表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あやし奇譚  作者: 鶴田巡
9/12

苦. 妖女

 それは突然の出来事だった。


「緊張するね~」

 加奈の暢気な声がざわついた社務所に響いた。

 神事の朝。うっすらと東の空が明るくなりはじめ、夜のうちに心地よくなった空気が再び熱を取り込もうとしていた頃。

「心配……」

 憂いを浮かべて、由良はぽそりと呟く。

「え~、何が~?」

 姉の心配そうな表情を尻目に、にこにこ笑いながら加奈は問いかけた。

 妹の顔を見て、由良はますます心配の度合いを深めた。

「何がって……決まっているでしょ。加奈が、途中で飽きたとか言い出さないか、ってこと!」

 緊張すると言いつつ、この軽いノリ。本当に緊張などしているのだろうか。

 それに比べて、由良のプレッシャーと言ったら何だ。加奈の空気を読まない発言や、空気読まない行動やらを想像するだけで、気をもんでしまう。

 それに。

 それに、それだけが心配の種ではない。

「由良ちゃん、加奈ちゃん、こっち来てちょっと手伝って!」

 白装束をまとった町内会長が手を振って、こちらに向かって声を上げた。

「あ、はい! ほら、加奈行くよ」


 不安は、無事に神事の手伝いを終えられるか、それだけではなかった。


 言葉にすれば、消え入りそうな不安は一体どこからやってくるのだろう。大体、その不安と言うモノが本当に存在しているのかすら、由良には怪しく思えてならない。

 思い過ごし、取り越し苦労、それならば構わない。

 だが、どんなに気持ちを切り替えても、その杞憂は消えなかった。

 そして、その杞憂と共に感じるのが、誰かの視線。

 見られている。どれだけ自信過剰なんだと、笑われてしまいそうで恥ずかしいけれど、そんな恥ずかしさなど、この「見られている」感じに当てられたら吹き飛んでしまうだろう。それくらい、鋭く、攻撃的な視線。

 たびたびぞくりとして、辺りを見回してしまう。

 けれど、周りには由良にそんな視線を送るほど、暇な者はいなかった。

 慌ただしく準備が整えられ、集まった者たちは次々と社へと向かって行った。


 神事は、禰宜・権禰宜・巫女・巫と言った神職を伴って、拝殿の奥でしめやかに行われる。

 由良たちの仕事は主に前準備と後片付け、それと神社での写真撮影の際のパフォーマンス程度だ。神事の最中で手を貸すことはほとんどない。

 だが、初めて目の前で行われる神事に緊張感が増すのは否応がなかった。周りに合わせてぎこちなくお辞儀をしたり、頭を下げたり。神事の手順など教えて貰っていないから、いつ何が起きるか、遅れないよう合わせるのに大変気を遣った。


 神主が祝詞を唱え、厳かな雰囲気に包まれた、その何分か後だ。

 急に隣に立っていた加奈がこちらに寄りかかって来た。

 最初は「もう疲れた」とか言うのではないかと思い、叱咤するつもりで加奈の方を向いた。

「気持ち悪い……」

 そう言った加奈の顔を見た時、由良はその顔色の悪さに驚いた。

(こんな時に貧血を起こすなんて)

 すぐに加奈の体を支え、座らせる。幸いにも一番後ろにいるため、あまり目立つとこはなかった。

「大丈夫?」

 由良が問いかけると、加奈は眉間にしわを寄せ、こめかみに手を当てていた。

「うぅー……気持ち悪い……なんか、変だよ、由良姉……」

 加奈の言葉が、ふと胸に引っかかった。

「……変って、何が」

 由良が加奈に疑問をぶつけたと同時、目の前にいた男性が突如意識を失ったように倒れた。

 由良の中にある、加奈が放った「変だよ」と言う言葉が突然、形をおび始める。

 座り込む加奈を横目に、由良は目の前の男性に声を掛けようとすると、周りの人々も次々倒れていく。呻き声が辺りに重く立ちこめている。

 周囲の異変に気づいた神主が祝詞を中断。倒れた人々に声をかけ、助け起こすも、その神主までもがついに倒れ込んだ。

(一体何が起こっているの?)

