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神の剣

 朝日が昇り始める。

 黒く縁取られた町並みに、光が差していく。

 眠っていた街が起き始め、市場には少しずつ活気が生まれていく。

 ここ独立交易国家ハイノサイスでは、全ての時間は商売の種であり事件の種である。

 朝から通りの道では、商人同士の区域を巡る小競り合いが起きている。

 裏の路地では酔いつぶれた男が寝ていたり、怪しげな男が辺りを見回しながら歩いていたりする。

 国の入口付近、城壁のすぐ近く。高い煙突を持つ建物から、一人の少女が姿を現した。肩ほどまでの真っ直ぐな茶髪と茶色の瞳を持ち、小柄な体は炭で部分的に汚れた青いツナギを着ていた。

 少女は日課の水汲みと掃除を手早く終わらせ、建物の中に入っていく。その中は薄暗く、炭と鉄の匂いが漂っていた。

 少女は、ここハイノサイスで唯一の鍛冶屋である。名をティカルといい、幼い頃より父の教えを受け、若くして十分な技量を手に入れていた。

 ティカルは愛用の金槌と鍛冶屋はしを手に取ると、薄く油を引く。

 道具の手入れと掃除、水汲みを終えると、一通りの体をほぐす運動にもなる。そのこともあって、ティカルは一年を通してそれを行い続けている。

「おはようございます」

 鍛冶屋の奥から滲み出すようにゆらりと現れた男。背が高く、黒く長い髪は前髪までも顎ほどまで伸びていた。その中から、赤い瞳が不気味にのぞいている。

「おはよう、ヴィカ」

 ティカルが笑顔で答え、それにヴィカが無表情と無言で答えた。

「朝ごはん作ろうか」

「はい。卵は」

「ありがとう。取ってきてね」

 簡単な言葉を交わし、ティカルは奥の調理場へ、ヴィカは鶏小屋へ向かった。


 ティカルは薪に火打ち石で火を付け、その中に直接鍋を置き湯を沸かした。その中には粗く挽いた麦が煮込まれ、調味は特にされていない。

「取ってきました」

「ありがとう」

 ティカルは慣れた手つきで、鍋の中に卵を割り入れた。煮込まれていく料理をヴィカが覗き込む。

「ブイイですか」

「パンを切らしちゃって。でも麦粥もたまには悪くないよね」

「僕にとっては固形か流動かの違いですが」

 それに苦笑いで答え、ティカルは鍋を長箸で混ぜる。

 厚く彫られた木の皿を手に持ち、麦粥を注ぐ。中身で満ちた皿をヴィカが食卓に移し、ティカルは調理器具を片付け、火の始末をした。

 滑らかな木の皿と、木のスプーンによる食事だ。食卓の窓からは陽が差しているが、この季節は木が茂っているためあまり日当たりは良くない。

「いただきます」

「…………」

 二人はほぼ同時に、その麦粥を啜った。ヴィカは無表情のままで、ティカルは苦笑した。

「やっぱり……あんまりおいしくないね」


 鍛冶の依頼が入っていないので、二人は広場に出かけていった。

 レンガで舗装された道は、ほとんどの人間が歩いて移動する。上級階層の人間は馬車を利用することもあるが、その人数は多くない。

「おや、おはようティカル」

「おはようございます、おじさん」

 ティカルとヴィカの両名が贔屓(ひいき)に利用している料理店の前。開店準備をしている店主がにこやかに挨拶した。

 ティカルは笑顔で軽く頭を下げ、ヴィカは無表情と無言を貫く。ティカルが足を止めたため、ヴィカもその場に立ち止まった。

「あと少ししたら開店するよ。今日は、魚が手に入ってね」

「魚!」

 国内に海のないハイノサイスでは、魚の供給は外国からの輸入に頼っている。専ら干物や塩漬けでの販売だ。

 それでも安定した供給ではないため、魚は高価で扱われる。なかなか手に入らない珍しい一品に、ティカルは目を輝かせた。

「ぜひ! あとで寄らせてもらいますね!」

「おお、腕によりをかけさせてもらうよ」

 そう言って主人は開店作業に戻った。

 特に何かやるべきことがある訳ではなかったが、かといってこの場で待ち続けても仕方がない。時間を潰すのも兼ねて、二人は国の中心、噴水広場へと向かった。


 噴水広場では、いつもの喧騒ができあがっていた。

 毎日誰かが出店を出している。毎日誰かがそこに集う。金を媒介とするこの国の交流には、不思議な温かみがあった。

 特に、噴水の近くに格別に大きな人だかりがあった。人混みをかき分け、その中心を覗き込む。

 大きな樽を前にして、半袖の服から浅く焼けた腕を見せる若い男が立っていた。

「これって……なんの人だかりですか?」

「お、ティカルにヴィカか」

 ティカルの声に気づいた近くの男性が振り返って答える。

「あの旅の兄ちゃんを腕相撲で倒せば賞金がもらえるのさ。まぁ、挑戦料も取られるんだが」

「へぇ……」

