その2
「我がトライウェル連合帝国は、有史以来様々な外敵と戦い続けてきたことは諸君らも知っていると思う。獣人、鳥人、竜族、そして最強の生命体と言われる龍。これらは絶えず我々の領域を侵犯して来た。いや、我が帝国のみならず人類という種は、永らく奴らに支配されてきたと言って過言ではない」
校舎棟にある大講義室。三個訓練小隊に属する二十四名が受講しているのは、航空魔法士官養成課程ヴォンデルランド戦術科長ケネル・アトハウザー大佐の戦史講義だ。
大佐は帝国軍士官学校の教授も兼任する一流の戦術魔法師であり、レクス達が目標とすべき人類最強の魔法使いの一人だ。五十代だといわれるが、その立ち振る舞いは将軍達すら圧倒する威厳と気迫に満ちていて、いまだ現役を自負しているパイロットだ。
「では、何故奴らが我々の生存を脅かすほどの力を持っていると言えるのか。シュタンジット訓練生、説明してみろ」
指名された訓練生が立ち上がる。その際、雛壇上に並んだ座席の後方に座っていたレクスの方に、わざわざ一瞥をくれる。
毎度のことに、内心うんざりのレクス。
そのユリスタン・シュタンジットは、アトハウザー大佐の設問に優等生らしい解答を示した。
「龍をはじめとする異種族は魔法、事象変換言語を身に付けています。ワーズは人類の声帯でも発声可能ですが、異種族は独自に声帯を発達させ、複数のワーズを同時詠唱したり、複数の声帯を用いることで、他に類を見ない強力な魔法攻撃を行なうことが出来ます」
――それだけじゃないんだけどね……。
「よろしい」
頷く教授。
「異種族のワーズに対抗するため、我が帝国が全人類に先駆けて編み出したのが刻印魔法だ。が、その話はこの講義の範囲ではないので割愛しよう」
そこでアトハウザー大佐が、ちらりと雛壇上方に目を向ける。
目が合った。レクスは一瞬そう思ったが、ただの偶然だと流す。
「今後、諸君は高等練習機イーグレットを用いた実機演習に入り、ゆくゆくは主力戦闘機ブルーレイディを操ることになるのだろう。そんな君たちが遭遇するであろう、我が帝国空軍最大最強の敵を紹介するとしよう」
教授が右手を小さく払うように振ると、背後の大型魔晶スクリーンに奇怪な生物の模式図が映し出された。
その図を見て、思わず息を呑むレクス。
「固体名ガンダルフ・エイス。龍の一にして、現在最も若い個体だ」
戦闘機のガンカメラ映像からおこされた図であるはずだが、それはおそろしく精確だとレクスは思った。
巨大な大木のような胴体と、その体長に比して短いが太く逞しい四肢。鱗に覆われた長大な尾。大きな頭部には、理知的な容貌と、それとは対照的に小型艇くらいなら呑み込めてしまうのではないかというほど凶暴な顎門。体長を上回る翼幅を持つ一対の翼。
悪魔的で恐怖心を起こすはずのその一つ一つだが、龍という存在全体で見ると神々しくさえ見える。
この空を支配している、“神の化身”と言われる威容。
何もかも失ったと思っていたレクスが、あの場所で、あの草原で出逢った彼は、朝焼けの中で優雅に空を舞っていた。
純白の翼をはためかせ、美しい旋律を重ね、束縛される物の無い濃紺の空間を、まるで自分の遊び場のように。
見惚れていたレクスに気付いたのか、彼はゆっくりと近付いてきた。
そこでレクスはようやく気付いた。それが、人類が恐怖し、そして倒そうと躍起になっている空の支配者、龍であると。
それなのに、湧き上がるのは、この神々しく美しい存在に対する好奇心。自分には到底出来ないような、艶めくような旋律に対する憧れ。
姉が、興味を抱き、憧れた存在。
そう思ったとき、戦争に負け、姉がこの島を去ったことを思い出し、涙がこぼれそうになった。
飛行機なみの巨体が緩やかに草原に降り立ち、長い尻尾と両足で器用に立つ姿から、上体だけを曲げ首を伸ばしてくる。驚いたことに、音もなく、風もほとんど巻き起こらない。
眼前に迫る大きな口から漏れる、大きな息遣い。生暖かいそれがレクスの頬を撫ぜ、感じられた圧倒的な生命の息吹。
それとは対照的に、巨大な顎門の奥に乗せられた蒼い空色の瞳は知的で、それでありながらどこか子供っぽさを感じさせる。