 その光景に、ただ戸惑うばかりだった。

 とうとう由良以外の全員が倒れ込んだ。みな、呻いたり、意識を失ったりしている。一番最後に倒れた神主は、それでもまだ意識があったので由良は急いでそちらに駆けつけた。

「大丈夫ですか?」

 うずくまった神主に声をかけると、神主は蒼白させた顔を上げた。

「何が起きたのか分からないが、大丈夫なのはお嬢さんだけのようだね」

 由良は一度辺りを見回して、本当に何ともないのが自分だけであることに驚きながら、確認して頷いた。

「救急車を呼んで……社務所の電話から……説明出来る?」

 今にも意識を失ってしまいそうな神主を見ながら、由良はただ強く頷くしかなかった。この状況をどう説明していいのか、正直、頭の中は混乱していたけれど、なんとか倒れないでいられているのが由良自身しかいない。だから、もう一刻の猶予もない。

 呻きながら床に伏す神主から離れると、由良は小走りに社務所に向かった。

 焦っているせいか、何度も足が縺れた。

 その度に転びそうになる。


 冷静にならなければ。


 しかし、そう思うと余計に焦燥が高まってしまう。


 ぐちゃぐちゃに絡んだ思考回路。

 自分でももどかしいほどに動かない足。

 急げと言う警鐘が、やかましく耳元で鳴り響く。


 そうしてようやくたどり着いた社務所で、震える手で受話器を掴んだ。そして一度大きく息を吸い込んで深呼吸をする。

(とにかく、どこで、どんな状況で、何人倒れたか、それだけ伝えよう。そして原因は分からず、何とか倒れずに済んだのが自分だけなんだ、って)

 無意識にも手はぶるぶると震えている。ダイアルを押そうとする指も、まるで寒さにかじかんだように感覚が鈍くなっていた。

 正確に一、一、九と三つのボタンを押すだけなのに、上手く動かない。

 口の中が異常なまでに乾いた。

 たった三個のボタンを押し終えるまでにどれくらいの時間を要しただろうか。それは一時間のようでもあり、一秒のことでもあるように思えた。

 受話器を耳に当てる。


 まるで、救助のロープが一本降りて来たように、呼び出し音が小さく聞こえた。


 聞こえたような気がした。


 ……いや、違う。


 聞こえない。


 呼び出し音が聞こえない。


 由良はさらに焦った。


(押し間違い? それとも、ボタンさえ押せていないの?)


 一度受話器を戻し、もう一度耳に当てる。

 ツーと言う音が聞こえるはずなのに聞こえない。

「何で!? 電話が繋がってない……!」

 冷や水を浴びせられたように、さっと血の気が引いていくのを感じた。


 なんで?

 なんで?

 なんで!?


 ガチャガチャと何度も電話を置いて、取り直しても状況は変わらない。

「電話、通じない……どうしよう……!!」

 由良はパニックに陥ってしまった。

 電話が通じないなんて考えてもみないことだったし、そんなことは想定していない。だから、本当に一体どうすればいいのか分からなくなった。

 落ち着きをなくし、由良は受話器を投げ出すようにして戻すともう一度、拝殿に向かって走った。

 もう誰かの指示を仰がなければ、由良は何をしていいのか分からないくらいまで焦燥しきっていた。

 自分の心臓の音だけが、鼓動だけが、耳障りなほどよく聞こえた。

 必要以上に息が上がった。酸素を求める体と脳が、冷静さを取り戻させるよう一心不乱に由良に呼吸するよう命じている。だが、どんなに呼吸をしても、一向に冷静さは戻らない。

