破滅崩壊している世界について
紛争地帯で死体が転がってるように
死体のような人間がゴロゴロ普通に道を歩いているのが昨今の世だ。
年間自殺者数から言えば、だいたい10人に一人は自殺だ。
更に言えば、不摂生や薬酒タバコの吸い過ぎなどなど、間接的な自殺者も合わせれば、更に10人に一人。
つまり5分の1は、自ら命を絶つような社会と言うわけだ。
そして、自殺はしなくても、不幸な状態で人生を生きている人間を含めれば、まともに生きている人間など少数派だ。
10人に一人か二人程度、八対二の法則じゃないが、救いようが無いほど、全体的には腐っているのだ。
足を引っ張り悪循環、隙があれば他人を引き摺り下ろさずにはいられない、
十二分に不幸で、その己の不幸を他人にも味わせたい、撒き散らさずにはいられない堕落した愚者共の世界。
この世界は無限大に破綻している
第一に、救いようがない。
恵まれない不幸な存在は一定で発生する。
塗炭の日々を送り、抗い苦痛の果てに絶望して死ぬ、ただそれだけの生命だ。
この時点で、もう既に相当嫌気と吐き気が収まらないのだが、
これはしょうがないと、する。
そして、そのような中でも、最大限不幸な人間が発生しないように、人間は寄り集まり、人類社会を形成する。
だが、これでも全然まだまだ駄目駄目で。
その理由は、人類社会は、その性質として、八対ニの法則を必要とするからだ。
つまり、社会を成り立たせる為の上位陣を形成するには、八割の人間を冷遇し、搾取し、上位陣を優遇しないといけないからだ。
これは当然で、社会の為に滅私奉公、一切の悪事を行わない、とは言いすぎだが、それなりに社会的責任を委託できる善人を生み出す為には、これは絶対必須。
そして八割の人間を冷遇し、不幸にし、人類は社会を形成する。
これによって、過度に不幸になる人間はいなくなる、それでも過度でなく不幸な人間など、掃いて捨てても捨てても足りないほど、腐るほど発生する。
それから、さらに致命的な事がある。
最近は、人類社会は度を越えて豊かになった、昔よりも配分できるリソースが圧倒的に増したのだ。
昔は、昔をどの辺りから定めるかは微妙だが、それなりの昔は、上記の八対ニの法則を徹底する形だ。
今は、それを徹底しなくても、良くなりそうだが、そうではない、これは絶対に徹底するべき法則なのだ、というより、だったのだ。
これは歴史上、壮大な失敗と共に証明された。
有名な例で言えば、ロシアの大々的に行った、社会主義的手法などが、一番近く、一番有名だろう。
つまり、八対二という、八割の人間が不幸で、二割が幸福、そのような劣等と優越という、厳然たる現実がなくては駄目なのだ。
その、人と人が円滑に競争できる社会で無いと、根本的に人間は駄目になってしまうようなのだ。
付け加えて、八対ニの法則で無いといけない理由として、そうでないと致命的に極悪人が発生する事態がある。
八割が不幸で、二割が幸福なら、不幸な人間も、一線を越えて悪に染まらない、これは当然に想像いただけるだろう。
でも逆に、八割が幸福で、二割の人間が不幸なら、その二割の不幸な人間は、人の簡単に越えてはならない一線を、簡単に超越して極悪人になる。
人類社会には、このような存在を抱える為の、リソースがあるが、それにも処理限界がある。
一定量を越えて極悪人が多くなりすぎれば、社会は簡単に崩壊する、それは直接的に人類は滅亡する、と形容しても良い。
というよりも、八対ニの法則を徹底させても、何度も人類は滅亡する瀬戸際を通過しまくってるので、これは人類存続の前提条件と言ってもいいかもしれない。
今の社会は、二割の幸福な人間が、滅私奉公してくれる、身を削っている。
溢れるほど幸福で、恵まれていれば、人間は必然的に、そのように人生を生きるようになるのだ。
そのような過度に善良な人間が、社会を維持存続させるのに必要な、意味や価値を創造する事で、なんとか成り立っているのだ。
だが八対ニの法則が崩れれば、そのような循環は無くなると言っても良いだろう。
世界が幸福で満ち溢れてるならば、幸福な人間も、そこまではしなくなるのだ。
だが、これが致命的な事態を招くのだ。
滅私奉公、神のように生き、神のような人間性を発揮する、そのような人間の存在が、この矛盾に満ちた人類社会存続には不可欠だ。
