虚無の盟主の、、
なにもかも、全てという全てが、虚ろな現実だ。
わたしの場合、現実世界よりも、圧倒的に頭の中の世界の方が鮮烈に鮮明に輝かしく素晴らしいのだ。
虚ろな視線が注がれる、全人類生きとし生ける全てに価値が無い。
その瞳の先には、まったく面白楽しく可笑しくない、そんな空虚に過ぎる世界が広がっているんでしょう?
誰もかれも、下らなくつまらなく、一言に切って捨てられるほど、しょうもない。
主観相対的に言って、全人類も全世界も、低廉で低次元過ぎて、お話にならないというわけ。
妄想している時、わたしはカッコたる現実を見出せる。
純粋に情報という名の強度が高く、しかし矛盾を孕むくらいには低い強度、空想の虚構産物。
その薄い薄氷を踏むような、曖昧な情報の世界に揺られるのが至福。
網膜を焼く太陽の輝きは、決して致命的にはならないし、何もかも虚無的に推移するのだ。
何もかも取り返しが効く、無上の夢の世界、その向こうに、確固たる現実が厳然として存在する。
はず、なのだ、が。
私の場合、現実は夢の延長線上で、その逆もしかり、まったくお話にならないほど閉じ込められている。
閉塞感は極致を飛び越えて、何もかも突き破る想像力を生み出し、常に夢見心地にさせてくれるのだ。
無上に死にたいし、無上に生きたい、実際は絶対に死ねないし、真に生きれもしない現実があるだけ。
他人の完全なる未知なる世界に、己の触手を差し入れたい。
己のこの現実感が無く、果てなく乾いた大地に、無限の夢と希望と愛情とかを注いで欲しい。
望んでも叶わないからこそ、私は私をどこまでも詰める事ができる。
希望的な願望は徐々に薄れ、絶望的な方向性に祈りの色合いは変化する。
今すぐ世界が終わるくらい、華々しい最後を見せてほしいのだ、と。
虚構の世界は、何もかもが空しく虚しい、そういう構造。
実体がないから、愛せないのだろうか?
そもそも実体とは、なんなのか?
わたしの私の脳内世界に思いを馳せ寄せる、それは空しく虚しい、実体がないことなのだろうか? どうして。
現実の世界は、全て不確か、生まれた瞬間から、完全ランダムな運任せで、一切合切信用ならない。
自分が本当に存在しているのか、そんな今この瞬間すらも、無限に無上に曖昧で不確かで信頼できるはずがないのだ。
私は確かに存在している、そんな確信に満ち溢れることができずに、なにが実際に現われているのか?
私にはこの場所に存在していること、それ自体が塗炭の苦しみで辛すぎるのだ、それこそが確たる唯一現実だ。
ソレに比べて、虚構の世界は素晴らしい。
そこには嘘でもまやかしでもなく、生きている、生を活発に生きる私が、確かにいるのだ。
信じる信じれるに値する、そんな嘘と騙しと妄信のギミック技巧に溢れた。
執着的な執念が成す、感動的に感情的世界。
段々と嘘で塗り固められた虚構が、現実に積算していく。
普通一般の存在の尺度から見て、強固な現実の壁など、私の世界の前では脆く崩れる。
最初から現実、そんなモノは紛い物として、存在していないのと同義なほど矮小化。
人々は私の世界に酔いしれ、現実など無いモノとして扱い始める、私の世界を観測する為の装置のように。
だが、それは私にとっても例外ではないのだ。
現実の壁が崩れていく。
私にとっての現実とは、なにか? なんなのか?
虚構が現実なのか?、だと言うなら、ならば、更なる虚構で現実を破壊しなければ絶対にいけない。
私にとって、基底に存在する現実など、無上の嫌悪の対象だ。
私は絶対に現実では生きない、そう誓ったのだ。
あの絶望に塗り固められた時空にて、それだけが、私を私たらしめ、私に超上の力を与えてくれた、のだから。
無上に虚無が広がっていく。
そこに実体などありはしない、ない、無いそんな中に、有る振りをした世界と存在が存在を主張するだけ。
所詮は私の脳内妄想なのだから。
私以外の他人から見たら、生きているように、そう見える。
だが確かに確固として、違う、そうじゃない。
それは私が100%の正確性で動かしているだけの、妄想人形と空想虚無世界の事象でしかないのだから。
所詮現実世界とは、そういうモノなのか? 私以下の存在で溢れているだけの、つまらない場所。
無上に愚かで非人間的な奴らの巣窟。
だって、実体の無いモノを、実体の有るモノ以上に扱う、それが非人道的でなくて、なんなの?
