断罪の剣
この回で、この小説がファンタジーカテゴリに入っている理由が判明したりします
荒く緩やかな息切れが、地平線の見える荒野に響く。
地面に吸い込まれて消えていく苦悶の声を発しながら、男は身に纏ったローブを乱暴に外し、ぐるぐると丸めて小脇に抱えた。
「…………」
体力は底を尽きかけている。
脚の感覚がなくなってから何時間経ったか。
しかしそれでも、男は速やかに森か部族、或いは国を見つける必要があった。
「……?」
頭がぼやけ、何も考えず歩き続けていると、平らなだけの地平線に盛り上がりが見えた。
期待に満ちる心を極力抑えつつ、その盛り上がりを目指していく。
「……!」
それが城壁であると理解した瞬間、男は目を爛々と輝かせて髭面に笑みを浮かべる。
腰に吊り下げた水筒の、残り僅かな中身を一気に飲み干し、忌々しい道を蹴るように強く足跡を残しながら前に進んだ。
男が城壁の前に辿り着いた時、すでに夜が明けようとしていた。
すでに番兵に気づかれていたようで、槍と胸当てをした男が二人、死にそうに疲弊した男の前に立ち塞がった。
「止まってくれ。あんたは?」
兵が問う。男からはその言葉はほとんどぼやけて聞こえたが、なんとか痰の絡んだ声で答える。
「旅人、だ……。休息でも、永住でも、いい。国に入れてほしい」
番兵は二人で顔を合わせ、何やら相談を始める。
だがそれも、長い間歩き続けた男からすればとても短い時間のことだった。
番兵は男に説明した。
この国の名は独立交易国家ハイノサイス。
陸路での貿易を主とする、小さいが富める国家だ。
この国では旅人は歓迎されるが、この国の全ては基本的に金で動く。
金目の物、あるいは労働力を払わなければ、何もできないがそれでも良いか、と。
是非もない。男は即座に入国した。
命を懸けて、そして拾った命だ。生き延びさえできれば、金や労働などいくらでも払える。
簡単な身体検査のあとで、男は門を通された。
低い太陽の光が男の目を焼く。浮浪者のような外見で、目だけは強く輝き、道を歩く。
(働き口を……いや……その前に飯を……いや……水、を……)
男の瞼が急激に重くなる。その重さ故に、足の動きも阻まれるほどに。
(駄目だ……あと少し……だ……)
抵抗の言葉も途切れ始め、目は開かない。
自分は転んだらしい、ということだけかすかに把握し、男は意識を失った。
意識が途切れたあと、男が目を覚ました時、体の不調は概ね改善されていた。
ひんやりとした空間に寝ている。体を起こそうとするが、筋肉が固まっていてうまく動かなかった。
視界は灰色の壁と、陽の光が差し込んでいるのが見えた。
「お気づきになられましたか」
近くで少女の声がして、男は首だけそちらを向いた。
炭で所々汚れた青色のツナギを着た、小柄な茶髪の少女だ。
「ここは……」
「ここはわたしが営んでいる鍛冶屋です。あ、わたしは、ティカルといいます。そっちは相棒のヴィカです」
ティカルの手で指し示された方へ首を向けると、一人の青年が男を見下ろしていた。
顔面を縦断する黒く長い髪の向こうから、表情の読めない赤い瞳で男を見つめていた。
「…………」
「…………」
気味の悪い奴だ、と男は思った。瞬きもほとんどしない淀んだ赤色の瞳。何もかも見透かされているような目だ。
男とヴィカはしばらく無言のまま見つめあっていたが、やがてヴィカが口を開く。
「あなたが鍛冶屋の前で瀕死で倒れていたのを、ティカルが保護したのです」
それを聞き、ようやく男の現実に思考が追いついた。自分はどうやら生き延びたらしい、と。
男は無理矢理体を起こすと、ティカルの目を見た。
「ありがとうございます! 本当に、なんとお礼したらよいか!」
突然精力を取り戻した男に、ティカルはたじろぎながら微笑む。
「大袈裟ですよ。わたしはただ、運び込んで水を飲ませただけですから……それにしても、どうしてあんな所で倒れていたんです?」