 時間を追うごとに余計なまでに混乱を煽った。

 拝殿までの距離がとても遠い。

 遠い、遠い……しかし、遠くとも由良はそこへ行き着くより他の選択肢はなかった。


 あと少し。

 渡り廊下を渡って、角を曲がれば。


 だが、そんな由良の足が、ふと、止まる。

 渡り廊下のちょうど真ん中辺りに、人影が見えたからだ。

 しかし、由良はその姿にほっと胸をなで下ろすことなど出来なかった。


 ぞわっと全身の身の毛が弥立ち、血の気が引く。


 渡り廊下の真ん中にいる人物は言った。

「遅かったわね。デンワとやらは通じたの?」

 にんまりと、ヒトを喰ったように真っ赤に染まった唇を妖艶に歪ませて、彼女は笑った。


 何処かで聞いたことがあるような声だと思った。

 それに、その後ろ姿。

 由良はぶるっと身を震わせると一歩後じさった。

「顔色が悪いわ。どうかして?」

 そう言って相手は、まるで烏の羽根ような黒髪を、ふわりと靡かせて振り向いた。

 象牙色の、作り物の人形のような肌に浅蘇芳の瞳を煌めかせて、彼女は由良を見ている。


 魅惑の美貌。


 けれど、それは妖しいほどの蠱惑に満ちていた。


 由良の全身に、戦慄が走り抜けた。

 そしてそれと同時に、由良は分かってしまった。


 目の前の女が、人間でないと言うことを。


「あなたは、だれ?」

 声が声にならないくらい縮み上がっていたが、ようやく震える唇で由良はそれを問いかけた。


「あら、失礼ね。ずっと一緒に居たじゃない? それなのに、アタシを知らないって言うの?」

 誰? ずっと一緒? 知らないはずがない?

 問いかけたはずの由良が、逆の設問に答えを窮した。

 上半身だけ振り返ったまま、その美しい女性は由良の返答を待った。だが、一向に答えが返ってこないことに少し落胆した表情を見せる。

「そうね、分からないのなら仕方がないわ。あなたはどんなにアタシが操っても、言うことを聞かないような娘。……本当にイライラしたのよ!!」

 急に大声を上げられて、由良は再び身を縮こまらせた。

「ねえ、これ、見えるでしょ?」

 ようやく由良の方に向き直った女は、両腕で何かを支えてながら引きずっていた。

「加奈!?」

 由良は目を疑った。女が引きずっていつのが、妹の加奈であることに。でも、そこに居るのは間違いなく加奈だった。

「これ、私にくれないかしら?」

 女は不敵に笑うとそう言った。

 意味が分からなかった。

 くれないか、そう問われても、与えるものでもなければ、譲るものでもない。それと同時に、由良が決めていいことではなかった。加奈は一人の意志を持つ人間なのだから。

 由良が答えあぐねていると、女はかんしゃくを起こしたように、加奈を床の上に投げ捨てた。

 加奈はその拍子に強く顔を打ったようだった。かなり痛かったのか、眉をしかめるが目を覚ます様子はない。


(非道い!!)


 由良は一瞬、頭に血が昇った。

「なんてことをするの!?」

 感情に任せて由良は叫んだ。しかし、目の前の女はそんな由良を見ても顔色ひとつ変えなかった。

「この程度で、アタシを非道い女扱い? …これを見ても同じことが言えて?」

 その言葉と同時に、次に起こった出来事で由良は再び足が竦んだ。


 それは女がかざした手に、導かれるように集まった。


 最初は薄い霧のように白くて、向こう側まで透けるほどの儚げなものだった。

 だが、次第に一カ所に集まると雲のように纏まって、そしてえもいわれぬような美しい色で輝きだした。

 そして時々、色を変え様々な表情を見せる。玉虫の甲羅ように。

 だが、何故だろう。とても美しいモノを見ているのに、薄ら寒い悪寒だけが足先から這い上がって来る。

「これ、なんだと思う?」

 由良はその玉虫色の美しい雲のようなモノに見とれて、それが何であるかなど考えも及ばなかった。

「これは、ヒトダマよ」

「ひとだま……?」

 言われてもピンと来なかった。

 「ひとだま」と言う単語を聞いたことはある。だが、それが「人魂」であることに由良は考えも及ばなかったのだ。

「そう、人魂。この娘の人魂よ。これがなくなれば、この娘は死ぬわ」

 その言葉に、由良は気づいた。


 足元から伝わって離れない、悪寒の理由。


「……死ぬ?」


 死ぬ? 加奈が、死ぬ……?


「そうよ。アタシはこれが大好物でね。今すぐにでも食べてしまいたいくらいよ」


 意味が分からない。


 食べる?

 大好物?

 死ぬ……?