 そう話しているうちに、一人の男が敗れた。肌の黒い男は猛々しく右腕を掲げた。

「さぁ! 俺はまだまだ行けるぜ! どうだ、かかって来てみろ!」

 現状で何人抜きなのか、男の自信と周囲の萎縮は相当のものだ。その中で、

「ティカルちゃん、やってみたら?」

 別のところから女性が声を上げる。そちらの方に目を向ける前に、ティカルは誰かに手首を掴まれ、強制的に上に挙げさせられた。

「えぇ!?」

「おいおい嬢ちゃん、本気か? その細腕で挑むのか?」

「いえ、わたしは別に……」

「仕方ねぇな! かかってきな!」

 どうやら話はあまり聞かない人物らしい。

 ティカルを勝手に推薦したと思しき女性が、顔の前で軽く手を合わせ、小銭を数個渡してきた。

「頑張って!」

「うえぇ……?」

 周りが急激に盛り上がっていくので、ティカルは渋々前に進み出た。

「よ、よろしくお願いします……」

 ティカルはおずおずと男に小銭を差し出す。男はそれを手早く受け取り足元の袋に入れると、軽く笑みを見せ、どかりと樽に肘を乗せた。

「怪我すんなよ? 嬢ちゃん!」

「…………」

 ティカルは男の手を握り、肘を樽に乗せた。周りの人間がカウントを取る。

「用意――始めっ!」

「おらっ!」

「……っ!」

 男が開始と同時に勢い良く力を入れ、ティカルが押される。

 しかし、ティカルの手が樽に付く直前でその勢いは止まり、しばらく拮抗する。周りからどよどよと声が湧く。

「くっ……ぬ……!」

「……!」

 男の手が、徐々に押され始める。互いの手が動くたび、周りからざわざわと声が聞こえる。

 互いの手の位置はスタート位置にまで押し戻る。男の顔から余裕が消え、こめかみに青筋が浮かぶ。

「うおおおおお……!」

 男の声が細くなっていく。同時に、男の手の抵抗が一気に弱まり、そのまま樽に手が付いた。

 ティカルの勝利に、周囲は大盛り上がりになる。

 がっくりと項垂れる男に対し、容赦のないヤジが飛ぶ。その傍らで、気の毒そうにティカルが苦笑した。

「で、でも、わたしが勝てたのはあなたが何回も戦ったあとだったからですよ。あなたが本調子だったら、きっと最初で負けてましたから」

 ティカルは男に手を貸し、軽く微笑んだ。ただししっかりと賞金は受け取る。

 賞金を持って帰ろうとして、なにか閃いてティカルは足を止めた。人混みの中に再び入っていくと、店じまいをする男に声をかける。

「もしよろしければ、ご一緒に食事に行きませんか?」



 ティカルとヴィカと男の去った広場に、ローブをまとった男が歩いてきた。

 若い顔立ちの金髪の男だ。男は、先ほどまで人混みの中にいた壮年の男の商人の一人に声をかける。

「失礼……先ほどここにいた、小柄な茶髪の女性は……」

「ん? ティカルのことか?」

「ティカル、というのですか。彼女は何者なのですか?」

 突然に彼女の情報を求め始める不審な男を、商人は訝しげに見つめていた。

 しかしティカルは鍛冶屋。それもハイノサイスでは唯一のそれなので、客が外から来ることもあろう。商人は男に、自分の知るティカルの詳細を話した。

 男はそれを聞き、満足したように微笑む。商人に慇懃に礼を言って広場から遠ざかっていった。



「おぉ……!」

 目の前に出された食事に、ティカルは目を輝かせた。隣ではヴィカが無表情にそれを見つめ、その向かいでは肌の浅黒い男が歓声を上げた。

 木のテーブルの上に、木製の皿。皿の中は白いスープで満たされていた。その中には、ぶつ切りにされた魚の身がゴロゴロと贅沢に入れられている。

「まさかここで魚が食えるとはな! いただきます!」

 男は我先に、とフォークで魚の身を突き刺し、塊を口に運んだ。

 ティカルとヴィカもほぼ同時に手を合わせると、スプーンでスープを掬って飲んだ。

「あなたの出身はどんな所なんですか?」

 ティカルは食事のつまみとして男に話しかけた。夢中で食べていた男も、一旦手を止める。

「俺はここよりずっと遠く、南の方から来たんだ。そこでは、こんな魚がいつでも生で食えるような港だった」

 興味深そうに聞くティカルとは対象的に、ヴィカは淡々と食べ進めていく。

「けど、何つーか……そこでの生活も色々大変でな。それで旅に出たんだ。体は丈夫だからな、路銀稼ぎにゃ苦労しない」

 一通り答えると、男は再びスープにがっつき始めた。

「久々に食う魚はうまいな! なんて魚だろうな、これ」

「ニシンですよ」

 急にヴィカが喋ったので、男は少し驚いた。

「近年の造船技術向上によって、より遠洋へ繰り出せるようになってから漁獲量が大幅に上がった魚です。ニシンは春告魚(はるつげうお)とも呼ばれ、地域によって獲れるニシンの種類も違いますが……これはパシフィックヘリングと呼ばれるほうのニシンですね」