男は今さら体の痛みを思い出し、再び横になる。首はティカルに向けたままだ。
「旅を……していたんだ。食糧と水が尽きてね、ギリギリでこの国を見つけたんだよ」
「……旅、ですか」
どこか冷ややかな反応を見せたのはヴィカだった。
声や表情から感情を読み取ることはできないが、男の心臓は一度だけ強く脈を打った。
「どちらからです」
変わらず抑揚のない声でヴィカは男を問い詰める。
「み、南の方だ」
「そうですか」
聞いてきた割に興味のなさそうな返事に、男は眉をひそめた。
筋肉の硬直が多少改善されてきて、男は横になるのをやめて段差に腰掛けていた。
まだ足は痺れているが、床に足をつけられないほどではない。
改めて辺りを見ると、確かに室内には炉や金槌、金床が備え付けられている。
室内に満ちる炭の匂いも、鍛冶屋ならではのものなのだろう。
「そういえば、働き口は決めていらっしゃいますか?」
ティカルの問いに、男は目を伏せる。
「いや、まだ決めてないんだ……国に入ってすぐ倒れてしまったからね」
「そうですか……あっ」
ティカルは部屋の隅を見ながら声を上げた。
「もしよろしければ、うちで働きませんか?」
「えっ?」
トントン拍子で良い方向に進む話に、男は心臓を強張らせた。
「うちでは基本的に、鉄鉱石をよその国から買っているんですが……たまに鉄鉱石の仕入れが悪いこととかがあって。それで、鉱山から自分たちで手に入れられたらと思っていたんです」
ティカルの視界の向こうには二つ、ツルハシがあった。ティカルが作ったものだ。
「しかしわたしとヴィカだけでは難しくて……あなたは体格もいいみたいですし、もしあなたがよろしければ手伝っていただきたいのですが」
ヴィカは無言で男を見つめる。答えを待っているのか、或いは威圧しているのか、表情からは伺えない。
男からすれば、断る必要はまったくなかった。
「ぜひ! よろしくお願いする!」
男が大分歩けるようになったある朝、ヴィカは無言で、壁に掛けられた商品の剣を見つめていた。
ティカルの鍛冶屋は基本的に注文を受けてから剣を打つ受注式だが、注文のキャンセルや試製品など、余る剣が出てくる。
そういった剣は店頭に並んでいて、少しずつ売れていっている。
それらの剣の手入れはヴィカの仕事だ。
一本のロングソードを長らく見つめたあと、油を引き手入れをした。
「お疲れ様、ヴィカさん」
すっかり動けるようになった男が外から帰ってきた。体をほぐすために朝は散歩をしているという。
その後ろからは、井戸水を大きな桶に入れたティカルがやってきた。
「おはよう、ヴィカ」
「……おはようございます」
ヴィカはティカルに挨拶したあと、ギョロリと男に目を向けた。
「あの……何か?」
「いいえ、特に」
「ヴィカは人見知りだからね」
「少なくともそれはありません」
「……うぅ」
項垂れるティカルを無視し、ヴィカは鍛冶場の段差に腰掛ける。
無表情で虚空を見つめるその様子は、見慣れない人間からすればひどく不気味だ。
「あぁそうだ、ティカルちゃん!」
「は、はい?」
男は使い古したローブの懐から、銅貨を三枚取り出した。
「これ、日雇いの仕事で貰ったんだ。今までの食事とか、居住まいの賃金として貰ってほしい」
「えっ……もう、体は大丈夫なんですか?」
「あぁ。元々丈夫なもんでね」
男は左腕に力こぶを作ってみせた。ティカルはそれらの銅貨を、やや遠慮がちに手に取る。
「遠慮しないで。恩返しだと思って」
「……そうですね。それでは、これから少し出かけましょうか」
銅貨三枚を握り、ティカルは男に意味ありげな表情で微笑みかける。
その笑みの意図が読めず、男は首を傾げた。
「あなたの服を買いに行きましょう。いつまでもそのローブでは、街を歩くにも不便でしょう」
「えっ……それじゃ」
男は口元に笑みを浮かべながら眉根を寄せた。
恩返しのためにと渡した金なのに、自分のために使われては本末転倒だ。