-------------- 魂が取られてなくなれば、ヒトは死んでしまう。


 その答えにようやく達した時、女の言葉の意味が理解出来た。


 目の前の美しい女が、急に死神のように見えた。


「嫌……やめて……!!」

 咄嗟に声を張り上げ、どうにか一歩踏み出した。


 やめさせなければ。

 加奈が死んでしまう。

 そんなのは、嫌だ。


「動くんじゃないよ!」

 吹き荒ぶ吹雪のような強烈な勢いと、冷たさを孕んだ声が由良の動きを停止させる。その冷たさはきっと殺気だったに違いない。

 その殺気に気圧された由良は、自分の気持ちとは裏腹に体の自由を奪われた。

「……交換条件よ」

 女は突如、先ほどまでの殺気を押し沈めると提案してきた。

「まずは、それ」

 視線がふと下げられた。

「それ、捨てなさい」

 女は由良の腕の辺りを見つめている。とても恨めしげな目は、炎のようにメラメラと燃え上がるような憎しみを浮かべ、浅蘇芳色の朱が一層濃くなったようにさえ見えていた。

 何を見て、そこまでの憎悪を振りかざしているのだろう。

 由良には分からない。

「……そんな忌々しいモノをぶら下げて、本当に気分が悪い。そいつのせいで、アタシはあんたの側に戻れなくなった。イツバの小賢しい餓鬼め」

 独りごちするように、ぶつぶつと何か言っているが由良にはその言葉の意味が分からない。もたついていると、女からの叱咤が飛ぶ。

「早く捨てなさい! その腕に掛かった胸くその悪い石を!!」

 びくりと体が震えた。ようやく女が何を指してそう言っているのか理解出来た。すぐさま左の腕を上げて一瞥する。

 朝の澄んだ空気の中で、その蒼い石は輝いた。

 銀河に満天の星を浮かべたような、その蒼天煌石。

 八重樫麻紀と言う人から、持っていて欲しいと頼まれた石。

「な、何故!? どうしてこの石を捨てなきゃならないの? 加奈のこととは関係ないでしょう?」

「関係あるのよ!」

 矢継ぎ早に、由良の語尾をかき消すほどの声で、女は言った。

「言ったでしょ? アタシはその石のせいで、あんたに近づけないって。……そうか、あんたは何も知らないのね」

「知らない……?」

「まあ、確かに知る必要はないかもね。一介のヒト風情が、この世界の理に関わるなんて畏れ多いも甚だしいと言ったところかしら。見えぬモノに関わることなんて、出来もしなかったくせに、餓鬼があんたにそんなもの渡したせいでアタシやアタシの世界、彼岸と此岸、ヒトとアヤカシの関係に首を突っ込むことになるなんて……ある意味とても可哀想ね」

