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転生の剣

 眠れなかった。

 とっくに諦めたはずだったが、まだ恐怖があるのだろうか。

 それにしても、しばらく続いているこの干ばつはひどい有り様だ。

 どこを通っていてもガタガタとひどい揺れが馬車を襲う。野営している今ですら、体が揺れている感覚が消えきらない。

 焚き火の火はすでに消えていた。炭になった木が、煙を吐きながら積まれている。

 上を見上げると満天の星が広がっていた。まだ姿は見えないが、太陽が近づいているようで、星空はやや明るくなりつつある。

「眠れないのか」

「ええ、まぁ」

 笑ったつもりだったが、うまく表情にならない。夜の暗さが幸いだ。

「そう気にするな。ってのはまぁ無理だな。どう言ったらいいか……」

「別にそのことを気にしているわけじゃありませんから」

 何の気無しに撫でた干ばつの大地はあまりにも乾いていた。

 あと一週間。それまでにできれば草原が見たいものだが、過ぎた願いだろうか。

「だったらなんで起きてるんだ。体に毒だぞ」

「いえ、ただ」

 僕はもう一度、空を見上げた。キラリと光り、星が流れたようだ。

「星があまりに美しかったもので」


 とても浅い眠りに落ちた、ような気がする。疲労や眠気は消えていた。

 父と長はすでに起きて薪の炭を片付けていた。僕もそれに従う。

「おはよう。今日は昨日と同じく北西に進むぞ。おそらく今日中には例の国に着くだろう」

「ハイノサイス、でしたか」

「そうそれだ」

 以前滞在した国で知らされた、この周辺の貿易の要となっている国のことだ。

 ハイノサイスからさらに北にある大きな陸路のおかげで、大抵の品はそこにあるという。

「儀の材料も大方そこで揃うだろうよ」

 長は口元に笑みを浮かべていた。釣られて僕も笑顔を作る。

 薪を片付け終わると、長は手を叩き大声で言った。

「おおい、起きろお前ら! そろそろ出発だ!」

 馬車の中や、干ばつをベッドに寝ていた男女がある者は早く、ある者はのそのそと起き上がる。

 しかし遅くとも彼らは一分程度で起き上がり、支度を始めた。馬が目覚め、商団の馬車が一列に動き始めた。

 結局僕は最後まで馬車を操る機会はなかった。

 馬車の運転は商団の移動を司ることであり、そう簡単に役割交代が起きないのは仕方のないことだ。

 馬車の中から外を見つめても、一面の赤茶けたひび割れが広がるだけだ。

 つまらないので馬車の中に視線を戻す。母はまた大きくなった腹を撫でていた。

「あと一週間だったっけ」

「そうよ」

「馬車の揺れは大丈夫? ここらはひどい地面だけど」

「お父さんもそれをわかってるし、そのために最後尾なんだから平気よ」

 僕の杞憂をからかうように、母は優しく笑った。

「あと一週間なのね。そしたらしばらく会えなくなるわね」

「その子がいる。心配いらないよ」

 母が沈黙し、馬車の中は一気に静まり返った。ガタガタという車輪の音が響く。

 僕の兄もこんな気分だったのだろうか。これまでの人らはどんな思いだったのだろうか。

「見えてきたぞ!」

 馬車の外から父の声が聞こえた。城壁が見えたらしい。

「俺たちは儀の品を揃える。母さんは一足先に宿にいてくれ。お前は、鍛冶屋で短剣を買ってきてくれ」

「わかった」

 いよいよ僕の仕事が始まる。心は平穏に波立たないまま、馬車は進んだ。

 馬車が止まる。おそらく先頭では長が商団の説明や取引をしているのだろう。

 やがてゆっくりと馬車が動き、止まる。また動き止まるを繰り返す。

 ハイノサイスの門番たちが馬車の荷物を確認しているらしい。

 いよいよ最後の僕らの馬車の番となる。日除けがめくられ、鉄の胸当てをして、腰に剣を携えた若い黒髪の男性が中を覗いた。

「あれ? ここは荷物がないのか?」

「妻が出産手前で。他に積んでもらったんですよ」

 馬の手綱を握りながら父が笑顔で答えた。

「それはおめでとう! 医者と宿は国の西側にある。元気な子を産んでください」

 門番の男性は軽く一礼して馬車を離れた。両親は顔を見合わせ苦笑する。

「良さそうな国だな」

「ええ。でも、医者はいらないわよね」


 馬車を停めて、商団は散開した。出店が開けるという広場に商品を売りに行く者、宿を確保しに向かった者。

 そして父は一週間後の儀に使う火種や薬草を買いに行った。

 僕は、先ほど通ってきた南門のすぐ近くにある、煙突の高い鍛冶屋に訪れた。

 中を覗くと、何やら仕事の最中のようだ。小柄な体格の人が金槌で鉄を叩いていた。

 叩くたび火花が散っている。赤い鉄から火花が散り、地面に当たっては消えていく。

 その光景が何やら神秘的で美しく思えた。思わずその場で足を止める。

「……何かご用ですか」

「!」

 突然背後から声をかけられた。足音も聞こえないほど熱中して眺めていたようだ。

「ど、どうも」

 振り向いて背後の青年に会釈した。しかし、帰ってこない。

 青年は無造作に伸びた黒い髪をしていて、瞳が赤い。背が高く、ローブを着ている。

 無表情のまま、僕の心を見透かすような冷たい眼差しを向けてきていた。

「ティカルは作業中です。用件があるならば僕が伺いますが」

「あ、はい。……ティカル?」

「彼女です」

 青年は鍛冶屋の中を指し示した。なるほど、鉄を打っている職人の名前のようだ。

 いや、待て。彼女?