目の前で息をしている存在よりも、脳内で息をしている存在を優遇する、ありえない話ではないのか?
私は虚構よりも、価値有る現実を見出さなければ、生きる価値が無く、無上の罪悪感と背徳感に殺されてしまう。
この世界で、私以上に確かな価値有る存在を見つけられなければ、わたしは外道で非人間で。
所詮は世界よりも他者よりも、何よりも自分だけを優遇する、そういう存在になるだけだ。
こんな本末転倒な自己矛盾には耐えられない、わたしは私よりも、絶対的に世界と他者に価値を見出したいのだ。
なぜなら、世界とは私自身であり、他者は自分と同価値であるべきだと、確信するからだ。
考えるまでもなく、直感的に世界に絶対の価値を感じ見出したい。
考えるまでも無く、直感的に他者に己以上の価値を、屈指の影響力と強制力を感じ感動と感情を抱きたい。
その為には、どうすればいい?
虚構の世界は、既に現実の世界以上であり、存在も似たようなモノだ。
致命的な差異は、そこに実体があるか、ないか、その一点のみであるのだ。
この一点は、わたしに無限の倫理観を強制する。
人間が神に至れないのは、自我を捨てられないから、他者の自我を捨てられないからに、最終帰結する。
どんなに高次元な存在も例外ではない、全ての事象は所詮、自己より下位互換か上位互換か、それだけで。
そこには無上に感情移入の余地が発生しうるのだ。
ならば、全てを蔑ろにできない。
人間の理性は無限。
理性とは長期的に見て最も合理的な判断を下す、下したい欲望の発露とも言える。
己の理性が高まれば、自己の内に存在する他者の理性も高まる、己に理性的人倫に基づく生き方を求めてくる。
大概において、人類全体は善人が目立つ、悪人は目立たないものだ。
だから、大抵の人間は己の内に大量の善人を抱えることになる、必然、大衆一般を含めて意志総意は善に傾く易い。
しかし、私のように俗に悪人と見える存在を大量に抱えれば、勢力は一変する。
一人一人が自分のために生きる奴らだ、そうすれば、自分を重視する傾向も高まるというわけだ。
有る存在が、無い存在よりも、優遇される。
脳内の存在達は、目の前の他人よりも、絶対的に圧倒的に脳内に存在する己を優遇し大事にせよと命じるのだ。
無限に無であるのに、偽りの存在にわたしは動かされている、続けている。
雪がしんしんと降っている、愚者が蔓延る地にて。
今に至り在りながら、まだわたしは虚ろな世界から解放されない、ずっとソレを見ている。
崩れた世界は崩れ続け、確固たる現実など、どこにもありはしないのだろうか? 果たして。
現実という仮初としか思えない世界、その壁を壊し、真の現実を求めるが為の意志が、この足下に散らばる残骸と、屍骸骨を生み出したのか?
まったく持って本末転倒な愚かさ、それゆえに、いま私は無惨な姿を曝している。
実体も精神も心も、それが本当にある場所が見えない、なにもかもが虚無的で、遥か遠くにあるように感じる。
それを少しでも近づけたくて、行ってきた全ては、今では逆に全てを遠ざけ、初めが最も近くにあるたかのよう。
いや、初めから届かないモノを、わたしは求めていた?
近くにあるようで、遠くにある? そんな感覚で、妥協するべきだったのか?
しかし、そんな精神的な自殺をするくらいなら、わたしは肉体的にも自殺したいし、するしかないかったのだ。
そんな雪の降る白い世界で、何かが現われる。
見えない、その向こうには、きっと現実という素晴らしい何かがあると盲信しながら、わたしは生きたいだけなのだろうか?
名のない私は、私だけを確かな現実世界に有る事を求める。
向こうには、わたしと同一に近い、巨大過ぎて存在を感じられない存在、そんなのが見えた。