 女は能弁に語ったが、由良には意味が分からない言葉の羅列だった。


 この世界の理。

 此岸と彼岸。

 ヒトとアヤカシ。


「なんの……こと……?」

「ハクジの欠片なんて持って産まれたばっかりに、本当に可哀想。もっと可哀想なのは、知らなくていいはずの世界を、知ってしまったこと」

 流暢な声で話していた今までと、その途端一変した。

「そして、あんたには何一つ分からないままに、終わるってこと」

 様変わりした口調に、由良は急いで手首の石を外した。無言の圧力。早く言うことを聞けと、女の態度が雄弁に語ったのだ。

 そして由良は外した石を、ゆっくり床に近づけると滑らせるようにして遠ざけた。この瞬間、自分が酷く無防備になったような気がした。 

「賢い娘ね。言うことを聞けば、犠牲が減るってちゃんと頭で理解出来てる」

 女はにやりと笑った。

「あの……教えてください。ひとつ、一つだけでいいんです」

 女の笑顔を見て、少し機嫌が戻ったのだと思った由良は思いきって一言放った。

 小首を傾げた女の態度に、質問を継続していいのだと感じた由良は続けた。

「ハクジの欠片って、一体何ですか……?」

 女が言った数々の言葉は疑問に満ちていた。全てが分からないものだらけだった。

 その中でも、特に引っかかったのが「ハクジの欠片」と言う語彙。たくさんの単語の中、頭の中から抜け落ちることがなく、ずっと残ったその言葉。

 女は顔を顰めた。眉間にしわを寄せると、厳しい顔つきになる。

 それはきっと、一番触れてはいけないことだったのかもしれない。

 しかし、一度声に出したものを引っ込めることはできない。

 いっそ訊かなかったことに、無かったことにすればよかった。

 だが、由良は怖じけるより知りたい気持ちの方がずっと強かった。

「教えて。ハクジの欠片って何?」

 畏怖よりも好奇心は遙かに勝っていた。むしろ、訊かなければならない使命感すら感じていたのかもしれない。それを知らなければ、これから先、何も始まらない気がした。

「……良いわ。アタシも良くは知らないけど、知っていることは教えてあげる」

 まるで由良の気持ちに負けたように、女は口を開いた。

「ハクジの欠片……白磁の欠片は、かつてヒトの中に落ちた鬼よ」

「お……に……?」

「鬼は禁忌の遊びを犯し、自らに封ぜられ、ばらばらになって散って姿を隠したのよ。別に、「鬼の欠片」とも言われているわ」

 ますます分からなくなって来た。


 白磁の欠片は、鬼の欠片。

 自分自身に封じられて、そしてばらばらになって、散り散りに消えた。

 鬼は禁ぜられた遊びをしでかした。

 

「その欠片が、あんたの中にあるってそれだけの話よ」

「……全然分からないわ! 人の中に落ちた鬼って何!?」

「それ以上はアタシも知らない」

 女の態度は知っていることを隠しているような感じではなかった。本当に知っていることを全て話した、それだけと言う体だ。


 謎はさらなる謎に続いていた。


 白磁は鬼の欠片。


 鬼とは?

 禁じられた行為に、自らを破滅させた?


 由良は深まる謎に不安を隠せなかった。


 ただひとつ分かったのは、その白磁の欠片が自分の中にあると言うこと。


「あんたには何一つ分からないままに、終わるってこと」


 先ほどの女の声が頭の中で反芻した。

 本当だ。

 情けないくらい、何も分からない。


「さあ、もういいでしょ? 今度は、あんたの人魂をアタシに寄越しなさい」

 その要求はあまりにも性急過ぎた。

 一瞬、考えが硬直する。

「そうすれば、この娘は助けてあげる」

 私の魂を?

 そう考えただけで、背筋がゾッとした。

 倒れている加奈に自分を重ね、体から雲のような綿を取り出されて、それを目の前の女が口に含む姿を想像して。


 無理だ。


 体が否定した。

「さあ、どうするの?」

 いきなり突きつけられた選択肢に由良は戸惑うしか出来なかった。

 加奈を切り捨てて、自分は助かるか。

 それとも、加奈を助けて、自分は死ぬか。

 二つの選択肢が突如表れて、ぐるぐると回り始める。

「早く決めて。アタシ、気が短いから……あまり待たせると、この娘の人魂を食べるわよ?」

「ダメ、やめて。加奈を殺さないで!!」

「じゃあ、あんたの魂、アタシにくれるのね?」

「……できない、そんなこと、私は選べない」

「どっちかしか選べないって言ってるでしょ!!」

 急かされて、さらに由良は焦った。


 どうしよう、どうしよう!!

 選ぶ事なんてできない、どちらも捨てられない!!


「現実を見せないと分からないようね。いいわよ、本当にアタシがこの娘の人魂を食べるところを見せてあげるわ」

 そう言って、かざした手のひらに集まった玉虫色の靄を取り上げて口元に運んだ。

そして、すうっと息を吸い込むように口をすぼめると、するんと靄の一部が女の口の中に吸い込まれた。

「う、ぐ……!!」

 すると床に横たわった加奈が、急に苦しみ始めた。胸元を掴むと息苦しそうに荒い呼吸を繰り返す。見る間に顔色が褪めて行く。遠くから見ていた由良でも、それがはっきりと分かった。

「やめて!! お願いだから、もうやめて!!」

 加奈はあんなに苦しがっている。

 その姿を見ただけで、由良は涙が出た。

 女が「ひとだま」を食べると言うことの意味をようやく理解した。あの女は、ヒトの魂を食らうのだ。それは、はったりでも、虚勢でもなんでもない。

「……お願いなんてされても、あんたたちのどちらかにしか生きる権利は与えられないって言ってんのよ!! さあ、早く決めなさい。十秒以内に。泣いたって、アタシの気持ちは動かないわ」

 答えを決めるまでにたった十秒しか与えられない。

 十秒。

 こうして考えている間にも、時間は無慈悲にも進んでいく。

「九」

 加奈は大切な家族だ。

「八」

 加奈の存在に助けられたこともたくさんあった。

「七」

 それを切り捨てることができるのか?