「いいんです。いずれは買うことになるものですし、今わたし達はあまり必要なものもありませんから」
「はぁ……」
男は二の句が継げなくなった。単なる優しさや同情ならば無理にでも渡していたのだが、ティカルの言い分は筋が通っている。
同時に、男はやや危うさを感じた。
いかに同じ場所に住んでいる間柄といっても、わずか数日しか一緒にいない男に対してここまで気を使えるティカルに対してだ。
いずれ騙されるのではないか、不幸な目に合うのではないかと不安になる。
だが当のティカルは男の考えなどまるで介さず、鍛冶屋の外から男を呼んだ。
男は観念したような笑みでティカルに駆け寄る。その後ろに、ヴィカもゆっくりと付いていった。
街を行く道の端で、ティカルは多くの自警団員が集まっているのを見た。
ハイノサイス自警団――事件や事故といった様々な街のトラブルの解決に当たる人員たち。その装備の殆どはティカルの鍛冶屋で作られたものだった。
「何かあったのかな?」
ティカルが男に視線を向けると、やや困ったように男はヴィカに視線を送った。釣られてティカルもヴィカを見つめる。
「……なんでしょうか」
ヴィカは自警団員たちの方を見ていた。そのまま、ずかずかと彼らに歩み寄っていく。
「あ、おい……」
男は止めようとしたが、それより先にヴィカは自警団員たちの中に入り込み何やら話をし始めた。
ティカルには会話の内容は聞こえなかったが、彼らの表情から、少なくとも明るい事案ではないことだけははっきりと悟った。
しばしの会話を終えて、ヴィカがティカルたちに合流した。
体はそのままの位置で見送っていた自警団の一人がティカルに会釈し、彼女もそれに応じた。
「何があったの?」
聞くと、ヴィカは首だけグリンとティカルの方を向き、
「?」
無言で首を傾げた。意味不明な仕草にティカルは苦笑するしかなかった。
「いや、だから、あの人たちと何を話したの?」
「つまらない話ですよ」
問いかけてくるティカルには目を合わさずに、ヴィカはなぜかずっと男の方を見つめていた。
男も目を逸らさずにいると、やがて飽きたように顔を背け歩き出す。
「さて、行きましょうティカル。服を買うのでしょう」
「あ、うん。そうだったね」
(……なんだあいつは?)
男は首を捻り、二人と距離が離れてしまったことに気付いて急いで追いついた。
男がハイノサイスに入国して、七度目の太陽が昇り始めた。
太陽に照らし出されたシルエットが微かずつ明らかになっていく。
この朝、鍛冶屋の前には馬車が立っていた。背後には輸送用の大きな車が付いている。
「それでは、くれぐれも気を付けてくださいね。取れそうになければすぐに帰還してくださいね」
荷台に乗った二人にティカルは見送りの言葉を送る。男は笑顔で、ヴィカは無表情で答えた。
「はい」
「任せてくれ!」
馬車を引く小柄な青年が手綱を動かす。合図を受けた馬が動き、強い力で荷馬車を引き始めた。
鉱石への配慮として屋根が付いている以外は、人間にとって益のある構造はまったく荷車にはない。
ガタガタと揺れ、ともすればその弾みで外に弾き出されそうだが、木枠に捕まって耐える他ない。
城門が開き、一面の荒野が広がった。
男にとってはあまり思い出したくない苦い経験が頭によぎる。太陽が低く、赤い土が光るように照らされる。
ハイノサイスから北に向かえば、貿易の主な舞台である整備された街道に出るのだが、あいにく鉱山は南側にあった。
そのために、二人はまだしばらくガタガタとした馬車の揺れに苛まれることになる。
「…………」
ヴィカは片膝を折り、いつもと変わらぬ様子で、どこか一点の空を見つめていた。
沈黙の空気に耐えられず、男が口を開く。
「なぁ、ヴィカさん?」
「なんでしょうか」
話しかければ話には応じるようだ。男は今さら何か話題を探したが、二人に共通する話題は基本的に一つしか思いつかなかった。
「ティカルちゃんって、昔からああなのか?」
「ああ、とは?」
