クリス・アーティクルについて
クリス・アーティクルには様々な事情がある。
それは、本人と侯爵しか知らないような複雑に絡み合った事情である。
(あー、くそ。叫びたい。なんでこんなことになってんだよって叫びたい)
寮室の中で、そんなことを思考する。
そもそもの話、クリス・アーティクルに自由はない。自分の意志によって動く権利がクリスには与えられていなかった。
だからこそ、こうして自分一人でいるというのに鬱憤を叫ぶことさえもままならないのだ。
(俺があいつを苛めただったか。そんなことするわけねーし。クソ侯爵のせいで自由行動もできねー俺がどうやってあいつを苛めるっていうんだよ)
心の中で悪態をつく。この場に誰もいないからこそかろうじて自由に動かせる体は、周りに人がいる場合は勝手に動かされるものであった。
侯爵令嬢『クリス・アーティクル』の人格は、自由が許されない。勝手に動く身体、勝手に動く口、自分の意思はそこには存在しない。
そんな生活を、十年近くしておりながらも人格破綻がしていないのが奇跡といえる状態である。
自身の肌を肌色の場所がないというほど埋め尽くしている魔法陣。周りには見えないように隠蔽されているそれは、クリスの記憶を封じる効果のもの、魔力の譲歩、偽りの性格の形成に必要ないくつもの傀儡の陣、幻影の魔法の陣など、沢山の効果がある。
クリスは、十年前に記憶を封じられた状態で奴隷として売られていた。
アーティクル侯爵はそれを買った。
そういう話である。
そんなわけで、クリスは奴隷であった。
そもそも、娘を酷く可愛がっているアーティクル侯爵の傀儡の魔法陣により、本気でスフィネラを害そうとしても出来ない。
(大体、あのクソ侯爵はしょうもない理由でこの俺の自由を奪いやがって!)
クリスは部屋で一人苛立った様子である。
クリスが現在こういう現状にある理由を、クリスはアーティクル侯爵にさんざん聞かされていたわけだが、正直な話しょうもないとしか言いようがなかった。
クリスがこういう現状にあるのは、全てアーティクル侯爵が娘を思い過ぎているためといえる。
(はぁ……。自分の事もわかんねーし。自由に体は動かせないし、なんか王子を好きなふりとかさせられるし、最悪だ)
身体の自由がないばかりか、クリスには記憶さえない。クリスという名前は本名ではないだろう。自身の名前さえも思い出せない。それも記憶が封じられているから。
そして好きでもない王子を好きな風に自分の体が勝手に動くというのは、なんとも嫌なことである。
(つかなんだ、最高裁判って大罪おかした者にのみかけるとかじゃなかったっけ? ただ妹を苛めたとかそういう罪で裁判かけられるとか、権力横行しすぎじゃね?)
クリスがやったとされるのは、ただ妹を苛めたというそれだけである。それだけでそんな大罪を犯したものにのみ適応される最高裁判が行われるなどと意味がわからない。
此処百年で数回あるかないかの裁判をただの小娘にそんなものを行うなどと馬鹿げた話である。
しかし、今回王太子なんて存在がスフィネラに恋心を抱いていたためにそんなことになってしまったわけである。
クリスからしてみれば、激しく意味不明であった。
(これで処刑とか決まったらどうするかなー。いや、どうしようもないけどさ。でもこんな生活のまま、『クリス・アーティクル』として死ぬとか最悪すぎる)
そんなどうしようもない気持ちを言葉に出すことは許されず、そんな思いはただ、心の内でのみつぶやかれる。
『クリス・アーティクル』として殺されるという事は、自分が何者かもわからずに死ぬということである。
そんなの、クリスではなくても嫌であろう。
(十年も散々、こき使われて、自分を知らないまま死ぬとか嫌だ。あのクソ侯爵も俺を買っただけで、俺が誰かなんてしらねーらしいし。マジ、つかえねぇ)
心の中で毒づく。自身が何者かわからないことに対するいら立ちを。
自分をこうして縛り付けているアーティクル侯爵に対するいら立ちを。
自分の体が動くのなら、自分で行動できるのなら、とこの十年何度も思ったわけだが、どうしようもないのである。
現状を打破する手段をクリスは持ち合わせていない。
(せめて魔力がちゃんと使えればなー)
なんて思う、クリスである。
身体に刻まれた魔法陣の中には、クリスの持つ魔力をスフィネラへと譲歩するという陣まである。元々のクリスの魔力は膨大な量であり、それを使えば魔法陣をどうにかできるかもしれない、しかし奪われていて使えない。
(マジどうなるかななんて考えても仕方ないか。ま、なるようになるだろ! あーあ、ま、寝るか)
クリスはこんな状況を十年も続けているが故にか、そのように楽観的であった。
十年で心が折れていないのも、クリスがそういう性格をしていたからといえた。
そしてクリスは、そのまま眠りについた。
ちなみに、クリス本人の性別は心の中の一人称からもわかるように男である。