《小僧?》
それが理解出来たのは、それが母と姉から教わった事象変換言語だったから。
そして、初めて本来の使い方を知った瞬間。
《我に何用か?》
慌てて首を振るレクス。
首を傾げる龍。
「あなたが綺麗だったから……」
口を突いて出たのは、何も纏ろうことのない本音。
鱗に覆われた表情が僅かに変化した、ように見えた。確かに笑った。
「そうだろ?イカすだろ?」
「最も若いということは、最も凶暴といって差し支えないだろう」
アトハウザー大佐の言葉で、意識が引き戻される。
「我が帝国空軍は、既にこの個体との戦闘によって二百九十機もの航空機を失っている。最新鋭のブルーレイディですら配備開始から八年で既に十二機、一個中隊に相当する機体を失っている。驚くべきことは、この数字はこの十五年間に限ったものであり、それ以前は索敵能力が低く正確な数字ではない」
「若いって言ってもあいつ、二百十二歳だからな……」
思わず口にしてしまった独白。静まり返っていた講義室で危うく目立つ行為をしてしまうところだったことに気付き、慌てて口を噤む。
不意に右肘を突かれる。右隣に座ったエリナだった。別に前席後席で一緒にいなければいけないという規則があるわけではないが、彼女はいつもそこにいる。
一度ひな壇の列の右端に座ってみたら、エリナは彼の背後に座ったものだから、なんだか面倒になってエリナのために右隣を空けるのが癖になっていた。
それに美人が隣に座っているのは嫌じゃない。むしろ、向こうが嫌なんじゃないだろうか。
エリナのノートの端に彼女のメモが見えた。
『知ってるの?』
どうやら、つぶやきは聞こえていたらしい。
迷った。答えるべきか。今の彼は帝国空軍の航空士官候補生だ。その立場で自分は答えるべきか。
いや、エリナは相棒だ。自分のことはきちんと伝えるべきだ。少なくともいつも彼女は二人の成績を伸ばすために色々な努力をしてくれている。
エリナのノートに自分のペンを伸ばそうとしたところで、また躊躇った。本当にそれは正しいのか。それが分からず、そして本当のことを話したときエリナはどんな反応をするだろうか。
本当は、それを知るのが怖かった。
エリナの左手が、新たなメモを書き付けた。彼女が両手で文字が書けるのは、こういうときに重宝する。
『やっぱり知ってる』
黙秘が既に肯定になってしまっていることに、レクスはようやく気付いたが、答えることは出来なかった。
三つ目のメモ。
『今度、教えて』
「え?」
思わず声が漏れる。
それは軍人としての、それとも個人的に?
ちらりと隣の美少女を見やる。いつもどおり透き通る空色の瞳は無表情で、生真面目に講義に耳を傾けている。
そりゃそうだ、と納得した。お互い軍人であることに変わりはない。
「おい。キャロイ訓練生」
唐突に名を呼ばれ、レクスは慌てて返事をして思わず立ち上がってしまった。滅多に名指しされることが無いので慣れていない。
聞こえてくるのは、微かにくすくす笑う声。
アトハウザー大佐は茶色の瞳を抱く目を細め、数瞬置いた。
「龍の最も脅威となる特性は何だと思う?」
そうだった。龍、ガンダルフについての講義だった。レクスは思案する。
ふとエリナがノートに防御力、火力と書き連ねているのが見えた。カンニングさせてくれる、ということだろう。そのままの単語を口に出しそうになったところで一旦息が詰まる。
本当にそうだろうか。あの神々しい翼はそんな愚鈍な輝きだったか。あの陽気な龍の、彼らの唱えるワーズはそんな低俗な唄だったか。
「圧倒的な運動性です」
気付いたら、はっきりと明言していたレクス。驚いたエリナが彼を振り返り、そして大佐がにやりと笑った。
「ほお。それはどういうことだ?」
そう追求され、とっさに言葉が出て来ない。まさか、実際に見ました、とは言えない。
「えっと……」
落ち着け、僕。周りの目を気にするな。気になるけど、気にするな。これは間違えの無い答えのはずなんだ。彼自身が言っていたんだから。そうやって自身を奮い立たせるレクス。