「お人好しっていうか、不用心っていうか」
「……少なくとも、僕が彼女と出会った時にはすでに」
「へぇ。……てことは、最初から国にいたわけじゃないのか、お前さん。旅人か?」
「そうですね」
馬車の車輪が大きな石とぶつかったらしく、車体が大きく揺れる。
涼しい顔で座り続けるヴィカと対照的に、男は危うく馬車から転げ落ちそうになった。
なんとか立て直して安定して座る。ふと気付くと、景観が変わり、辺りにもいくつかの馬車が走り、やや人の賑わいが出始めた。
「……へぇ、旅人か。俺と同じか」
「同じ? ……それは違うでしょう」
男が目を見開き、馬車の動きが緩み始めた。鉱山が近いようだ。
「……違うってどういう意味だ」
男は声を低く、囁くように呻いた。ヴィカはその様子を冷ややかな目で見つめる。
「あなたが一番よく知っているのでは?」
男は冷静に目を細め、生唾を飲み込んだ。馬車の動きがさらに緩やかに変わる。
「……どうして気づいた?」
辺りに誰かいるわけでもない。しかし男は、自分でも妙なほど小さな声で囁いた。
「あなたの装備です。どうにも旅人というにはバックパックもなく馬もなく、余りに生きていく手段が薄すぎた」
「それだけか? 追い剥ぎという線もあったろう」
「いいえ。それなら水筒など真っ先に奪われているでしょう。それに、あなたの剣筋なら完全には負けないでしょう」
やがて、馬車が止まる。鉱山地区の前までやって来た。
ヴィカは話を打ち切って馬車から降りると、馬車の青年に金を渡した。
青年は無言のまま笑顔でそれを受け取る。このままここで待つよう指示すると、大きく頷いた。
「さて、行きましょう」
ヴィカは男に目配せし、荷物とともに男を呼んだ。
この鉱山は比較的新しいものらしく、まだどこかの国が整備をしている様子はない。
どこの国の持ち物でもないので、鉱山には周辺のいくつもの国から金目当てで男たちが集まってきていた。
鉱山の入り口にはバザーが開かれていた。
どの国の統治下にもない故に、商売も自由。
ツルハシや水、ランタンといった鉱山採掘に欠かせない代物が売られている一方で、国の名産品を大きく広げているものもいる。
それを見るのはほとんどが屈強な男たちだ。
今さっきまで採掘をしていたのか、汗を拭いながら集団で笑う者もいた。
やがてこの鉱山を中心とした自治的な国家ができあがるだろう。鉱石がそれまでに尽きなければの話だが。
ヴィカは、坑道の入り口の者に話を通し、トロッコと巻き上げ機を金で借りた。
坑道の中を進んでいくヴィカに男も続いた。
薄暗い坑道はトロッコのレールを敷くためにある程度整備され、比較的歩きやすい。
坑道にはあちらこちらに油ランプが無骨に提げられている以外、何の照明もそこにはない。
「さっきの話だが、なんで俺の剣がどうかなんて言えるんだ? 俺はあの国で、剣を握っては――」
「いいえ。握ったでしょう、鍛冶屋のものを」
「! …………」
男は目を見開いて生唾を飲み込んだ。
「よく洗ったつもりでしょうが、血の気配はそう簡単に消えはしません。あなたは鍛冶屋にあった在庫で人を殺して、金を奪った……そうですね」
「……やっぱりあれか? 鍛冶屋ってのは剣を見ただけで腕までわかるのか?」
男は肯定の代わりにこんなことを言った。そして、ヴィカの沈黙に合わせて語り出す。
「悪いとは思ってるよ、ちょうどいい剣がなかったんでな」
男は申し訳なさげに目を伏せた。その表情に偽った様子はなく、本物の感情を示しているようだった。
「銅貨のために殺しをしたんですか」
「それと稽古台に。殺しは俺の稼業だったんでね」
「前の国ではやり過ぎて追放された、というところですか」
「お前さん、心が読めたりするのか?」
男は半分愉快そうに、もう半分は不愉快そうに眉を動かした。
「そうだよ。俺の国はどうしようもない格差が広がっててな、スラムの奴らは盗むか襲うか殺すかしなきゃ、生きていけなかった。俺は他よりちょっと腕が立つんで、義賊よろしくいろんな奴らに金を恵んだりしてたんだが……その金を受け取るスラムの奴らに突き出された」