 なぜか品種まで当てに来たヴィカの発言に、二人は戸惑うしかなかった。

「ず、随分詳しいんだな。アンタも海の方出身か?」

 男がやっとの思いで言葉を絞り出すが、

「いいえ。僕の出身の国はどこも陸でした」

 あくまで質問にのみ簡潔に応えるヴィカの前に撃沈した。

 その様子に苦笑して、ティカルはスプーンに魚の切り身を掬う。口に運ぶと、塩味のあとで魚特有の生臭い風味が広がった。

 会計は男から受け取った賞金で済ませた。特に食うに困っているわけでもないので、余った金は男に返した。

 それは賞金だという男と、金には困っていないというティカルの間で二分ほどの押し問答があったが、結局は男が折れた。


 少し早めの昼食を摂り、二人は帰路についた。鍛冶屋の前にローブをまとった男が立っているのに気付く。

 男はティカルに気付くと、軽く頭を下げ笑顔を見せた。釣られてティカルも会釈を返す。

「はじめまして! あなたが鍛冶屋のティカルさんですね」

「はい、はじめまして。あなたは?」

 ティカルは、男の傍らにある布をかけた台車に気付く。

「これは……」

「私、旅の僧侶のものです。全国を旅しながら、あちこちで教義を広めたりしているんです」

 男は傍らにある台車の布を引いた。積まれた荷物が姿を表す。一メートルほどの高さのある金色の十字架だ。

「しかし、少し前から教義に用いる十字架が所々欠けて錆びついてしまいました。なんとか直していただきたい」

 ティカルは台車に近づき、十字架をまじまじと見た。確かに、汚い。金の塗装は所々剥げて、銅製の地が見えている。

 いや、金が剥がれ銅がむき出しの場所はまだいい。さらにその地の銅が錆びている場所も多い。

「旅の中、夜も雨が振り続けたり、湿地を通ることも少なくなかったものでして」

「なるほど……それは大変ですね」

 わかりました、とティカルは仕事を引き受けることにした。男は二週間ほど滞在する予定ということで、宿の場所を教えてもらった。

 そして、台車を鍛冶屋の中に運び込み、呟く。

「メッキってどうやって掛けるんだっけ……?」

 心底困った様子で頭を抱え、その場にしゃがみ込む。ヴィカはそれを見下ろし、無感情で責める。

「安請け合いの癖はなかなか直らないようですね」

「ううう……だって、あの人困ってるみたいだったし……金属加工はハイノサイスではわたししかやってないし……」

 ティカルは涙目でヴィカに振り返る。あくまで冷たく、紅い瞳がそれを見つめる。

 唸りながら、所在なさげに十字架を触ったりしているティカル。それを見かねたのか、ヴィカが口を開く。

「まず、金メッキのやり方です。まずは金と水銀を用意します――」

「まって……その段階でかなり難しいんじゃない?」

「そうですね」

 当然のように返してくるヴィカに、ティカルはため息を吐いた。

「一応聞くけど、例えば金と水銀が用意できたとして、そのあとはどうするの?」

「はい。金と水銀を混ぜ合わせ、粘土状に加工します。それを剥げた地金に塗り、その部分に焼入れをします」

 そして、表情を変えないまま続ける。

「焼入れをすることで、水銀が飛ばされ、金だけが残り金メッキの完成です。……ちなみに、この時飛んだ水銀は人体に極めて有害なので、加工者は間違いなく健康被害を負います。また、気化した水銀が煙突などから排出された場合、水銀は重いため地上に落ち、ハイノサイス全体が汚染され――」