「六」

 じゃあ、自分の魂を目の前の女に差し出すことが出来るのか。

「五」

 あんな風に苦しんで。

「四」

 苦しんで、苦しんで。

「三」

 でも、生かされた時、自分と加奈との命を天秤に掛けて、計って、残った自分にどれだけの悔いが襲うだろう?

「二」

 何も分からないで生き残る加奈と、知って残る自分との、後悔と咎めの大きさはどちらが大きいのだ?

「一」

 それなら。それならば。


「零」

「私を殺してっ」


 二つの声が重なった。

 紅の唇が三日月のように綺麗な弧を描く。


「わたしを、ころして」

 もう一度、確かめるように由良はか細く声を上げた。

「そう。それならば話は早いわ。潔いことは、美しいわよ」


 これで、これで良かったのだ。

 これで、加奈は助かる。

 死なないで、済む。


「さあ、こっちにいらっしゃい」

 女の言葉に導かれるように、由良はふらりと一歩前に歩み出る。


 なにもかも、こうすれば全て終わる。

 自分以外は誰も傷つかなくて済むのだ。

 それが一番良い選択。


 もう、ほんの一歩と少しで由良は女の手の届く範囲まで近づいていたが、その刹那。

 疾風のように、一つの黒い塊が二人の間に割って入って来た。 いや、正確には女の腕に飛び掛かったように見えた。

 由良は我に返ったように、慌てて後退る。

「くそっ!!」

 毒づいたと同時に、女は黒い塊の勢いに押し退かた。その手から靄……加奈の人魂がほろんと落ちる。

 手から転げ落ちたそれは、加奈の体の上で一度弾むとすぐに体の中に吸い込まれた。

「こいつ、狗神!!」

 ほっとしたものつかの間、由良が視線を転じると、女と見覚えのあるものが激突していた。

 それは、見間違うはずのない、由良の記憶に残る生き物だった。

「左京ちゃんっ」

 振り解こうとしている女の腕に牙を剥いているのは、八重樫が連れていた左京と言う名の犬だった。

 だが、その犬は由良の知る左京とはかけ離れていた。

 左京の形相は見たことがないくらい鋭く攻撃的だ。目を血走らせ、女の腕を食いちぎらんばかりの勢いで、どんなに女が抵抗しても左京は決して女の腕から離れなかった。

「この、忌々しい狗神め!」

 女は苛々しながら、左京を軽蔑した。そして、噛みつかれていない方の腕を振り上げる。

 振り上げた瞬間、女の指先に鋭く閃光が走った。そしてその鋭利な瞬きは、左京を振り抜く。

 由良は反射的に目を塞いだ。

 ぎゃんと引きつれた叫びが辺りに響き渡る。慌てて目を開くと、女の腕から左京の姿が消えていた。その代わりにごく薄い紅色のものが着物の袖を汚していた。

 由良はその薄紅色のものが、人間にとっての血液のようなものなのだと思った。だからあんなに肌が透き通るように白く、血の気のないような青白さを持っているのだろう。

 左京は飛ばされたのか、数メートル向こうで猛り狂っていたが、その横腹には三つの大きな裂き傷が浮かんでいる。

 由良は再び女を見た。右手の爪が鋭く伸びている。まるで鋭利な刃物のように光り、その刃先を左京の血で濡らしていた。

 女は舌打ちをすると、急に方向を変えて中庭の方に走り去った。深い傷を負ってもなお猛狂う左京は逃げた女の後を素早く追った。

 由良もいてもたってもいられなくなり、一人と一匹の後を追おうと思った。

 だが、その前に倒れた加奈をどうにかしてあげないとと思い当たり、由良は少し先で未だ倒れたままの加奈に近づいた。

 そして、恐る恐る、加奈の顔に耳を傾ける。


 呼吸の音がする。

 加奈はちゃんと生きている。


 それを知った瞬間に、少しだけ肩の荷が下りた気がした。

 由良はほっとしながら、加奈の体を引っ張り上げて、引きずるようにして渡り廊下の向こう側へ移動させた。

 本当はもっと安全そうな場所へ連れて行きたかったが、飛び出して行った女と左京のことも気になっていたので、加奈はとりあえずと言う形で建物の中の壁に体を預けさせる。

「ごめんね、加奈。すぐ戻って来るから、待っててね」

 「すぐ戻る」と言った自分自身に引っかかりを覚えながら、意識を失った加奈に語りかけると由良は一人と一匹が走り去った方に向かった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