「彼女!?」

 確かによく見てみると、茶色の髪をかんざしで束ねている。顔つきもやや幼いが、男にはない凛々しさがある。

 ただ、服装は薄い青色のツナギだ。まだ若いだろうに、なぜあんな格好なのだろうか。

「女性が鍛冶をやるんですね」

「それで、何か注文ですか」

 世間話をしようとしたが拒否された。確かにもっともだ。

「短剣を作ってほしいんです」

「短剣、ですか。後払いで、銀貨二枚になります。どのような短剣か、指定は?」

「特にありません。ただ、切れ味は良くしてください」

「…………」

 注文を聞いていた青年が突然黙り込み、こちらを覗き込んできた。

 その目からは何の感情も読み取れない。何を目的としているのかまったくわからない。

「あなたは」

 彼は何かを言いかけたが、途中で興味を失ったように退いた。

「わかりました。おそらく、四日後ほどになるでしょう。宿は取っていますか」

「あ。いや、今仲間が取りに行ってます。決まったらまた知らせに来ます」

 僕は注文を終え、逃げるようにその場を後にした。

 彼は何者だったのだろうか? 一体僕に何を言いたかったのだろうか。

 そして彼の眼差しと同じくらいに、あの火花が瞼の裏に焼き付いていた。

 散ったあの火花は、どこに消えていくのだろう。


 人数分の宿を確保できたと仲間の一人から聞いたので、僕は真っ先に母の部屋に向かった。

 すこし古いが、床が抜けたりする様子もなく、環境も悪くない。

 母体に、生まれてくる子どもに影響はないだろう。安心して、ドアノブを捻った。

「お、来たか」

 部屋にはすでに父も来ていた。いつもは精力に満ちた強い目つきも、今は心配と期待にふやけていた。

「短剣は注文してきたよ。四日後、出来上がるって」

「そうか。それを受け取り次第出発することになるだろうな。長に伝えてくる」

 父は足早に部屋を出ていった。父なりに気を使ったのだろうか。

 母の腹を見つめる。苦しくないのだろうか。大きくなった腹の中に、もうひとつの命がある。

 この中に一週間後、命が吹き込まれるのか。不思議な気分だったが、疑いはなかった。

「ねぇ、最後にしてほしいこととかないかしら?」

「え?」

 思いもよらぬ母の申し出に僕は苦笑した。それは可笑しなことだ。

「何かしてほしいことはないかってのはこっちの台詞だよ。子を産むのは母さんなんだから」

「そうね。でも、今のあなたと会えるのは最後でしょう?」

 その言葉は、僕の脳裏に先ほどの火花を思い浮かべさせた。

 火花を散らし鋼になりゆく鉄。形を変え、刃となる鋼。刃は人を貫き、血を溢れさせる。

 飛び散った血はどこに行くのだろう。あの火花のように消えてくれればありがたいと思った。

「平気だよ。してほしいことはない」

 それよりも僕は、鍛冶屋に宿の場所を教える必要があった。

 何か言いたがる母を遮るように扉を閉め、宿を抜け出した。

 外はもう陽が落ちていた。通りすぎる街角には、酒を飲んで笑う人々が歩いていた。

 レンガの道は丈夫に舗装されている。踏みしめるとバスキンがよい音を立てる。

 ハイノサイスは国といっても小さな部類のようだ。舗装された歩きやすい道も相まって、数十分ほどで鍛冶屋の前まで辿り着いた。

 だが、鍛冶屋の入り口は閉ざされていた。煙突も煙を吐いていない。