男の、ツルハシを握った右手に力がこもる。
「ふざけやがって」
「……まぁ、あなたの事情はどうでもいいのですが」
突き放すような物言いに、何度目かは分からないが男は眉をひそめた。
「そういうことですので、採掘が終わり次第あなたは消えてください」
「は?」男はただただ困惑した。「どういうことだ?」
「僕が自警団にあなたを突き出さなかったのは、単なるティカルへの配慮ですよ。自分が拾った人間が殺人者だと判明すれば、少なからず彼女が動揺するでしょうし」
しかし、とヴィカが一拍置く。冷ややかな瞳と表情のない言葉で男を責める。
「ここであなたが消えても、話はどうとでもなるので」
二人の間に沈黙が走る。代わりに、辺りの雑多な音が蘇り、騒ぎ始める。
男はなかなか言葉が思い浮かばないままだったが、その内に引きつった笑みを浮かべる。
「随分過保護だな。お前さん、あの子が好きなのか?」
「……おそらく違います」
「だがそうは行かねぇぞ。ようやく見つけた安住の地だ……それに、話がどうとでもなるのはこっちもそうだろ?」
男はツルハシを少し持ち上げた。ヴィカはその様子と男の顔を興味なさげに交互に見たあと、くるりと背を向けた。
そのまま坑道へ歩いていく。割り当てられた採掘場だ。
行き止まりで、周りにはあまり人気がない。
男が歩速を上げて歩み寄っても、ヴィカは振り返りもしない。
(殺せないとでも思ってるのか、こいつ……)
男の中で、警戒よりも侮られた怒りが勝る。
そのままさらに歩み寄ると、ツルハシを強く握り頭上に掲げる。
「警告しておきますが」
ヴィカは体格において男に圧倒的に負けている。振り下ろすだけで、確実に殺せた。
「僕を殺そうとするとき、死ぬのはあなたですよ」
不気味な言葉に一瞬男は怯んだが、すぐに力を入れ直す。そして、そのまま――――
ヴィカの脳天に、一息にツルハシを振り下ろした。
「う……ぐぼ……っ」
ツルハシによる一撃が脳にも何らかの損傷を与えたのか、口からも嘔吐するように血を次々に吐き出す。
「が……がぼっ……!?」
「……何か言いたいのですか?」
ヴィカは、頭上から勢いよく血を流し、その場に這いつくばっている男のそばにしゃがんだ。
普段と全く変わらない様子で、親切をするようにヴィカは問いかける。
対して男は、脳の損傷と混乱、口から次々に溢れ出す血液のせいで何も喋れなかった。
(あ……あいつにツルハシを突き刺したはずなのに……突き刺されたのは俺だった……?)
意識は遠退きつつある。唯一まだまともに動く目でヴィカを睨む。
「僕の体は少々特殊でしてね。体の損傷をすべて跳ね返すのですよ」
男はヴィカの言葉を理解するには至らなかった。それもそのはず、あまりに現実離れしている。
「警告はしました。運が良ければ誰かが見つけてくれるでしょう」
ヴィカはそのまま無慈悲に立ち上がり、迷いもなく歩き去る。
男は遠くなっていく足音を聞きながら、頭の中で思いつく限りの罵詈雑言を考えた。
しかし、段々と言葉は消えていく。過去に何があった、あの時こんなことをした……そんな記憶が、文章化されぬまま次々に浮かんで消えた。
「落盤って……大丈夫なの!?」
「さぁ。しかし安静にする必要があるため、まだしばらくはあの鉱山地帯に留まることでしょう」
そっか、とティカルは小さく呟いた。
話を終えて、ヴィカは足早に鍛冶屋の奥に引っ込もうとする。その背中を、ティカルの言葉が引き止める。
「あの人は……いい人だった? それとも悪い人だった?」
ヴィカはその場で立ち止まり、振り返らず少し沈黙した。
「……さぁ。よく分かりませんでした」
それだけ言うと、すぐに奥の部屋へ歩いていく。鍛冶場に一人残ったティカルは、
「そっか……」
と消え入りそうな声で呟く。その視線の先には、二つのツルハシが壁に立てかけられていた。