幸福な人間が、不幸な世界で生きるから、自ら一個存在の領域を超えて、不幸な世界を幸福にするため、成り立たせる為に、世界と一体となったかのように生きるのだ。
この、世界と同一になったかのような人間が、世界全体が全体的に幸福になったら、必然的に現われなくなるのだ。
逆に、八割が幸福で、二割が不幸ならば、だ。
二割の不幸な人間は、幸福な世界を、不幸な世界にするため、先ほどの真逆の原理である、滅私奉公してでも、世界を不幸にするため尽力するのだ。
これが、この領域に至った人間が、極悪人と、悪を極めた人間だ。
と、いろいろ語ったが、世界は八対ニの法則を徹底させなければ、そもそもが成り立たない。
八割が不幸で、二割が幸福、それが最善であるのだ。
これでは、全体的に見て、まったく、存続の意味が無いように見える。
だれも、不幸に成る為には生きてないのだ、幸福になる為に、生きているのだから。
当然、世界は、このような状態を超越するために、なにかしらいろいろしている。
例を挙げれば、一度世界の覇権を手にしたアメリカを中心として、西欧諸国同盟”リベレイター”など。
彼らは、現状では八対ニの法則を徹底させて、世界の均衡を保つ為だけに、存在しているように見える。
世界の均衡を崩すレベルの上位者、その活動を阻害したり、引き入れたり、駄目なら殺害したり、いろいろしているのだろう。
彼らの究極的な目標は、いやそこまでは語れない、おそらく次なる目標は、八対ニの法則の超越だろう。
これによって、人類社会の全体的な幸福の総量、不幸の総量は規定されてるも同然なのだ。
これをなんとかする為には、上記でいった問題をすべからく解決、クリアする必要がある。
その為には、方法は幾らでも考え付くが、第一には完全なる監視社会の創造だろうか?
例えば、八割幸福で二割不幸な状態ならば、世界を心の底から憎む、復讐者、極悪人の鬼が発生する。
そのような世界を上手く成り立たせる為に、必然的に発生する障害を、監視社会ならば、発見できる、というわけだ。
さて、話を最初に戻したい、ここからは複雑な現状を無視して、人間の救われなさを切々つらつら徒然、羅列する。
弱者は救われない。
社会主義などの理想は不完全で、すべて自助努力に期待して、各々に任せるほかに術が無い。
自助努力が期待できない真の弱者も、いるのかもしれない。
だが、それも弱者の振りをして、より幸福に、恵まれようとする存在が一定で発生するので、ハッキリどうしようもない。
弱者は世界に切り捨てられる、その果ての世界に対する憎悪などを糧に、自助努力を促そうとするのだ。
資本主義は悪ではない、少なくとも次善で最高だ。
競争のみが、強者を量産し、世界の富と幸福を最大化するのだ。
それによって、弱者も最大限救うことが出来るのだ。
まあ、救うというよりも、強者が更に幸福に気持ちよく良い気分になる為に、利用するが正しいか?
とにかく、競争は素晴らしい原理だ。
負け組みと勝ち組を生み出し、人生の階級を決定付ける、だからこそ人間は真底から力を発揮できる。
社会には競争を否定して、ただ最低限度の生活と現状維持を求める人間がいる。
しかし、それは尚早、間違っている、わけではないが、競争をしない内から諦めるのは、どうかと。
より幸福に楽しい人生が生きれる権利、チャンス、それを放り捨てるも同義だ。
物語小説で例えるが、二流と一流の物語の差は、どれほどか?
おそらく、それは無価値と無上の価値ほどに掛け離れている、人間の感覚的には、掛け値なしにそう実感があるはずだ。
高学歴高収入、それが現状もっとも効率的なので、目指すべき人生の一だろう。
だが無能でしかたなく、競争に敗北したら、どうなるのか?
率直にその後の人生は、つまらない、下らない、しょうもない、それだけの事実があるだけだ。
二流三流の人生という物語を観測して、果たして活き活きと人間らしく生きられるか? 無理だろう。
これらの二流以下の人生の上の存在は、ほとんど利己主義に傾く。
十二分に幸福でないのだから、自分のためにしか生きられない、そのような醜い奴であろう。
しかし、資本主義というシステム上、それは避けられない摂理原理だ。
見込みの無い存在に、誰かが背負うべき負債、汚れ仕事、などなどを背負わさせずして、それ以上があるか?