 どうやら今日は閉まってしまったらしい。無駄な体力を使った。

 その時、風上から良い匂いがした。

 そういえば長は、国の南側には料理を出す店などもあると言って僕に数枚の銀貨をくれたのだった。

 手には九枚の銀貨がある。相当な贅沢だ。あと一週間の命だと気を使ってくれたのだろうか。

 不必要なことだとは思うが、今はありがたく受け取っておこう。

 風上に向かって歩いていく。匂いの元を辿ると、一つの酒場があった。

 ウェスタンドアを開けて中に入ると、外まで匂っていた良い匂いとは別に、むせるほど酒の匂いがした。

 酒。商団の商品の中にもいくつもあったが、一度たりとも飲んだことはなかった。

 一度、飲んでみようか。

 一度起きた好奇心はなかなか収まらず、僕はカウンターに腰掛け、勢いに任せて麦酒を注文した。

 僕の姿は若いほうだが、気にかける者はいないようだ。

 強いて言えば、遠くの丸テーブルからこちらをチラチラと見ながら笑っている集団は一組いた。

 酒が来るまでどうにも落ち着かず、店内を見回した。

 丸テーブルがいくつも並ぶ店内に、僕が座るのは調理所と隣接したL字型のカウンター。

 カウンターにはいくつもの酒の瓶や、ガラス細工のインテリアが並ぶ。

 右では恰幅のいい男が酔い潰れていた。こちらに来ないといいが。

 左には、黒く長い髪のローブを着た青年と、青いツナギを着た少女が――

「ああ!?」

 思わず椅子から立ち上がってしまった。そのことで、あちらの二人も気づいたようである。

「あなたは、今朝の方ですか」

「? ヴィカ、知り合い?」

「短剣の注文者です」

 ティカルという少女の声を初めて聞き、改めて彼女が女性であると確認した。

 黒い髪の青年はヴィカというらしい。こんな賑やかな店にあっても、彼の静かな目は変わらなかった。

「はじめまして、鍛冶屋のティカルと申します。この国には観光ですか?」

「えっ、あぁ、いや。僕の商団がここにモノを売りに来たんだ。それに付いてきた」

 思っていたよりもずっと礼儀正しい性格で戸惑ってしまった。

 鍛冶屋をやっている女性というから、てっきり男勝りなものかと思っていたが。

「そうだ。泊まる宿が決まったので、知らせておきます。西にあるサラホテル、二階の角です」

「わかりました。覚えておきます」

 話しているうちに、僕の前には麦酒が置かれた。

 八角形の木製のジョッキから、白い泡が少し溢れていた。泡がはじけている。

 恐る恐る持ち上げて、飲む。酒が口に流れ込んでくると、苦味で舌が焼かれた。

「っ!? ゴホッ」

 舌だけでなく、喉も焼け付くようだ。何だこれは。こんなものを皆は喜んでいたのだろうか。

 理解できない。何やら損をした気分になり、通常の食事としてラザニアを注文した。

 待っている間は退屈だ。かといって、隣の二人に話しかけることもない。

 仕方なく、麦酒をもう一口。やはり苦い。その上、何やら頭に靄がかかるように感じる。

 舌の上で苦味と炭酸の痛むような感覚を感じる一方、気付くと舌の根のほうでは僅かに旨味を感じた気がした。



 頭が痛む。

 心臓の鼓動に同期するように、頭の芯がズキズキと痛んでいた。

「ぶわっははははは! 起きたか!」

 視界が定まらない中、そこに長の声と姿があった。

 はて、ここはどこだろう。僕は酒場にいた気がしたのだが、夢か何かだったか?