「龍は三十G加速が可能な存在です」
今度こそ、全学生が彼に注目してしまった。三十Gという具体的な数字が彼の口から出たことに驚くと同時に、それが根拠があるのか疑わしい数字だと、勉強してきた学生なら誰もが気付いていたからだ。シュタンジットなどは、レクスを見て冷笑を浮かべているように見える。
「つまりはどういうことだ?」
居心地は最悪だ。驚嘆、嘲笑、好奇、それらの視線を一身に浴びている状況はほとんど地獄だった。吐き気すらもよおす。
だが、大佐の問いかけに答えないわけにはいかない。
「現在、空軍で使用可能な空対空ミサイルで三十G機動を行なえるのは短距離ミサイルのイリスだけです。射程は十マイル。これでは龍の熱線魔法の有効射程内であり、ここまで接近するのは困難です。だから中距離ミサイルのヘライオを使います。しかし、それでは命中しないのです」
「戦闘詳報に命中の報告が成されている。レーダー上でも確かに認められている。それに関する説明は?」
「へえ、そうなんですか?」
講義室全体がぎょっとしたのが分かり、自分の失言に気付いた。
だが、大佐は気にしていないようだった。
「そうだ。破片効果弾頭が近接作動信管によって炸裂。弾頭に刻印された熱線魔法とともに目標に命中した、そうだ」
「ああ、なるほど」
レクスは納得した。
「それは、あれです。……ゴミ回収です」
講義室全体が完全に静まり返った。帝国軍士官学校教授にして、一線級の戦術魔法師であるアトハウザー大佐に対して、この回答はありえない。どう捉えられても文句は言えない。
訓練生全員が、一体いつ大佐の雷が落ちるのかと戦々恐々としていた。
だが、意外な展開に誰もが、いや対話の中心たるレクスとアトハウザー以外が唖然とすることになる。
「キャロイ。何故、貴様がそんな平凡な位置に甘んじているのか実に不思議だ」
「はぁ……」
言われた意味を理解できないレクス。
「何故、そんなに自身を持って言える?」
「なんとなく、彼らならそうすると思いました」
「“彼ら”か……」
呼吸が止まった。
帝国にとって異種族との戦乱は国是だ。龍とは敵以外の何物でもない。倒すべき敵。取り除かなければいけない脅威。
そんなものに人格のようなものを認めるべきではない。レクスのたった一言が、帝国にとって非常に危険な思想を意味していた。
冷たい汗が背を滑り落ちる感触を味わっていた彼の前でしかし、大佐は小さく溜息をつくと、起立していたレクスを着席させて全体に向かって言葉を発した。
「馬鹿げた話だが、全く同じことを言った者が、かつてここを卒業した。そして今から四年前、ユウライ暦二五二年六月一八日、イグドラシル共和国の威力偵察に対する邀撃任務の帰途にあった第三〇三戦術飛行隊は、北方より領空を侵犯する龍個体を捕捉した」
大佐は右手を中空に数度動かし、スクリーンに数枚の画像を映し出した。モノクロの画像は不鮮明ながら巨大な異形の怪物を、はっきり捉えていた。
「残弾も少ないVF303は、やむなく邀撃を断念したが、たった一機がジャヴァウォックに向かって行き、約三十分間に亘って龍を牽制することによって、VF303の後退を支援した。この事件の査問会が後に開かれ、当事者である戦術魔法師の口から“ゴミ拾い”という言葉が飛び出し、戦闘記録からそれが事実である可能性が証明された」
今度は大佐の言葉が、講義室の困惑を招いていた。レクスでさえ、自分の発言でこんなことになるとは思っていなかった。
ひとしきり混乱が続き、落ち着いてきた頃にアトハウザー大佐はゆっくり口を開いた。
「ドラゴンスレイヤー、撃墜女王など色々と呼び名があるが、私は一番ふさわしいのはこれだと思う」
そこで今度は、はっきりとアトハウザー大佐はレクスを見た。
「魔法の世界を闊歩する空の淑女、エイリシーナ・キャロイ大佐」
痛い。感じたのはえもいわれぬ深く苦い味。奥歯が軋みを上げ、両手がきつく握り締められる。
もう慣れた。忘れた。そのはずだったのに、唐突な言葉に身も心も声にならない悲鳴を上げた。
「我が帝国空軍最後の空軍最高魔法戦闘機パイロットの名だ。覚えておけ」