投資対効率の高い、有能で高い次元で幸福になれる存在を優遇して、それ以外を冷遇する、しかたないのだ。
見込みのある人間に投資しなければ、本当に社会は衰退する。
この社会は上位二割程度の真に有能な人材が引っ張っているのだ、そいつらを優遇しなければいけない。
そうしなければ、彼らは社会の為に働かず。
ただただその才能を狭い範囲で発揮し、静かに自らの幸福の最大化に努めるだろう。
広い範囲で滅私奉公するような、真の有能者など絶対数がたかが知れている。
リスクや手間暇費用にあった報酬を払い、社会的に優遇するのは絶対必須、なので相対的な冷遇は避けれない、絶対に。
このような社会仕組みなので、だいたい八対二の法則が支配する。
八割が不幸、二割が幸福、具体的には二流以下の物語、一流以上の物語、鑑賞物と比喩しようか。
これが真実だろう、まったく救いようが無い。
だがだからこそ、とも言える、要素がある。
このような世界なので、精神性人格人間性が高いレベルにある強者が、より弱者の為に生きようとする。
強者は須らく、最大限、一切の何もかもを利用して人生を高次元に充実させようとする、ものだ。
中には利己的に、私利私欲を満たす輩もいるが、ほとんどは考え合ってのこと、愚か者は本質的に強者にはなれないモノだ。
また強者は優遇されているので、広く力を発揮しやすいのだ、インセンティブも多々あろう。
世界には格差や不平等がある、発生した瞬間、生まれからあるのだから、無くしようがない。
だからこそ、チャンスや機会の平等がしっかり整備された、最大限理想的な形の競争や格差が必要だろう。
人間が人間らしく、活き活きと自らの運命を自らで掴み取る、言い換え、つまりは自助努力を促すためである。
たとえば、一線越えて過度に不幸な存在、そのような人生という過去を歩んできた人間がいる。
それは両親がいないとか、過度に貧困や、幾らでもあるだろう、この世は不幸にも幸福にも事足りない。
こういう人は、平等な世界、均等であろうと歪に強制する社会である、では絶対に幸福になれない。
大きな不幸を背負っているのだから、それを挽回する幸福に至らないといけないのだ。
このようなどん底を知っている人間は、莫大な自助努力が期待できる。
平坦で無難な人生は絶対に認めない、許せない、我慢がならない筈だからである。
さらに良い要素として、弱者に大きく感情移入できる、滅私奉公ともいえる領域かもしれない。
自らが生まれ持っての弱者で、後天的強者だから、これはほとんど本能に近いレベルであろう。
いろいろ語ったが、結論として、世界は破綻している。
無限大に無上なレベルで神ゲーであり、クソゲーでもある。
この醜くも美しい世界、という言葉は、実に的を射ている。
要は重要となるものは、絶対に強者にならなければいけない、という事だ。
だからといって、安易に生きてはいけない、強者とは真に強者でなければ持続しない。
弱者はどこまで行っても弱者だ、卑怯で醜く、己の自己矛盾に耐え切れずに、必ず自暴自棄になって死ぬ。
正攻法で自助努力して、誰しもが強者になれるように、助け合い努力し切磋琢磨しなければ、駄目だろう。
弱者とは所詮は世界に必要とされず、お荷物で社会的に切り捨てられる存在、あるいは候補でしかありえない。
弱者には価値が無い、それを自覚するべきである。
そして、その価値が無い、あるいは低い価値にも大きな価値を見出せる、強者。
ゼロから1を生み出し、幾らでも増幅して価値を認める事ができる。
弱者は弱者に一切の価値を、本質的には見出せない、又は至難困難である。
子捨てや姥捨てが、その明瞭たる例だろう、人間は弱ければ、ハッキリ無上にどうしようもない醜い屑だ。
自覚するべき、弱者は全て強者に引っ張られて、ようやく人間らしく生きる事ができている。
だからこそ、強者の役に立つような存在、つまり誰しもが強者を目指し、至らなければ絶対にいけないのだ。
足を引っ張るのではなく、共に世界の責任を、負債を背負って立つ存在である。