「却下! 却下!」

 両手をブンブンと振り拒否する。ティカルの顔は若干青ざめていた。

「……冗談です」

 相変わらず無表情で告げるヴィカに、ティカルは脱力し床に座り込んだ。

「わかんないよぉ……」


「では代替案として真鍮によるメッキに切り替えましょう。金ではありませんが、遠目で見て金に見えるような色と輝きは持たせられます」

「うん……どうすればいいの?」

「薬品の合成は僕が行いましょう。ティカルは亜鉛を砕いていてください」

「亜鉛?」

 鍛冶屋には多くの種類の金属が備えられている。なので、探せば亜鉛も見つかるだろう。

「粉末状にしておいてください。……僕は塩と炭を使います」

「う、うん……」

 そう言い残し、ヴィカは調理場のほうへと向かった。

 亜鉛を探しながら、ティカルはふと考えた。ヴィカの膨大な知識は、一体どこで蓄えたのだろう。

 以前は旅をしていた、と聞いたが、本当にそれだけなのだろうか。ティカルは考えながらも亜鉛の塊を見つけ、鍛冶場に持っていく。

 今日は、炉に火を入れる必要はなさそうだ。手袋を両手にはめ、金槌を握り、金敷に置いた亜鉛の塊に振り下ろした。

 ――しばらく亜鉛を砕いていると、奥からガラスの瓶を二つ持ってヴィカが現れた。

「砕いた亜鉛はこのガラス瓶に入れます」

 ヴィカは空のガラス瓶を金敷に置き、中に粉末を入れる。

「ヴィカが持ってるそれは?」

 ヴィカは空のガラス瓶ともう一つ、なにか液体の入った封のされたガラス瓶を持っている。

「これは薄めた塩酸です」

「エン……サン?」

「塩水に電気を通し得られた水素と塩素を、加熱することで精製された塩酸を薄めたものです」

「……???」

 ティカルは金属には詳しくとも、薬品には詳しくない。聞き慣れない言葉の数々に首を傾げた。

「このハイノサイスでは化学分野はほぼ発展していませんから、聞き慣れなくとも仕方がありません。この地域では、いわゆる錬金術とも呼ばれますね」

 ヴィカは塩酸を手にしたまま、十字架に軽く触れる。

「幸い地金は銅です。真鍮メッキが使えます」

 ティカルが粗方亜鉛を砕き終わると、ヴィカは手早くそれをガラス瓶に入れて封をした。

「さて、それでは次です。この十字架の錆びの部分は全て綺麗にしておきましょう。ティカルの得意分野のはずです」

「うん、わかった!」

 銅に浮いた青錆の類は、塩と酢を混ぜた液を布に染み込ませ拭けばいい。ツナギのポケットから布を取り出し、調理場へ向かった。


「そういえばさ」

 錆を落としながら、ティカルは黙ったままのヴィカに話題を振る。

「ヴィカは神様って信じるかな?」

「いいえ」

 一秒も待たず答えが帰ってくる。いつもの事ながら速い回答にティカルは苦笑した。

「ティカルは信じているのですか」

 ティカルは手を止めて、三秒ほど唸って首をひねり、

「わたしも……信じてないかな」

 こんなこと聞かれたら色んな人に怒られちゃうけどね、と付け加えて薄く笑った。

「なぜですか?」

「なぜって、言われても困っちゃうけど」

 ティカルは苦笑してサビ落としの作業を再開した。

「信じたくないからかな。だって、こうやってわたしが鍛冶屋をしてるのは自分で選んだからだし、自分で練習したからだよ。それを元々決まってたみたいに言われるのは、ちょっとね」

