知的生命体中心主義世界観
宇宙の始まりにおける謎、不思議の、絶対の解答、
そんなものは、およそ納得できる形で、存在し得ないだろう。
始まりの絶対的な無の状態から、何かが生まれ、今もって生まれ続ける。
そんなのは人間の理性、論理性を根底から覆す現実でしかないのだから。
突き詰めて、世界の物理、論理的な因果関係すら超越し、
何もかもを破綻破滅崩壊させるに等しい、それは現実では絶対にありえない現実でしかないだろう。
さらに付け加えれば、宇宙の存在の不可思議を明瞭にしたい。
絶対的な無の状態から、何かが生まれるならば、
逆に、生まれたモノ全ても、絶対的な無の状態に帰るはずである、
しかし、ここが矛盾的に存在している点。
絶対的な無ならば、そもそも、絶対的に何も生まれないし、存在しないはずなのである。
そして、絶対的な無の状態が存在しないというのも、考え難い。
宇宙は、始まりを辿り続ければ、絶対に始まりの一、そこに辿り着く。
それ以前に過去がない、この世の始まりである。
無限に以前、過去が在り続ける、というのも、ありえない話だろう。
無限に未来が続き続ける、無限大に宇宙が存在し続ける、
という現実がありえない以上、過去も未来と同様に、無限大に存在していた、なんて事はありえないのだ。
絶対に、絶対に、それ以上は遡れない、始まりの一点は存在するはずなのだから。
故に、未来にも、何時かは分からないし不明確で不明瞭だが、終わりの一点は必ず存在するはずである。
絶対の無の状態の宇宙の存在を、否定できるはずもない。
初めから、何かがあった、有であった、など、どう考えても可笑しいだろう、不可思議だろう?
逆に、絶対の有の状態の宇宙の存在を、肯定できるだろうか?
初めから、何を考えるまでもなく、宇宙は存在するだけの要件を備えていた、納得できるはずもない話だ。
以上のような理由から、宇宙から宇宙の始まりの答えを、原理的に知ることは不可能だと決定できる。
故に、知的生命体に、その答えを導くヒントを見出した。
知的生命体の、純粋な機能、それは無限の娯楽の追及、幸福の追求だ。
そうでなければ、ありえない、存在する意味がない、なにがあってもコレが絶対真理としか言いようがない。
この世に、宇宙にも何もかも、真理っぽいモノは何もないが、コレだけは絶対確かなモノだろう。
我思う故に我あり、知的生命体は、存在する上で、娯楽が絶対必須だ。
ゲームに置き換えれば明瞭に分かる、
ゲームをする理由は、どう考えても縦から見ても横から見ても、娯楽でしかないからだ。
そして、宇宙の始まりの謎は、無上の不思議、娯楽である。
他の全てがどうでも良くなるくらいの、絶対的な特異点のような娯楽である。
世界は矛盾を内包できない、それは物理法則や現象に止まらない。
無限に絶対の無の状態の宇宙状態において、発生するのは、
それ補って余りある、特異点の存在、
無限に絶対の有の状態の、それは観測者と呼ばれる、
矛盾を相殺するには、全知全能の存在が必要不可欠である。
神が先か、世界が先か、
無限大に完成し続ける、存在し続けることができる、
宇宙自体と、まったく等価になり得る、特異点としか言えない存在たち、
世界は、そのような存在を内包する為に、存在する為に存在しているのである。