 ここは、見覚えがある。ベッドに、木の屋根。そうだ、ハイノサイスの宿だった。

「お前、酔い潰れて運ばれてきたんだぞ」

 長はくつくつと笑いを抑えていた。酔い潰れた。酒を飲んだのだろうか。

「運んできたのは髪の長い男だったよ。次会ったらちゃんと礼を言うんだな」

 そう言って長は部屋から出ていった。僕は頭痛を思い出し、ベッドに倒れる。

 恐ろしい体験をしたものだ。何をしたのか覚えていない。

 今日は何日だろうか。あと六日か、五日か。

 ともかく、今は眠ろう。僕は体の中の異物を抜くために、眠ることにした。


 目が覚めても、頭の痛みは抜けきらなかった。

 だが、少しはマシになったように思える。立ち上がって歩くこともできた。

 しかし今日はそう出歩くこともないだろう。その必要性も感じない。

 僕はそのまま再び体をベッドに投げ出した。窓から外を見ると、陽の光が強い。

 昼頃なのだろうか。しかしすぐどうでもいいように思えた。

 窓から加治屋の煙突が見えないかと少し目を細めてみたが、生憎それも見えなかった。

 疲れて何をする気も起きなかったが、ふと頭の隅にただひとつ、欲求を見つけた。

 夢が見たかった。最近それらしいものは何も見ていない。

 現実の世界とはまるで違う夢の世界。僕はそれが少し好きだった。

 久々になにか見れないだろうか。僕は目を閉じ、寝返りを打った。

 ――――それから少し時間が経った。

 自分が眠れたのかどうかすら定かではないが、眠気はもはや残っていなかった。

 寝返りを打つと、そこにいるはずのない姿があった。

「ヴィ、ヴィカ、さん?」

 彼はさも当然のように僕の部屋に入り込んでいて、ベッドの傍らの椅子に座っていた。

「話を伺いに来ました」

「は、話って、なんの?」

「あなたの命についての話ですが」

 そう言って彼は首を傾げた。命について。なぜ彼がそんなことを僕に聞きに来たのか。

「あなたが酔っていた時、残りの命が一週間だと聞きました。そう不健康とも見えません。詳しく聞いてみたかったのですが、明日宿に来てくれとのことで」

 恐ろしい。自分は酔っ払ってそんなことまで口走っていたのか。

 しかし事実だ。その点について覆すことは何らない。

 それにせっかくだ、自分の頭も整理できるかもしれない。僕はベッドに腰掛けた。

「そうだよ。僕の命はあと六日だ」

「なぜです」

「母に子どもが生まれるんだ。うちの民族では、子どもが生まれるときは先に生まれた子どもは死ぬことになってる」

 彼の感情の読めない眼差しは、初めてやや鋭く細められた。

「自殺用の短剣ですか」

「まぁ、そうなるかな」

「僕にはとても理解できませんね。なぜ子どもが生まれれば死なねばならないのですか」

「命を引き継ぐためだよ」

 ヴィカさんは随分と腑に落ちない様子だ。とはいえ表情は変わらないので、単なる勘だが。

「昔、うちの民族では母胎の中で赤子が死ぬことが続出していたらしい。それは命が赤子に宿らないからだ。そして僕らの先祖はこれを始めた。先に生まれた子どもの命を捧げ、赤子に宿らせ、無事に生まれさせるんだ」