 ヴィカは一瞬何かを思案する。

「なるほど……この辺りではその種類の教えが流行っているのですね」

「他にもなにか知ってるの?」

「ええ。しかし、どこも似たりよったりです。人智を超えた存在が、現実離れした理想を語る。変わりません」

 どこか遠くを見つめて語るヴィカ。ティカルはあえて触れないことにした。

「神様が世界のすべてを作ったなら、もっとたくさん作っておくべきだよねえ。わたしだってもっと普段から魚食べてみたいから、この辺りにも海を作ってほしいよ。それに、剣を打つのだって何だかんだいって重労働だから、剣のなる木とかがあったらよかったのに」

「それではティカルの仕事がなくなりますよ」

「あはは、そうだね」

 軽く笑って、子どもじみた仮定の話を流す。その間も作業の手は休めない。布で強く擦ると、錆が布に移り、綺麗に消えていく。

「でも、それで救われる人だっているんだよね。この国にも教会はいくつかあるし」

「…………」

「ふぅ。できたよ、ヴィカ」

 錆取りに予想よりも時間と労力を払い、ため息を吐く。

「では、この塩酸の中に亜鉛を入れます」

 ヴィカは立ち上がり、慣れた手つきで片手で亜鉛の瓶の封を開け、塩酸の中に入れる。

 黒い粒子がゆるやかに透明の水の中に広がっていく。軽く瓶をゆすり、全体を混ぜていく。

 そして、溶液を金の剥げた箇所にかけた。液体が徐々に広がり、伝っていく。

「これを何度か繰り返していきます」

「そうすると、どうなるの?」

「簡単に言うと、銀色になります。その銀色の箇所を火で炙ることで金色に変わります」

「へぇ……」

 ヴィカが錬金術と呼んでいたことが腑に落ちた。どうしてそうなるのか、などの詳細までは分からないが、ティカルはひとまずヴィカに任せることにした。



 ――一週間の後、十字架は再び台車に乗せられ鍛冶屋の表に出されていた。

 少し緊張した面持ちで、ティカルは何度か十字架に被せた大きな布を取って確認した。その度に、ヴィカに軽くたしなめられる。

「今更見栄えが良くなることも、悪くなることもありませんよ」

「そ、そうなんだけど……」

 そうこうしているうちに、道の向こうから聖職者の男が現れた。

「おぉ、ティカルさん! 十字架の修復が終わったと聞いたんですが」

「は、はい!」

 男は台車に近づき布をめくる。十字架は、全体が金に染まり、男が手に入れた当時の光を放っていた。太陽が薄く反射する。

「おお、素晴らしい! ありがとうございます!」

「い、いえ……」

 ティカルは何やら気まずそうに目線を逸らし俯いた。男は少しその態度を不審に思ったが、すかさずヴィカが割って入る。

「代金を頂きます」

「ああ、そうでしたね。では、これで」

 ヴィカは受け取った袋を手にすると、一瞬中身をちらりと見るやすぐに懐に入れる。

「確かに。では、あと一週間ほどの滞在をお楽しみください」

「あ、あぁ、はい……?」

 追い返されるような早さで会計は終わり、男は首を傾げながらも台車を引いていった。一旦宿に置くつもりだろう。

 平然としているヴィカの隣で、ティカルが大きくため息を吐いた。

「まぁ……金メッキの中を部分的に真鍮メッキにするなんて、とてもできたものではありませんよ」

「知ってたの!? あの、かなりムラが出来ちゃうこととか……知ってたの!?」

「当然です。その上で最善の手がそれでした」

 無感情のままヴィカは淡々と告げる。

「彼も日光直下のこの位置では気付かなかったようですし、この後で気付いたとしても後の祭りです。彼の保存方法が悪いと一蹴すれば良いのです」

「う、うう……それでいいのかなぁ……」

「それに」

 ヴィカは目を細めることもなく太陽を見つめていた。その表情は変わらず、口角もまったく上がっていない。

「錆びて、欠けて、それが神の象徴なら。今更メッキで覆ったって遅いでしょう」

 不明瞭な物言いにティカルは首を傾げる。それ以降はヴィカも何も言わなかったので、ティカルはヴィカの手を握った。

「ご飯、食べに行こうか」

「はい」


作中の通りにやろうとしてもメッキはできないと思うので、錬金術を体験してみたい方は塩酸+亜鉛をかけるのではなく、塩酸+亜鉛の中に銅製品を沈める方法を使いましょう。

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