙に描きとどめられると、一枚の何処にでもある紙が特別なものになる。
その幻術のような力に彼は憧れた。
自分もその力が欲しくて、学問所の授業中も教科書に隠しながら絵を描いていた。
姉は、本染め職人となるために家を出て暮らし始めた。
その後を追うように、辰巳は近くの街の染織図案家に弟子入りした。
いつか姉と一緒に着物を作る。
それが彼の夢だった。
見習いの仕事は掃除や料理といった家事が中心だったが、何年か経つと図案の仕事を手伝えるようになった。
着物の図案を作るために必要な事は、ただ絵画技術を磨くだけではなかった。
古くから伝わる柄の持つ意味や色合いといった"芯"となるものをつかむ。
そうして伝統技術を身につける一方で、時代や着る人間に合わせて変化させる。
膨大な知識と独創性。その両方を磨き、時と場合をみながら発揮していくことが求められた。
何度も何度も直しを要求され、寝るころには日付が変わっている生活が続いた。
自分がこうしたいと思っても認められないことも多く、夢の実現までの距離を思い知らされた。
挫けそうな心を支えたのは、季節毎に姉と送り合っている絵葉書だった。
それは姉が家を出て行った頃から続けているやり取りで、お互いに最近一番心に残ったものを描いて送り合っていた。
移り変わる雲だったり、食べ物だったり、仕事場の風景だったり、近所の犬だったり。
文章を添えない代わりに目の前のものを、感情を、その絵に込める。
無事の便りであると同時に、切磋琢磨の機会にもなっていた。
十八の時に若手の展覧会で入賞した。
薄鼠色や藤鼠色といった灰褐色の世界で、雪の重みに耐えながらも鮮やかに咲き誇る椿。
しかし花弁が落ち、水面に触れると紅が冷たい色に染まっていく。
全てを飲み込もうとする冬の冷たさと、それに抗う力強い生命が描かれていると評価された。
それは構図は違えど、辰巳が昔描いた家の庭の風景だった。
「ねぇ、この絵いらないなら私にちょうだい」
姉はその絵がどうしてか気に入ったらしく、お気に入りの切り抜きの一部として保存していた。
それまでにも褒められたことはあったが、自分の絵を必要とされたことは初めてだった。
縁側で半纏を羽織り、何かに取りつかれたかのように、かじかむ手を懸命に動かした、あの衝動。
姉に必要とされたときの嬉しさ。
絵を描き続けたいと思った気持ち。
それらすべてを呼び起こし、整理し、あの時描きたかったものを紙面にぶつけた。
入賞してからというもの、彼を指名して仕事が舞い込むことも増えた。
お客様の真意をつかみかねて頭を悩ますことも多かったが、自分の技術が認められ、自由に表現できることが多くなる日々は充実していた。
それから一年が経ち、辰巳は大和屋のお抱えとして引き抜かれた。
大和屋といえば、都にある大きな呉服店の1つだ。
またひとつ、夢に近づけた。
そう思った。