「何を言っているのですか。生まれた赤子に記憶が引き継がれると?」

「いいや? 引き継ぐのは命だけだ。魂はこの体に置いていく」

「…………」

 彼は無表情のままだったが、重々しい沈黙を続けていた。

「それはただの死です。記憶が魂に宿るというなら、魂の消滅は死にほかならない」

「魂は確かに消える。だけど命は赤子に宿るんだ。それって、僕が生きてるのと同じことにならないか?」

「そこにあなたの意識はないのでしょう」

「ああ」

「それでも自分の死が赤子を救うと考えているのですか?」

「? そりゃそうさ」

 彼はまたしばらく黙ったままになった。

 彼は随分とこの民族の生命観に興味を引かれているらしい。


「昔……ある国に生贄になった男がいたことを思い出しました」

「?」

「あなたの話に興味を持ったのは、そのことを思い出したからです。その男は、自分の死が国を救うことを信じて疑わなかった」

 彼は立ち上がり、壁際に立った。

「男は国に命を捧げたのです。国がそれを求めていた。彼もそれを了承した。国を守るためだった。国を守るために、守る力のために、男の命を潰す必要があった」

「なんの……話を?」

「男の死体を元に、兵器が作られました。しかしその兵器はどれも失敗作で、それらを巡って国は争った。ようやく出来た兵器の完成品を奪い合って、国は滅びました」

 なんとなく、ではあるが。彼の言葉は思い出を語るような代物ではない気がした。

 それこそ、自分の身に起きたことを語るような……。

「彼のような存在は、もう出してはならないと僕は考えているのです」

 ヴィカさんは赤い瞳で僕を見つめていた。無表情の裏に彼は何を隠しているのだろう。

 しかし答えはひとつだ。僕は、もう答えをとっくに出している。

 彼と出会う前から、ずっと、僕の命は母の元に返すと決めていたことだ。

「僕は、国とか、武器のことはよくわからないけど、その男の人はきっと決意を固めていたことだと思う」

 彼の表情は変わらない。

「この世界は一瞬だ。僕らが生まれて死んでも、同じ川の流れは何も変わらない。なら、長く生きることよりも、どんな価値があり、どう生きていたかのほうが重要だと思う」

「その死が、本当はなんの価値のないものだとしても?」

「価値尺度なんてのも、所詮変わるよ。たとえ思い込みだったとしても、僕自身が価値のある人生だったと思えるなら、この魂は無駄じゃなかった」

「そうですか」

 昨日の注文のように、彼は突然興味を失ったように退いた。肩透かしを食らった気分だ。

「彼も、そのように考えていたかもしれませんね」

 彼は最後にそんなことを言い残して、部屋を出ていったのだった。

 彼が何を言いたかったのかは結局分からなかったが、この問答は僕にとって有意義なものだったと思えた。

 本当は不安だった気持ちもある。恐怖で泣いたのも嘘じゃない。

 自分の存在が世界に忘れ去られ、そのまま回っていくことに理不尽も感じた。

 だけど考えを突き詰めていくうちに、そして今の問答のうちに答えは得た。

 僕は部屋を出て、母の部屋の扉を叩いた。頭痛はいつの間にか消えていた。

 母はベッドに腰掛け、編み物をしていた。生まれてくる子のためだろう。

「あら、どうかしたの?」

 母は手を止め、にこやかにこちらに笑いかけた。

 一度断った手前今さら切り出すのは恥ずかしい気もしたが、この際いいだろう。

「あなた昨日、酔って潰れたんですって? ダメよ、体に――」

「母さん。昨日、してほしいことはないかって聞いてくれたよね?」

 母は少し目を開いて、キョトンとした表情で頷いた。

「僕は、最後に草原が見たい。それと、川が見たい」


 それから、四日目に僕はティカルさんから短剣を受け取った。

 それとほぼ同時に、商団は北に向けて旅立った。

 間に合うかどうかはわからなかった。間に合わなければそれでいい。しかし、彼らは僕のために馬車を早めてくれていた。

 五日目に、馬車は大陸路に辿り着いた。整備された道路があり、実に賑わっていた。

 しかし商団はそれを通り過ぎ、さらに北上した。そこに山脈があると聞いていたからだ。

 六日目に、商団は山麓で眠った。麓は土と砂ばかりだが、上には緑が見えていた。

 母の中の赤子はどんどんと外に出る準備を整えていた。はやく命を移さなければ、意味がない。

 赤子を産む直前に誰かが死ぬ。そんなこの習慣のために、僕らは国の中で医者に頼ることはできなかった。

 準備は着々と進んでいく。手の中にある短剣が月の光を弾いていた。

 七日目の朝。山には朝もやがかかっていた。

 父からは薬草を受け取った。これに火をつけると鎮痛効果のある煙を発し、眠るように死ぬことができるらしい。

 山を登りながら、考える。この人生は何かに支えられてばかりだったと。

 短剣も薬草も、この決意すらも、誰かがいたからここにあるものだった。

 この命は誰かを支える人になれるだろうか。

 この魂はこの山でお別れだ。

 森を抜け、山を歩く。そこには、小さな川が流れていた。

 透明な水は、苔むした石に翠に照らされていた。

 僕は川のほとりに座り、薬草を炊いた。白い煙が巻き上がる。

 次に、短剣を見つめた。刃先を指でなぞると、血が滲む。彼女は随分腕のいい鍛冶師だったらしい。

 揺れる水面を見た。枯れ葉が流れて消えていく。

 短剣を頸動脈に添え、一気に引いた。

 火傷をしたように、日焼けの肌に触ったように、首がヒリヒリとしていた。

 急激に意識が消えていく、黒く、染まる。なるほど、確かに痛みもなく、まるで眠るようだ。

 最後に聞いた音は川の流れか、赤子の産声か。

 溶けるように、薄くなる。沈む。眠る。

 夢を見れたらいいな、と思い、僕は目を閉じた。




 朝の山に、元気な泣き声が響いた。

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