そう、この破綻した世界を、どうにかする為に、である。
だが、それは幻想だろう、この世界はギリギリの均衡で成り立つ。
八対二の法則が成り立たなければ、自然と成り立たない世界だ。
八割不幸で二割が幸福、その方程式に大きな変わりが、この先あるとも思えない。
所詮人間は愚かで弱い、八割の人間が幸福になれば、どうせ歪みが発生する。
より幸福になろうと暴走するのだ、死すら恐れず、人間は快楽と悦楽に逆らえるようには出来ていない。
誰しもが自殺志願者、常に死にたがっていて、誰しもが悦楽主義者、一瞬を最大限楽しもうとする、からだ。
二割しか不幸でないなら、幸福な存在は、世界を救うべき対象と認めない、かもしれないのだし。
どうしようもなくなるのだ。
世界は破綻している、生きているだけで吐き気を催すべきだろう、その不快すら、世界を変革する原動力になろう。
同時に、生きることにも最大限深い喜びも見出すべきだ。
このような世界に居るのだ、そうでないと割に合わない、帳尻が合わない、勿体無いし惜しいのだ。
そして焦燥に駆られて生きて、そのつもりがなくても、人生は直ぐに終わる。
長くない、有限だ。
直ぐに老いぼれて、老い先短い末期に絶望して、ただ死に無にかえる、それが現実だ。
気が狂いそうな現実こそ、直視する甲斐があるだろう。
死を想い、今この瞬間に、将来全ての恐怖と後悔などを、最大限想像し創造するべき。
破綻した世界での、処世術は幾らあっても足りる事はないだろう、から。
破滅崩壊している世界について
世界が救いようが無く終わっている、
この世在らざるはずの、無限大や絶対の強度で、
それはクソゲー無理ゲー鬼畜ゲー、およそ外道ゲーの所業、
破綻破滅崩壊している、
その件についての考察や雑記や物語等々を、私は記したい。
これは己の救いようが無いほどの不幸と絶望と、
それと対を成す、救済、
己の救いの叫びと、愛する存在を救いたいという願望によって生み出される、何がしらの文章群
さてはて現状、世界が成り立たなくて、ゴミ屑な理由は、いろいろあるが。
それでも、存在が成り立たないかは、別の話である。
つまり、一流超一流の存在に成れば、世界がニ流三流のゴミの掃き溜めでも、関係がなくなるのだ。
世界が全体的に、絶対的に救われないレベルで不幸、二流三流レベルのゴミ屑世界でも、別に良いのだ。
なぜなら、存在として、自分の周りが幸福で恵まれて、一流超一流の領域ならば、まったく関係ない。
赤の他人や、まったく遠い、自らとは関係ない世界が、どれだけ不幸でも、だ。
世界総体として見れば、それは関係があるが、個人総体として見れば、一切合財の関係が無くなる。
個人総体が、世界と同一レベルの、存在のステージ、仮に神格のような状態でもない限りは、世界に感情移入など、できうるはずもない。
前提として、世界がどれだけ不幸でも、人間は幸福になれるのだ。
だからこそ、幸福に狂気的になり、悪人が世界には絶えないのだが、これもしょうがない現実だ。
世界に完全に依存して、人間は絶対に幸福にはなれない。
世界は不幸な存在だ、人間は自らで幸福を掴み取らなければいけない。
世界が幸福になれば、人間も確実に、ほとんどありふれて幸福になれるのだが、それは現状困難。
そのような幸福な世界を実現させたい、それは誰しも抱く最大限の望みだ。
その望みを、存在として幸福になれば、叶えられる、というのもまた、幸福な状態に対して、人間が狂気に陥り悪人化する最もだ。
存在として幸福になれば、世界が不幸でも、関係がなくなる。
そして、幸福な視点から世界を見れば、世界は決して、不幸な状態とは、直感的に見えなくなるのだ。
二流三流のゴミ屑な意味も価値も無い世界でも、一流超一流の幸福な、意味や価値を創造する存在が見渡せば、自然と全体的により良く見えるのだ。
幸福な世界を掴み取る、創造する、人間はその為にも、矮小な己を幸福にするために、世界すら完全に破壊することすら厭わない、最悪の極悪人になれてしまうのだ。